第24話
私の周りで1990年を無傷で乗り切った人はケイの父親くらいだ。他の人々は多かれ少なかれ共和国の崩壊と連邦への吸収によって影響を受けた。私の父親は廃止された県庁から関東州の省庁へと勤務先が変わり、母親は単純に失職した。ケイの母親も同じだった。彼女は1990年に県庁での職を失い、1993年には国安のスパイだったと政府に暴露されたのだ。それは私の身近な人だけに留まらない。国中で同じようなことが起きていたはずだ。共和国にあったほとんどのシステムはもう跡形もない。政府職員の場合には合理化の影響で半分が失職したはずだし、公社に務めていたとしてもほとんどの場合会社の倒産を経験したことになる。むしろケイの父親はひどく特殊な場合だった。彼の会社は未だに時計ブランドとして世界でもトップクラスの名声を維持し続けている。時計は、共和国で作られたものの中でまともに西側諸国に売ることができた僅かな商品の中の一つだった。例えばドイツ民主共和国製のプラネタリウムや、ソ連製のアイスクリームと同じように。だから彼の勤めている会社は今も存続しているし、むしろ規模は遥かに大きくなった。共和国の国民は僅か1500万人だったのだ。統一後の連邦の人口は1億2500万にも達する。そしてもう西側諸国との間に障害は何もなくなったのだ。僅かな関税を除いて。発展しない理由がなかった。
私たちはたぶん覚悟ができていなかったのだと思う。共和国が崩壊した時、ほとんどの人は喝采を博していた。私はその時のことをありありと覚えている。国境が解放された時も、テレビは東京の壁に人々が集まる様子を中継し、家に居てもどこか遠くから人々の歓声が聞こえていた。まだ十歳だった私は母に厳命されて家に留まっていた。外はお祭り騒ぎだったのだ。越谷だって中心部はひどい有様だったに違いない。少なくともその時には全員が信じていたのだ。これから全てのことが良くなるのだと。その幻想はそれから八か月が過ぎて日本全土が連邦政府に加入するまでも持続し続けた。その時には職場に残れるかどうかや就職できるかどうかがくじ引きによって決まる奇妙な現象が始まりかけていたが、それでも未来への希望の方がずっと大きかった。それは両親だって同じだった。父親は少なくとも地方政府の職員の立場を維持できたし、残念ながら失職した母だってこれから仕事が見つかると思っていた。なにせ祖国が統一したのだ。もう閉鎖的な東側の体制の下で生きる必要すらないのだ。どうして状況が悪くなるなんてことが起こり得るだろう?
でも結局のところ母が再び就職することはなかった。私たちの置かれた状況は確かに悪くもならなかったが、良くなることもなかったのだ。統一されて二十年が経った今もなお、西日本と東日本の間には未だに大きな経済的な格差が残っている。統一の結果として私たちが選んだのは市場を重視し自由を尊ぶ連邦政府で、そしてその政策の結果として格差はそのまま維持されたのだ。共和国にルーツを持つほとんどの企業は潰れてしまった。例えばエムの勤めていた日本電気通信ビジネスソリューションセールズ株式会社は、民営化後に日本電気通信公社が潰れてそのIT系の部分だけが残り、さらにその営業ネットワークだけが評価されてどこかの企業の子会社として何とか存続した会社だ。つまるところ私たちは楽観的であり過ぎてしまったのだ。共和国は社会主義のイデオロギーに四十年間も染まっていた1500万人しかいない小国だった。それが1億1000万人もの人々が住む世界で二番目に豊かな国に吸収されたのだ。想像力を働かせればそれから何が起こるかを予測することは簡単だったはずだ。連邦の人々がソ連に代わって私たちを支配する。それはごく当然の論理的帰結だった。同じ日本人として格差がさっぱり消え失せ、手を取り合って未来を創り出すのだと希望を持ちすぎてしまったのだ。
そして私たちは今『最後の世代』と呼ばれている。未だに『日本社会』に馴染めず、社会主義時代にあったような絆しに縛られ、勤労意欲も能力も低いはた迷惑な集団。それが私たちなのだ。私たちは統合前に小学校での初等教育をほぼ終わらせてしまった、要するに全員が雇用されるとか終身雇用だとかそういう夢物語を信じさせられてしまった世代なのだ。だから社会に対して受け身で、労働意欲も希薄などうしようもない人間になってしまっているのだ。日本の足を引っ張っている存在だと言っても過言ではない。東日本の就職率が悪いのも全部私たち最後の世代のせいなのだ。
こんなもの、あまりにバカバカしくて言い返す気力もない話だ。東日本の就職率が悪いのは単純に東日本の経済状況が悪いからであって、私たちに就職する気力がないからではない。統一前にあった公社主体の経済を完璧に潰し、その分の市場を西の企業でカバーした後、就職も西側にあった学校の方を有利にすれば、それは当然その地域の就職率は悪くなる。そして就職率の悪化が私たちのせいだということになると、私たちはさらに就職し辛くなる。だって『私たちには勤労意欲が欠けている』のだ。どうしてそんな人々を会社に入れなければならない? そして就職率はさらに下がっていく。
大学生活の最後に、友達が私に向けていた目を思い出す。就活に苦しんでいる私を尻目に、西日本出身の友達はどんどん就職を決めていった。私たちの通っていた大学は北東京にあって、激変緩和措置として学費が共和国時代の水準に留め置かれていた。横浜にある一流大学には費用的に通えない人が、西日本からもかなり押し寄せていたのだ。そしてそういう人々は決して最後の世代とは言われなかった。むしろ苦学生として賞賛する向きさえあった。北東京で育って北東京の大学に通う私は最後の世代として疎まれ、西日本のどこかの地域で育って同じ大学で学んだ人々はそれなりに評価され就職していくのだ。私はそれにひどい衝撃を受けた。それまで仲間だと思っていた人たちからどこか憐れみの籠ったような申し訳なさそうな表情を浮かべられる気持ちが、想像つくだろうか?
正直に言えば、私は西日本の人々がどこか嫌いだ。誰か特定の人が嫌いなわけではない。私には西日本出身の友達が何人かいるし、仕事で関わるのは大抵西出身の人だ。その中には好きな人もいれば嫌いな人もいる。ごく普通のことだ。人は人を好きになったり嫌いになったりする。ただ、私は西日本出身の人々という集団自体について、あまり好きになることができない。もちろんその理由には就活の時の体験という面もある。私たちのことを最後の世代だと言い放った社会に対する不信感もある。けれど理由はそれだけではない。私はむしろ無神経にそれでも同じ国民なのだと言い張る空気が嫌なのだ。
私たちは彼らの文化を知っている。歴史も知っている。共和国が外から見てどれだけ絶望的な体制だったかは知らないが、同じ言葉を話す人々が隣の国に住んでいて、その文化が何も入ってこないわけがないのだ。私たちは短波ラジオと流通する磁気テープで彼らの音楽を聴いてすらいた。県庁で働いていた私の両親でさえ。母はよく家で小さな声でアメリカの歌を口ずさんでいた。
『西へ。そこへはすべてがある』
母が好きだった曲にはそんなフレーズがあった。そして私たちは実際にそう思っていたのだ。西には全てがあると。
こう言うと私の無意味な嫌悪感はただの八つ当たりにしか過ぎないと思われるかもしれない。連邦という国に勝手に過大な期待を抱いておいて、期待外れだったと喚き散らしているのだと。私はその側面を決して否定しない。私はそんなに高尚な人間でもなければ、論理的な人間でもないのだ。自分ではそうではないと信じているけれど、本当にそうではないのかと問われると断言することは難しい。
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