純粋な心情
ドビュッシーの前奏曲に「沈める寺」という、日本的なイメージを湧き起こさせるタイトルの曲がある。
私がこの曲を最初に知ったのは、確か中学生のころだった。荘厳な、それでいて幻想的なイメージが、クソガキみたいな中坊にさえも鮮明に湧いた。もっと具体的に書く。
とある森林を少し入ったところに百畳くらいもある広い池があって、水面が風景を反射している。森林の中はもやがかかり、特に水面付近に顕著だ。無秩序に枝を伸ばす広葉樹が池のあちこちに点々と生え、なぜか波立っている水面に無秩序な枝が反射している。同時に、もやっぽい景色全体も反射している。池の中央よりやや左にずれたところに、中くらいの大きさの寺がひっそりと建っている。その寺も水面に反射し、波立つ水面は寺の実像を揺らめかせている。ときどき、胸に、岩のようにどっしり重い鐘の音が響き、それが水面の波の根源に思える。
言葉で書くと妙に煩雑だが、実際は、そういう光景が一瞬で思い浮かんだ。
あるとき、「金剛輪寺」という寺の庭で、縁に座って、池を眺めていたことがある。なぜそんなことをしていたかというと、「沈める寺」の現実的な例を見つけるため。私は「沈める寺」をイヤホン越しに聞きながら、風景を眺めていた。
結果から言うと、「金剛輪寺」の庭こそ、「沈める寺」の具体的な例だと思った。庭は、森林の中にあるわけでもなく、池は百畳もないし、池の中の島に広葉樹が植えられていた気がするものの、無秩序ではなく、ちゃんと手入れされていたように思う。もやはかかっておらず、鐘の音も鳴っていなかった。唯一水面は揺らめいていたが、それは風が吹いていたからだ。
なぜイメージと違う寺の庭が、「沈める寺」の具体的な例だったか。それは、モミジの種が風に乗って、ひらひら、くるくる、と、のんびり地面に向かって降下していたからだ。
それ単体を見ただけでは、おそらく何も感じなかっただろう。しかし、「沈める寺」と一緒に見たことによって、明らかにその光景を「沈んでいるなぁ」と感じた。庭の光景がメロディーを説明し、メロディーは庭の光景を説明していたのだ。そして私はその二つの説明を直に聞いていた。
かくして、私は新たなる「沈める寺」のイメージを得た。これは、「金剛輪寺」を訪れなければ一生得られなかったイメージである。こう書くと、どこかに別の「沈める寺」が潜んでいるかもしれないと思って、近くの寺院を訪れたことがある。そこの庭は、全然「沈み」が足りなかった。
最初に「沈める寺」を追い求めたときの純粋な心情にこそ、新たなるイメージをもたらす力があったのかもしれない。純粋な心情を意識することは非純粋な心情であるので、次に「沈める寺」のイメージが得られる日を、私自身も知ることはないのだろう。
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