第5章

第28話

「この世界はもう二十年前じゃない」

 エムはそう言い切った。神田橋の上、私の目の前で。彼女は橋を横切る頭上の高速道路が川幅の半分で途切れるまさにその場所にいて、そしてそこには今や彼女以外の何もなかった。彼女は微笑んでいて、背後から差しこむ光の中で彼女は恐ろしく綺麗だった。

 私は何も言えなかった。ただ茫然と彼女を眺めているだけだった。神田橋にはいくつもの車が行き交い、高速道路からのノイズが絶え間なく聞こえていた。彼女は私を見て疑問げに首を傾げ、それから諭すように言った。

「だから、自分から囚われる必要なんてどこにもない」

「囚われる?」

 私は彼女の言葉を反復した。「自分から?」

「少なくとも私には、あなたはそうしているように見える」

「私はただ……」

 反論しようとした私を、彼女は首を振って制す。そして私に背を向けて歩き出した。橋を渡り、川沿いの道を進むエムを私は追いかけた。街路樹の桜はまだ蕾を付けてもいなかった。二月の冷たい風が前から容赦なく吹き付ける。

 少しだけ進むと、川沿いには桜の代わりに黄みがかったコンクリートの壁が現れた。神保町の保存地区だった。日本橋川から旧江戸城の水堀を経由して、厚み20cm、高さ3mの壁が神田錦町から九段下までの1.4kmに渡って残されている。

 それは総延長160kmに渡って築かれた巨大な東京の壁の一部だった。東京湾の河口から東京駅付近、九段下、新宿から甲州街道沿いを府中までとそこから北方向に立川、狭山、春日部から野田を経由して南下し再び東京湾の河口に至る壁だ。エムは立ち止まり、左手で壁に触れた。今やその役割を終え、切り取られ記念碑としての第二の人生を送る壁に。彼女に促され、私も壁を見つめた。

 そこには風雨に晒され、とうに劣化の始まった壁があった。触ると表面はざらざらで、所々に砂利の残骸のようなものが浮き出ていた。それは他の何でもない、野外に放置されたただのコンクリートだった。私たち以外に壁に目を向ける人は皆無だった。記念碑だなんてとんでもなかった。だって存在そのものが忘れ去られているのだ。こんな状態になっても誰も目を向けようとしない旧時代の遺物でしかなかった。

 私は恐る恐るエムの方を見つめる。視線に気付くと、彼女は私に向けて微笑んだ。それから首を振った。『わかった?』と彼女は伝えたのだ。『こんなものに縛られることに何の意味もないのだ』と。

 それでも私はまだ納得できなかった。都合がよすぎる、と私は思った。散々傷付けておいて、私たちの間には壁はもうないのだと呼びかけるなんて。そもそも、と私は思った。エム自身だって統合されないことを選んだはずだ。彼女は国営企業の血を継ぐ会社に就職し、今だってそこで働いているのだから。

 目の前でエムは微笑んでいた。私を包み込むように。とても綺麗だったけれど、私はそれでも誤魔化されないことを選んだ。俯いて首を振る私に、エムは少しだけ悲しそうな顔をしてからもう一度微笑み、私の手を取って歩き出した。

 神保町の喫茶店に入り、彼女はコーヒーフロートを頼んだ。ホットのカフェラテを飲みながら、目の前でアイスを食べるエムを見る。彼女はいつも通り楽しそうにスプーンでアイスを掬い、赤い口元へと運んでいった。彼女は昔と全く同じで、むしろ昔よりも艶やかな美人になっていた。私は思い出していた。大学の構内でアイスクリームを舐める彼女の姿を。何枚着込んでも寒いような日に、彼女はソフトクリームを舐めつつ颯爽と歩くのだ。そんな言葉の並び自体浮世離れしているけれど、それでもそうと言う他なかった。そして彼女は時々寒いと震えて、何故そんなものを食べているのかという私の問いに悪戯っぽく微笑みながら答えるのだ。「寒さに耐えるためのカロリーを摂っているのだ」と。私は彼女のそういう所が好きだった。彼女のすらっと伸びた長い脚や、歩き方や、銅色に光る綺麗な髪と同じくらい好きだったのだ。

 そして彼女は未だに私の好きだったエムと同じだった。アイスを食べると彼女の白い肌はもっと白くなり、口元はその存在を強調するように紅く染まった。出会ってからの私は彼女に見惚れるばかりで、少し前の私はそれに嫉妬するばかりだった。

