第29話

 エムはコーヒーの上のソフトクリームを食べ終えていた。彼女はストローでその黒い液体をかき混ぜ、一口飲んだ。揺れる彼女の髪が艶やかだった。エムはもう一度微笑んでから話し出す。

「私はもう一つあなたに言いたいことがあるの」

「何?」

 相槌を打つ。まだ緊張状態から抜け出すことができない私の声は、随分と硬質だった。

「私は、あなたが何をして欲しいか知っている」

「私はあなたに何をして欲しいと思ってるの?」

「罵倒してほしいのよ」

 そしてエムは深く息を吸い、今まで聞いたことのないような大きな声で叫んだ。

「見損なった。あなたには生きている価値がないわ」

 それは私の胸を一瞬で詰まらせ、思考の全てを真っ白に染めた。視界は暗くなり、身体はどこも動かすことができなかった。気付くとエムは私の顔をその胸に埋めさせていた。髪をゆっくりと梳きながら。

 いつの間にか彼女は立ち上がって私の傍に来ていて、店内の全ての人が私たちを見ていた。白いエプロンを付けた若い男性店員が私たちの前に現れて事情を尋ね、エムは何度か頭を下げてそれに応えた。やがて彼は諦めたように引き返し、場は次第に平穏を取り戻していった。彼女が私の横から離れて元の椅子に腰かけるころには、店内はまるで何もなかったかのように静寂に包まれていた。私たちを見る人はもう一人もいなかった。

 彼女は再びストローでコーヒーを飲み始めていた。私は紙ナプキンで目元を拭う。エムの薄い小豆色のトップスには、私が付けたのだろうしみが残っていた。彼女はそんなことなんて何も目に入っていないような仕草でコーヒーを飲み続けていた。それでも私が涙をおおむね拭い終わると、エムは気まずそうに笑い、もう一度口を開いた。

「ごめんね、でもこれが一番早いと思ったのよ。あなたはどうやら私があなたをどれだけ好きなのか解っていないし、解ろうともしてくれないみたいだから」

「これでそれが解ると?」

「実際解ったでしょう? 私はあなたが罪悪感を抱いていることも知っているし、あなたのためなら変人扱いされることも厭わないのだということが。私はそれくらいあなたが好きだって」

「無茶苦茶だわ」

「でもあなたなら理解してくれるでしょう?」

「買い被りすぎよ」

「解ってくれないなら、汚されたこのトップス弁償して貰わないと」

 エムはそう言ってもう一度笑った。今度はおかしそうに。私も笑った。何だかバカバカしくなったのだ。彼女がこんなに私のことを考えてくれていたのだと思うと、今まで悩んでいた全てがどうでもいいことのように思えた。

「私はね、あなたに感謝している」

 しばらく二人で笑い合った後、エムは真剣な目をしてそんな風に切り出した。

「あなたがいなければ、きっと私は今もまだこんな風に笑えてない」

「私がいなくても、誰かがきっとあなたの前に訪れて、きっと友達になったと思うわ」

「違う。私は初めての友達だからあなたが好きなんじゃない。単純にあなたのことが好きなのよ。出会った時も、どんな時でも、あなたは確りと地面に立っていた。あなたには強い意志があって、自分だけの視座を持っていた」

 言い切る彼女に、私は驚きと共に答える。

「それはあなた自身のことよ。私はあなたよりずっと弱い」

「いいえ、私は弱い。あなたが私のことを勘違いしているのは、人には理想を重ねてしまうからよ。私は例えば泣き叫んで、モノを投げて、人を振り回して、そんな風にストレスと付き合いながら生きてきた、ただの人間でしかない」

「そんな風に自分を言えること自体、あなたは強い」

「それは単にあなたを深く信用しているからよ。私だって普段こんなことは隠してる。人に弱みを握られないことと、自分の心をなるべく見つめないようにすることが不安と戦う一番の方法だから」

「ねえ、私のどこが強いっていうの?」

「私に話しかけた時点で、それは明白。きっとあなたは、後で面倒くさいことになるかもしれないと思いながら、自分の優しさを曲げなかった。私は感謝しているわ。あの時あなたに話しかけられなければ、私はあなたにもケイにも出会えていなかった」

「確かに私はあなたとケイを引き合わせもしたかもしれないけれど、でも奪いもした」

「あなたは私を理解する人がいる可能性を教えてくれたし、ケイは私を理解しようと努力してくれる人がいる可能性を教えてくれた。それだけで私には十分すぎるくらい十分なことよ」

