旅行が楽しいことと、作品が面白いことの相関
一人で旅行する時は、ものすごく高揚感に満ち溢れている。そこに、何があるのか。誰と出会うのだろうか。自分がどう変化するだろう。など、様々な高揚感。
面白い作品を味わう時は、ものすごく集中する。彼ら彼女らは素晴らしい。彼ら彼女らはどうなっていくのか。彼ら彼女らは最後にどう変化するのか。など、様々な期待感。
両方において、私は一つ、極めて大きな共通部分を見出している。
それは、快楽だ。
快楽が、自分を高揚感や集中にいざなっている。あるいは、高揚感や集中の状態にある時は、必ず快楽が同居している。
前に、とある質問投稿サイトでこんなものがあった。
「いじめマンガがつまらないのはなぜですか」
それに対する回答の一つに、
「聲の形を見てください」
というのがあった。しかし質問者は
「つまらない」
と返信していた。回答者は
「あんなすばらしい作品に共感できないなんてかわいそうですね」
と返信し返していた。
(一言一句正確に覚えているわけではないことを了解して頂きたい)
私は、この質問に対してこう答えた。
「いじめられている者を俯瞰して快楽を得ることでしか、人間はいじめの醜さを理解できない。いじめられている人への共感もできなければ、いじめをしてはいけないとも感じられない。人間とは出来損ないの有機体だ」
なぜこうも醜い回答をしたかというと、きっと質問者はいじめマンガが嫌いで、もしかしたら現在進行形でいじめを受けている、または過去に受けてそれを忘れられずに苦しみを思い出すことがあるのだろうと推測したからである。であるから、私に対して質問者は
「そうですよね」
といったような返信をしてきた。
質問者は快楽を得られたと思う。そのためか、すでにその質問は削除されている。
快楽というのは、人間にとって極めて強力な駆動力ではないだろうか。
旅行先に、意味もない住宅街を選択する人がいるだろうか。もしいるのならば、彼は住宅街愛好家だろう。
自由電子論を延々と解説する登場人物しか出てこない小説を読む人がいるだろうか。もしいるのならば、彼は普通の教科書に飽き飽きしているだけだ。一コマ一コマが数字しか書かれていないマンガを読む人がいるだろうか。もしいるならば、彼は眠気を求めている。一味唐辛子がビンからこぼれるだけの二十数分アニメを見る人がいるだろうか。もしいるならば、彼はこの世の人ではない。
たいていの人は、快楽を抱いた状態でその先へ進んでいるのではないだろうか。
逆に言えば、快楽が抱けなかったら、見てもらえずに帰られる。
*
特に物語を作る場合、「自分の心を表現したい」という欲は、「人に見てもらいたい」という欲と必ずしも重なってはいない。自分自身がそうだった。何度も推敲を重ねてアップロードしても、読まれない。そういう時、「自分の~」という欲にあまりにも重きを置きすぎていた。人に対して快楽を与えようなんてこれっぽっちも思ってなかった。なんで自分が何もかも知らない電子の海の住人に、快楽を与えなきゃいけないんだと。むしろ快楽とは対極にある事柄を文章にすることに意味があって、そういう事柄を理解できるツールが小説なんじゃないのかと。
これは間違いだった。
人は快楽を必ず求めて、訪れる。そして求める快楽が得られなかったら、直帰する。旅行でも、作品でも。
そんな気がする。
でも本当は、小説を書くことで自分の心を表現したい。
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