 ズルい、と私は思った。そんな風にされたら思い出してしまう。彼女と出会った時の私の感情も、彼女がケイと付き合い出してからの卑屈も、ケイを奪ってからの罪悪感だって、全部ありありと。だってそのどの瞬間だって彼女はそうやってアイスを食べていたのだ。混ざり気のないソフトクリームを。甘いものが好きなら世の中にはいくらでもあるし、冷たいものが好きなら世の中にはいくらでもあるのだ。私と知り合ってからだって、流行は入れ替わり続けた。マカロン、キャラメル、タピオカ……。それでも彼女はどんな時でも変わらずにシンプルなアイスを食べ続けた。彼女は自由だった。それを思い出してしまう。思い知らされてしまう。いつだったかケイは何処か憧れるような顔でエムについて評した。『彼女は彼女であり、その他の何者でもないのだ』、と。昔は私だって自分は確固とした自分なのだと思っていた。でも彼女を目にしていると分かってしまう。自分は社会に従属する一つのピースでしかないのだということが。私は人に影響されてばかりだ。ケイに影響され、エムに影響され、エスに影響されて生きてきた。そもそもこの省察さえ、ケイとエムに影響されてやっと保持したものだ。エムの変わらなさと、そこが好きだと言うケイの言葉によって初めて気がついたのだ――自分は自立していないのかもしれないという事実に。私は気付かされてばかりだ。私の人格はケイが隣にいてやっと機能するように組み上がってしまっていた。ケイが引っ越すと聞いてからの自分なんて、本当に嫌になる。ケイの代わりをエムに見出して拒絶され、エスには何かがあったと見抜かれて助言までされた。今エムに会っていることすら、私はエスに依存してやっと辿り着いたのだ。自分の感情がどこに向いているのかさえはっきりと把握できていない自分がただただ情けなかった。自分のことを分かっている誰かに話しかけ、自分の感情の指向を掴み、そうしないと自分の中で感情が留まって渦を巻くのだ。欠陥にも程がある、と思った。そしてそういう生き方しかもうできなくなってしまっていた。三十歳だ、と私は呆れるように思う。いい大人じゃないか。

 顔を上げると、エムは僅かに首を傾げながら微笑んでいた。『大丈夫、安心して』と彼女は伝えていた。『少なくとも今は、私がここにいる』と。私も微笑む。頬が引き攣っていることが自分でもわかる。彼女はそれに軽く首を振って応えた。

「実は、謝ろうと思っていることがあるの」

 エムは最初にそう切り出した。全く予想外の言葉に疑問符を浮かべる私をよそに、エムは言葉を続ける。

「私がケイと付き合っていた頃のこと、覚えてる?」

 呼吸が止まる。

 彼女の口からケイという言葉を聞くのも、彼女が誰かと付き合っているという話を聞くのもずっと久しぶりのことだった。大学を出てからはほとんど初めてのことになる。エムの口調は軽くて、何か些細なことを尋ねるような普通のものだった。胸の痛みに固まる私を見て、彼女は一度軽く頷いてから話した。

「謝らなければならないのは、その時の話よ。実は私、嘘をついていた」

「嘘?」

 意外な言葉に、私は素っ頓狂な声を出した。「あなたが?」

「そう、私が」

 彼女は私の反応に小さく笑いを抑えるようにして言った。「本当は彼の発案なんだけど、乗ったのは私だから。責任は私にある」

 私は無言で頷いた。エムは促されるように話し出す。

「実は、彼に告白したのは私なの。彼が告白したっていうのは嘘」

 それは冷静な声で、そしてあり得ない言葉だった。私はとっさに返した。ほとんど叫ぶように。

「そんなはずない。ケイの瞳を見ればわかる。彼があなたに惚れていたことくらい」

「だとしても、告白したのは私だった」

「彼だって言ってた。自分が好きと言ったんだって。ふと二人になった時に思わず声が漏れて、そうしたらあなたが『いいよ』って答えたって」

「それは作り話よ。二人で考えたの」

「最初から今まで、ずっと騙していたってこと?」

「そういうことになる」

 彼女は一貫して冷静だった。最後に漏らした自嘲するような笑みは本物に見えた。私はそれに愕然とした。彼女が言っているのは間違いがない事実なのだと認めざるを得なかった。

