終章
最終話
平日の昼間、横浜駅はそれでも混雑していた。私は地下街の本屋に寄り、平らに積まれた本を一冊手に取った。白い紙に赤い文字でタイトルが刻まれている、分厚い並製本だった。帯には知られざる真実だの隠されてきた本当の事実だの適当なキャッチコピーがこれでもかと躍っている。
私はため息をついてからレジへとそれを持ち込む。表示された金額は二千円だった。二千円、と私は思った。こんなバカバカしい本が二千円もするのかという呆れと、一冊当たりわずか二千円を得るためにこんなバカバカしい思想が広められているのかという怒りが一瞬だけ沸いた。それから私はただすべての感情を捨てて金を払った。これで私も普通の日本人になったんだろうかと苦笑する。何せこの本――アフター・ザ・ダウンフォール――は先月からずっと売れ筋一位の新刊だった。
喫茶店に行き、コーヒーを飲みながら時間を待った。エムから貰った切符を眺める。それはのぞみ134号の指定席券だった。6号車5列目のA席、横浜駅から一宮駅までの。ガラスの壁越しに店の外を見ると、人波は途切れることがなかった。コンコースには靴音が重なって響いている。その光景を見ていると、私は何だか全てがどうでもいいことのような気がした。ここにはこれだけ人がいて、そして結局みんな同じことしかしていないのだ。じゃあ私は何で悩む必要があるんだろう。私だって所詮この中の一人にしか過ぎないのだ。
そう思うと、私は途端に後悔に襲われた。私はもしかすると取り返しのつかないことをしているんじゃないかと思った。こんな場所でコーヒーを飲んでいる場合ではないんじゃないのか? 私は今日とりあえず一宮へ行って、どこでもいいから泊まり、適当に仕事を見つけて定住するつもりだった。今までの貯金を食いつなげばそれでもまあ死なない程度には生きていけるだろうと思っていた。でも私が今日やっていることはただの無断欠勤にしか過ぎない気がしたのだ。一週間では仕事は辞められない。だから、今日からもう職場には行かず、携帯電話も電源を切って過ごすつもりだった。ほとんど失踪するように移住しようと思ったのだ。親には今日の夜ぐらいに、もう取り返しがつかなくなってから報告するつもりだった。協力を強制するつもりだったのだ。
私は今になってそれがとても子供じみた幻想にしか過ぎない気がした。今からでも携帯の電源を入れて、出勤するべきなのではないかという思いに駆られた。怒られるだろうし評価はぐんと下がるだろうけど、そんなことはごく当たり前のことじゃないかと思った。胸を埋めたのは焦燥感だった。三十になってまで何をやっているんだと思った。自分で自分に呆れた。
携帯を取り出し、電源を入れる。いくつかの着信履歴と、エスからのメッセージが届いていた。『大丈夫?』という文字に胸が痛くなる。私は彼女すら捨てようとしていたのか、と今更ながら思った。
電話を掛ける。一回目のコール音が聞こえる。その電子音は一瞬で私にこれからのことを想像させた。三回くらいで電話が掛かり、私は何度も謝りながらなんとか平和的にこの問題を解決し、明日にはまた今までと同じ日常が始まる。銀座線はいつも不快なまでに混雑し、渋谷には再開発のビルがにょきにょきと生えそろってゆく。私はそんな中を何も進歩できないまま生きていく。二十歳の私と三十歳の私の間に信じられないくらい成長がないのと同じように。結局そうやって人は不完全なまま何とか文明を繋いできたのだ。
電話を持っていた右手が突然掴まれる。私は思わず携帯を落としてしまう。気付くと、目の前にはケイが息を切らしながら立っていた。右手を掴んだのは彼だったのだ。
「どうして」
信じられない思いで彼を見る。彼は我に返ったかのように私の手を離し、軽く息を整えてから言った。
「エムに聞いたんだ。今日お前が一宮に行くから、早く行って見送れと」
「エムに?」
「久しぶりに連絡が来たと思ったらそれだ。俺も驚いたよ」
