第38話

 演習が終わり、一ヶ月が過ぎた。

「はっ、はっ」

 規則的な呼吸が、少年の耳元で響く。籠ったよう感覚が少しだけ楽しくて、耳を澄ました。

 額を汗が流れ目に入ったので、まばたきで振り落とした。拭おうとした腕はこちらも汗でベタベタになっている。

 今、少年の身を支配するのは、濡れた服の不快感と、熱による高揚感。駆ける少年の姿が、朝靄に透けて浮かぶ。

「はっ、ふっ、ふっ」

 目印の校門が見えてきた。最後の直線、地面を掴むように踏みしめ、一気にスパートをかける。

「はぁっっ!」

 吸った息を全身に巡らせ、そこからは無呼吸で走り抜ける。近づくゴールに、顎が上がる。それをぐっと引き下げ、前傾になりながら駆け抜けた。

 しばらく慣性のままに足を動かし、約十五メートル先で足を止める。

「っっ、ふぅー……」

 呼吸を落ち着けながら、ふと遠くを眺める。汗が風に触れ、心地よい涼しさに思わず目を細める。汗が目に染みて、ぼやけた視界なのに、いい景色だな、なんて思ってしまった。

 上川魔専は北の大地でも温暖な方ではあるが、それでも本州よりは高緯度に位置するため、朝方の気温は低い。冷たい澄んだ空気に照らされる山々は、雄大で美しい。

「んっ……」

 置き去りにしていたクーラーバッグからスポーツドリンクを取り出し、ゆっくりと嚥下していく。体調的にはぬるめが理想的らしいが、一緒に入れていた保冷剤のおかげでひんやりと冷たい。

「っぱぁ……。やっぱこの瞬間が……」

 最高なんだなぁ〜とは続けずに、再びペットボトルに口をつける。独り言なんて虚しいだけだと気づいたからか。

 それにしても、と、熱の引いてきた頭で思う。

 走り続けることはこんなにも辛く、そして心地良い。

「標語にしたいぐらいだね」

 おっとまたも独り言だ。と、誰に向けてでもなく口を隠し、そのまま袖で口元をぐいっと拭った。


 毎朝の早朝ランニングが日課になったのは、いつからだっただろう。

(もう一年近く続けてるのか……)

 正確な日は覚えていない。だが、きっかけは覚えている。

「…………よいしょっ、と」

 思い出そうとする頭を振り払い、わざとらしく大股で、帰路に着いた。


 ここ上川魔専にも日常が戻っていた。

 だが以前とは少し異なり、そこに異学科の生徒が混じって過ごす姿が増えていた。

 以前にも戦闘科と医療科が混ざり合った集団はあったものの、それは四回生や五回生といった上級生達ぐらいで、斎藤達二回生は、あまり関わり合うことがなかった。

 だが、今はほとんどの同級生が科を跨いだ交流を築いている。

「例年この時期になると多いらしいよ〜。カップル成立」

 斎藤が窓の外をぼけっと眺めていると、ニヤついた声を隠さずに明石が話しかけてきた。途端に眉を顰める少年を見てまたニヤニヤしつつ、明石はその肩にもたれかかった。

「重い」

「男女の組み合わせも結構多かったしねぇ。演習中にデキるってのは流石に聞いたことないけど、キッカケには充分らしいよ」

「あっそ」

 鬱陶しいとばかりに背を向ける斎藤。構ってもらえない明石はむくれた顔をしてべしべしと肩を叩くが、反応は返ってこない。仕方なしに何も言わず離れていく彼女を、背中で感じながらも視線は向けないままだった。

(八つ当たりだってのはわかってんだけどな……)

 自分がイラついてるのはわかっていた。今朝のランニングも、胸に浮かぶ後悔から目を逸らすようにハイペースで走っていた。

 いらつきの理由はわかっている。演習中に得た知己ーー真木と雪村の存在だ。

 あの演習以来、結局一度も顔を合わせていない。あれだけ迷惑をかけて、そして助け合った彼女達に何も言えていないことが、酷く自己嫌悪を抱かせる。

 だが、おいそれと顔を合わすわけにはいかない事情があった。

(俺はあのとき、女装してたんだからな……)

 女装がバレるのは勿論恥ずかしいが、それ以上に同性だと思って接してきていた彼女達を裏切ることが、それを告げるのが怖くて仕方がないのだ。

「どうすっかなー……」

 手の中でボールペンがくるりと回る。掴み損ねて落ちたそれを拾う背中を、明石はじっち見つめていた。

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