「どうして?」

 私は縋るような声で尋ねた。「どうして、そんな嘘を」

「彼が私を慮ったのよ。私が彼に好きだと言って、そうしたら彼が嘘をつくことを条件にした。私からじゃなくて、彼がきっかけだったことにして、偶然こんな風になってしまったように演じてくれって。そうすれば、私とあなたの関係が壊れにくいだろうからって」

「あなたは納得したの?」

「納得した。彼が言うならきっとそうなんだろうって」

 後悔するような口調で彼女は言って、それから痛々しい微笑みを浮かべて続けた。

「それに、私は怖かった。もしあなたとの関係が壊れたら、それは本当に怖いって。自分からケイに告白しておいて何を言うんだって思うかもしれないし、私も実際そう思う。でも、あなたは私が作ったほとんど初めての友達だった。あなたとの関係がその時一番の支えだった。だから、彼の言葉にあまり考えることなく頷いてしまったの。今は後悔している。私は彼をヒールに仕立て上げたと」

「本当にあなたが告白したの?」

「そう。彼は私にとって初めての人だった。彼は私のことを分かろうとしてくれたのよ。そういう意味で私には魅力的だった」

 エムはそこで一息置いて、淋しそうに微笑む。

「それにね、どうやら私の性合は異性愛らしいの。あなたとケイだったら、私は間違いなくあなたの方が好きなの。もし二人とも一緒に崖から落ちて、どちらかしか助けられないとしたら私は躊躇なくあなたを選ぶと思う。それでもケイに抱くような感情をあなたには持てなかった。どんな努力をしても。だから私は思った。私がケイにしているのは恋なんだって」

 私は無言で頷いた。エムの告白には悲痛が滲み出ていた。だから責めることはできなかったし、彼女の必死さを認めないわけにもいかなかった。エムは続ける。

「私は後悔する。自分のしたことについて責任を取らないことは最低の所業だからよ。私は事実通りの扱いを受けるべきだった。もしそれであなたが私を恨んでも、それは仕方のないことだった。それに、きっとあなたは本当のことを言えば喜んでくれたと思う。良かったね、彼と幸せになってねって。心からの笑みで。だってあなたは私のことも彼のことも好きだから」

「それは分からない。恨んだかもしれない」

「いや、あなたは絶対に喜んだはずよ。あなたはそれほどに私たちのことが好きだった。だから、私の罪はもう一つあるの。私はあなたを信用することができなかった。間違いなくこれが私の一番大きな罪悪で、そして過ち。あなたはきっと傷付いたと思う。だってもし私たちが偶然に付き合ったとするなら、それは運命としか考えられないじゃない。誰かが誰かと築く関係はどんな時だって能動的でしかない。それなのに成り行きで強固な絆が芽生えたと思えば、きっとあなたは私に関わる全てのことを恨まなければならなくなる。私がケイと出会ったことも、それを導いた自分自身のことも恨むはめになる」

「考え過ぎよ、私はあなたのことを恨んでなんてない」

 自虐するような言葉を自分に刻み付けるように語るエムに、私は居た堪れなくなって声を出した。彼女を止めたかったのだ。それでもエムは首を振ってもっと卑屈な微笑みを浮かべた。

「ほら、あなたは自分の感情すらもう私にぶつけられなくなった」

「私は恨んでない、本当よ」

「嘘。そうでなければあなたはケイともっと上手くいっているはずだわ。私を恨んでいるから、昔のことに固執せざるを得なくなった。あなたは私を恨んでいるがために、私を古いものの象徴と見なした。そしてそのフレームでしか物事を捉えられなくなった」

「考え過ぎよ。あなたも知っているでしょう、私には共和国の要素がありすぎる」

「あなたが何で構成されていても、そのために縛られることなんてない」

 彼女は声を一段上げて言った。そしてその言葉は私の心に間違いなく刺さった。エムもまた強大な意味を付与されて生きていた。彼女を見る度に彼女の両親は確信したはずだ。『望むなら、難しいことは何もない』と。それでも彼女はそれに負けていなかった。自分自身の価値は自分で決めるのだと確信していた。

「だから、あなたは西に行くべきなのよ」

 見つめるエムの目は今までに見たことがないほど鋭かった。私は彼女の瞳に半分以上圧倒されながら尋ねた。

「西へ?」

「西へ」

 彼女は頷いて再度言った。「西へ」

 そうなのかもしれない、と私は思った。

 だって他でもないエムがそう言っているのだ。私は思い出していた。思い出す彼女の姿はいつも大学時代のものだ。『なるようになるよ』と彼女は言った。

 そうなのかもしれない、と私はもう一度思った。

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