彼は私に許可を取ることもなく対面の席に座った。ケイに拾われた携帯は既に通話を終了していた。私は小さくため息をついてからそれをバッグへと収める。
「エムは来てないの?」
「あいつは今日出張らしい。私は来れないからあんたが行けと言われた」
「いつ?」
「今日の午前中だ。急な話で、今は昼休憩を抜け出してきた」
「もう一時半よ?」
「お前が見つからないのが悪い。戻ったら間違いなく絞られるな」
彼はそう言って笑った。久しぶりに見る彼の笑みは、それでも昔と全く変わらなかった。悪戯っぽい口調に、屈託のない笑顔。むしろそれは最近の彼よりもよっぽど子供の頃の彼によく似ていた。
そうだ、と思った。彼の本質はきっとこの笑みの中にあるのだ。彼は善良な悪戯っ子だった。些細な規則よりも自分が重要視している何かを追求することを選んでいた。私がみんなに避けられるようになっても決して交流を止めなかった。
なんだ、彼だって変わっていないじゃないか、と私は思った。彼はエムと付き合い、就職し、横浜に移り住んだ。どの場面でも私は彼がどこか遠くに行ってしまうように感じた。
でも彼はずっと同じだったのだ。――私を気にしてくれるところすら。
改めて見ると彼はうっすら汗をかいていた。春が近づいているとはいえ、まだずっと寒い日だった。私の目の前には熱いアメリカン・コーヒーが湯気を立てていた。彼は私を探し回っていたのだ。横浜駅にいるかもしれないというエムからの情報だけで。
ケイは上着を脱いで椅子に掛け、カウンターへと向かった。しばらくすると彼は冷たいミルクティーと共に再び現れ、ストローでそれを一口飲んだ。
「どうして一宮に?」
彼は聞いた。
「エムに言われたの。あなたは西へ行くべきだって」
「それだけか?」
「それだけ。衝動的すぎるくらい衝動的な理由よ」
私がそうぶっきらぼうに告げると、彼はまた少し紅茶を飲んでから言った。
「いいんじゃないか?」
「何が?」
「君は行くべきだ。西へ」
彼はそこで一息ついて続ける。「迷っているなら、いっそのことこのまま進め」
私は何も言わなかった。納得したわけではない。ただ返す言葉が見つからなかったのだ。このまま一宮へ行くのは無責任だとか、私の人生についてそんな風に知ったような口を利かないで欲しいとか、そういう気持ちが渦を巻いていた。でもたとえそれを口に出しても、きっと彼に反論されることは分かり切っていた。だからただそういう感情を抑えて表に出さないことを選んだのだ。
私の不満気な顔を見たのか、彼は紅茶を飲み切ると上着を羽織ってから告げた。
「服を買うぞ」
「服?」
「君の服だ。僕が選ぶ」
「何それ。私良いなんて言ってない」
「悪いとも言ってない」
彼はそう言って私を目で促した。考えてみれば、どうせ今帰ったところで無断欠勤の身、何をすることもないのだ。ため息をついて応じる。
「早く帰らないと怒られるわよ」
「どうせ今帰っても怒られる」
残りのコーヒーを流し込みつつ嫌味を言う私に、彼は肩をすぼめてそう返した。
駅ビルにはカジュアル・ファッションのお店が並んでいた。先導する彼の少し後ろを、私は少し楽しくなりながら歩く。彼がどんな服を選ぶかにも興味があったし、そもそも彼がそうやって女性ものの服を真剣に選ぶ姿を想像すると少し面白かった。
「ねえ」
私は話しかける。「何か展望はあるの? この店で選ぶ、とか」
「ない」
きっぱりと断言する彼に、私は少し笑いながら答えた。
「それでよく私の服を買うなんて言ったね」
「いや、単に一度してみたかったんだ」
「何を?」
「君の服を選ぶことを、だ」
私は何も言えなくなった。少し照れるような声色に、茶化す気持ちが消えてしまったのだ。それと同時に妙な高揚感が私を襲った。ケイは本当に私のために服を選んでくれるのだ、と私は実感した。それに服を選ぶほど彼が私のことをよく見て、私の服を見ていてくれていたのだと思うと震えるほど嬉しかった。