「私は単にあなたと自分を重ね合わせていただけだわ」

「そんなこと、どうだっていい。それに私は思うの。結局のところ、人は自分と共通する要素を持った人間しか理解することはできないんじゃないかって」

「悲観的ね」

「楽観は何も生まないけれど、悲観は時々希望を生むこともある」

 エムはそう言った。それはまるで何かの台本を読んでいるみたいな口調だったけれど、同時にそれは他の誰でもない彼女自身の言葉なのだろうとも感じさせた。そうなのかもしれない、と私は再び思った。希望はどちらかと言えば演繹的なもので、そういう分析的な思考は基本的に悲観に根差しているからだ。

 少しの間だけ沈黙が流れて、それから彼女は思いついたように言った。

「ねえ、私たちは被害者だと思う?」

「何の?」

「共和国のよ。1946年の歴史のせいで、私たちは共和国の人から差別されるようになった。1990年の崩壊で、私たちは共和国の人々として西日本から蔑視されるようになった。私たちはこの国の歴史の被害者なのかしら」

「それ以外の何者でもないでしょう」

「でも、私たちだってきっと予防策を取ることはできた」

「予防策?」

「例えば、私はおかっぱ頭が本当に似合わないの。小学校の時に一度だけやってみたことがあるんだけど、これがものすごくひどい見た目になる。あまりにひどくて、子供ながらに傷付いて大泣きしたわ。でも、そうしたら他の人に話しかけられたの。一度なら偶然かもしれないけど、何度も続けて。そして悟った。私は何か見た目さえ不細工にすれば普通の人として扱われうるんだってことに。バカバカしい話だけど、みんな実際に外国人の血が入っているかどうかなんてどうでもいいんだわ。ただ美人を避けているだけなの。私だって気付いたんだから、あなただっていつか気付く時があったんじゃないかと思う」

 私は頷いた。私はツインテールにすると本当に似合わないのだ。

「だから、私たちは自分を傷付けた加害者でもある。だって似合わない髪型にすればわざわざ受けなくてもいいような苦労を敢えてしているんだから。私たちはただ選択しているだけとも言える。苦労をするか、自分で納得できる見た目を選ぶかを」

「そうかもしれない。でも、だからと言って私たちが悪いとは言えないでしょう?」

「そう。私が言いたいのはまさにそういうことなのよ。人と人との間には、絶対的な被害者も絶対的な加害者も存在し得ないということなの。問題は全部相対的であって、私たちはたとえ完璧には無垢でないとしても間違いなく被害者だっていうことなのよ」

 エムはさらに続ける。

「だからね、あなたはもうこれ以上苦しまなくていいのよ。たとえあなたがここから逃げたって、あなたがここにいて被害を受けてきたことは変わらない。あなたは行くべきなのよ、ここではないどこかに。そして前を向くべきだわ」

「あなたがそれを言うの? 私たちは驚いたのよ、あなたが公社に就職して」

「旧公社よ。今はもう国や政府とは全く関係ない。それに、あなたは勘違いをしている」

 どこか責めるような声に、眉を顰める。「勘違い?」

「私はあえてあそこに就職したわけじゃない。私だってもっと良いところに行きたかった。単純に他のどこにも落ちたのよ」

「あなたが? どこにも?」

 私は驚いて返す。今度はエムが眉を顰める番だった。

「ひどい、繰り返さなくてもいいじゃない」

「ごめん、信じられなくて」

「私はあなたが思うほど頭が良い訳でもないし、計算して生きているわけでもない」

 エムはそう言って続けた。

「私の人生にはいろいろなことがあって、その大抵のことは望んでもいなかったことよ。それでも私は納得している。結局のところ、私の人生なんてなるようにしかならないんだって。でも、あなたはきっと納得できていない。このままだと、どこか別にもっと良い生き方があるんじゃないかって、そう思いながら後悔して朽ちていく人生になる」

 無言になった。もちろん反論がないわけではなかったし、反感がないわけではなかったけれど、それでもエムの言葉にある種の真実が含まれていることを認めないわけにもいかなかったからだ。

「だから、あなたは西に行くべきなのよ」

 彼女はバッグから切符を取り出して言った。

「横浜駅から一宮までの片道切符よ。一週間後の木曜日、午後二時の便」

 彼女からそれを受け取る。乗車券と新幹線の指定席券だった。

「それで一宮に行きなさい。あなたはそこで暮らすの」

「そんな急に」

 彼女は笑って言った。

「世の中のことはね、全部急に変わるの」

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