そして私たちは、私がいつも服を買うような店から少しだけグレードの高いブランドの店に入った。彼は一つずつ私の服を決めていった。シャツから始まって、ロングスカート、上着まで。
彼は良さそうなものを一つ選んでは私の前に持っていって合わせ、目を細めて決めていった。私はそれを変にドキドキしながら見ていた。私なら見もしないようなひどいデザインのものもあれば、自分で選びそうなものもあった。いつも着ているようなものもあれば、着ないようなデザインでも意外と気に入るものもあった。そして彼はそうやって全部の服を選んでしまった。
着てみると、少しずつ自分のチョイスとは違っていて、でもびっくりするくらい似合っていた。いつもより大人っぽく、それでいて鮮やかだった。
試着室から出ると、彼は若干不安そうな顔をして待っていた。私は彼の前でゆっくりと一回りして、彼にはにかんだ。
「少し派手じゃない?」
「いや、よく似合ってる」
「私もそう思う。ありがとう」
彼は安心したようにため息をつき、改めて私に向き合った。その真剣な瞳に、私はもう一度問い直す。
「ねえ、どうしてこんなこと?」
「言っただろう? 一度してみたかったんだ」
「どうして?」
「僕の選んだ服を着た君が見てみたかったんだ」
「私が綺麗だから?」
「いや、好きだからだ」
それはあまりにも素直な言葉だった。私は胸が震えた。
「ありがとう」
「泣かなくてもいいだろう」
「私、泣いてる?」
「そう見える」
「そっか。ごめんね」
「なんで謝るんだ」
「わからない。でも何となく、あなたに悪い気がしたの」
彼は首を振って笑った。「大丈夫、何も悪くない」
それから私は少しだけ泣いた。彼は何も言わずにそれを見ていてくれた。結局服はぜんぶ彼が買ってくれて、私は彼の選んだ服を着て店から出ていった。青を基調にした綺麗なコーディネートで。
ケイに見せたかったのだ。彼の選んだ服を着た私を。
「なんだかくすぐったい。私、あなたの選んだ服を着ているのね」
「そうなるな」
「ねえ、なんで青にしたの?」
「ずっと好きだった女の子が、よく青を着ていたんだ」
その言葉に、私はもう一度息が詰まる。それから、自嘲するように言った。
「その子より、エムの方がよっぽど青が似合うでしょ」
私の口から漏れ出したのは、想像していたよりよっぽど卑屈な声だった。彼は驚いたように返す。
「そんなこと、思ったこともなかった」
「嘘つき」
「本当だ。……もしかして、だから最近青い服を着なくなったのか?」
黙って頷く私に、彼は呆れたように返す。
「人と比べなくても、お前に青が似合うのは変わらないだろ」
「比べちゃうよ、そんなの。あなたにとってはどうでもいいことかもしれないけど、私にとっては大きなことだった。青い服を見ると、エムが青いワンピースを着て、あなたがその横を歩いている絵が浮かぶの」
「俺は、青い服を見るとお前が浮かぶよ」
予期しない言葉に、私は立ち止まって彼の顔を覗き込んだ。彼はそのまま続ける。
「ずっと昔、一緒に花火大会に行ったことがあっただろ? 覚えてるか?」
「もちろん」
「あの時はどう話していいのかわからなくて、ずっと無言の時間が流れて、もうお前と会うことはないんじゃないかって思ったんだ。むしろ、それでいいと思った。五月のことが衝撃的で、未だに消化しきれていなかったから」
私は頷いて続きを促す。
「そして急にお前が誰かに突き飛ばされて、俺がそれを支えた」
「覚えてる」
「肩から手を離して、もう一度ゆっくりと立って、お前は言ったんだ。『気負わないで。だって、私たちは同じでしょう?』って。青いワンピースを着て、本当に綺麗なワンピースを着て。俺の脳裏には未だにそれがこびりついている。それを見て思ったんだ。俺はお前と話してもいいんだって」
私は驚いた。そんな記憶なんてどこにもなかったからだ。それでも彼は私に笑いかけて言った。
「きっと、だから好きになったんだ」
「何を?」
「お前を」
彼の言葉は真っ直ぐで、だからそれが嘘でないことはすぐにわかった。
「私、それ覚えてなかった」
「それでも、俺の中で一番鮮やかな記憶だ」
「うん。……ねぇ、綺麗だね。たとえ私が忘れたとしても、あなたは覚えている。私は私が変えた世界に生きているんだ」
私は彼に笑いかけた。ケイも微笑み返す。
「ねえ、頼みがあるの」
私はケイにそう切り出した。顔を寄せた彼の、その耳元に囁く。
「とても大事なこと」
「何?」
彼は今まで私が聞いた中で一番穏やかな声色で問い返した。「どうしたの?」
「本を買って欲しい」
真剣に言う私に、彼は小さく笑いながら答える。
「そんなこと、改まって頼むほどのことじゃない」
「でも、今すぐに欲しいの」
「今すぐ?」
「そう。今すぐに。電車の中で読むから」
彼は少し驚いたように尋ねた。
「行くのか?」
「うん。もう二時は過ぎちゃったけど」
彼は頷く。
「それで、どの本が欲しいんだ?」
「今話題になってる例の本。アフター・ザ・ダウンフォール」
私の言葉に、彼は表情を軽く歪めながら言った。
「それ、あまりいい本じゃない。不愉快だぞ」
「でもいいの。だって私は今からその国に行くんだから」
彼は苦笑いしてから、諦めたように首を振った。
「わかった。買ってくる」
「私、ここにいるから」
食い気味で言った私を、彼はため息をついて見つめる。それから、念を押した。
「本当にここにいるんだな?」
「さっきそう言ったじゃない」
それから彼は私に背を向けて歩き出した。何回か振り向きながら。私はその度に彼に軽く手を振った。そして暫くすると彼は完全に人波の中に消えていった。
「さよなら」
私はそう小さく呟いた。彼とは反対方向に歩き出し、改札に入る。電光掲示板はひっきりなしに発車する新幹線の情報を表示していた。西行きのホームへと登り、電車を待つ。
西へ向かう電車はすぐに現れた。滑らかに訪れた白色の車体は、微かな空気音と共にその腹を開け、私を待ち構える。自由席はほとんど埋まっていた。私はスーツを着た男性に会釈し、その隣に座った。
新幹線は音もなく横浜駅を滑り出した。私はケイにメールを送る。
『もう行くね、さよなら』
送信しようとして、やはり思い止める。
『もう行くね。本はあなたが読んで。ありがとう』
送ったのは、結局そんな文面だった。小さくため息をついて、バッグから例の本を取り出す。読み始めて最初の数ページで読む気をそがれ、諦めて栞を挟んだ。
我々は引き裂かれ、辛苦を強いられた。北東京に永遠と続いていた160kmの壁の中の人々の苦労は私には想像もできず、その悲しみは、苦しみはきっと筆舌に尽くしがたいものだっただろう。
"After the Downfall"
私は思うのだ。私たちが経験したのは決して筆舌に尽くしがたいものでも、語れないものではない。私の人生は、彼に同情してもらわなければならないほど惨めなものではないのだ。私は生きていた。隣にはケイが住んでいて、そして彼の母親は秘密警察のスパイだった。私たちは監視されていて、けれど人生の美しさを私は知っていた。私は恋をした。私は挫折して、絶望し、時々たまらないほど幸せな気持ちを抱いた。それに私たちが経験したのは悲しみや苦しみではない。それは、幸せを分割される、背筋の凍るような安寧だった。
そして私は急に理解した。人には自分の人生以外何も理解できないのだと。自分の人生以外のことを理解できると思う人間は傲慢なのだと。
新幹線は三島を通過しようとしていた。私はもう国境を遥か遠く離れていた。ここは異国だった。だから私はもう何も分からなくていいのだ。西の人々が私たちをとうに理解できないように。
それは傲慢で、きっと生きていくことに必要な傲慢さだ。
こうして私は、1990年の秋から数えて21回目の春を迎えようとしていた。
アフター・ザ・ダウンフォール 鈍川つみれ @MeguroMike
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