第19話
それからしばらくして私たちは卒業した。三年生の夏から四年生の冬までの間には、一年半もの期間がある。それでもその期間は就職活動や卒論に追われてあっという間に過ぎていった。私は徐々に彼らから距離を取るようになった。ケイやエムに会うことは、ただ彼らがどれだけ上手くいっているかを確かめることにしかならなかったからだ。彼らはどちらも依存していなかったし、依存されてもいなかった。それは美しい関係に見えた。確固たる二つの個人がただ寄り添っているのだ。もし私がケイと付き合っていたら、きっと彼に寄りかかってしまっていただろう。自分が愛されていると驕って、彼を散々振り回すのだ。例えば、ケイと何かがしたいと夢想したとする。そうすると私は彼をどうにか説き伏せてきっとそれを片っ端から実行に移すのだ。そしてそのことが愛の証なのだと思い込む。エムは決してそんな風にしなかった。彼らは彼らそれぞれにやりたいことをして、時々その人生が交わると一緒に過ごすのだ。彼らには無理がなかった。エムはケイと付き合ってもエムのままだったし、ケイはエムと付き合ってもケイのままだった。私はエムと一緒にお昼を食べて、ケイと一緒に帰ることすらあった。そしてそういう時に彼らはお互いのことを聞きもしなかった。それは私の敗北をさらに色濃くした。エムは時々私の前でアイスクリームを舐めた。前と何も変わらず、無邪気に子供のように。そして私を掬い取った。
「なるようになるよ」、と彼女は言った。
「何に悩んでいるのかはわからないけど、世の中は思ってるよりもきっと難しくない」
彼女はそうやってどの授業でもA+の成績をかっさらい、見惚れるような完璧な歩き方で街を闊歩し、ケイと付き合っていた。完璧だった。彼女は完璧だったのだ。
夏の彼女は青いワンピースを着ていた。その服は彼女に本当によく似合っていて、まるでそのまま生まれてきたみたいだった。私はそれに見惚れながらひたすら劣等感を抱いた。私はいつの間にか青い服を着なくなっていた。ある時ふと気付いたのだ。大学に入る前にあんなに好きだった青を、今はむしろ避けていることに。
私はそんな風にエムにコンプレックスを抱きながら就活をし、論文を書き、学位を取った。就活は悲惨の一言だった。私はどんな会社にも履歴書を出して、どんな会社にも落ち続けた。友達はどんどん決まっていった。横浜から通う友達も、関西圏出身の友達も、一宮出身の友達も就職を決めていった。彼女たちは追い詰められていく私を見ると皆一様に気まずそうな顔をした。ケイも長くかかったし、エムも長くかかった。そういうものを見ていると、私は思い知らされることになった。高校と大学の雰囲気に麻痺していたけれど、結局のところ私たちは北東京の大学に通っている北部出身の人間でしかないのだ。世の中はここまで不公平なのかと私は悟った。単純なことだ。世の中は思っているよりずっと単純に不公平なのだ。
私は結局資格だけを頼りにして西日本の会社に就職し、ケイも一宮に本社を置く輸送機器メーカーに就職した。そしてエムは千住にある商社に就職したのだ。私もケイも勤務先は東京支社だったけれど、入社後の研修は一宮の本社で受けることになっていた。私が半年で、彼が一年間。そしてその半年の間に私は彼を口説き落とすのだ。
私はあの日のことを生まれてきてからのどの日よりも正確に覚えている。私たちはケイの車に乗って首都高速を走っていて、その場は妙な高揚感に支配されていた。彼がハンドルを握るちゃちなコンパクトは夜の一宮の街を縫うように走り、追い抜かすトラックが風きり音と共に車体を怖いほどに揺らした。私は鳴りやまない心音を聞きながら無言で前を見つめていた。ジャンクションに辿り着くたびに私はケイが道を引き返さないかと不安になった。私たちは高速代を含めても都心のホテルよりずっと安い場末のモーテルへと向かっていた。そこはただベッドでまさぐり合うくらいしかすることのないようなひどいところで、要するに辿り着けばもう彼と交わることは確実だった。私は彼とその指先を食い入るように見つめた。そしてケイがジャンクションを目的地の方向へ抜けていくたびに私は言い知れない興奮と自己嫌悪を覚えた。「やっぱり止めよう」という言葉が何度も喉まで出かけて、その度に小さな吐息へと変わっていった。彼は時々意味もなくシフトレバーに手を触れ、ため息をつき、それから僅かに首を振った。
ひどいホテルだった。高速からもすぐ見える位置にある薄いピンク色の建物は、白と青の灯りで輪郭を彩られ、入り口には安っぽい電飾で作られたHotel Happinessの文字が躍っていた。車を降りると、横を通る高速のノイズに紛れてネオンの放電する音とそれに寄って来た虫の羽音が聞こえる。結局私たちも虫と大して変わりはしないのだと私は思った。明かりに導かれて刹那的に交尾するのだ。何がHotelだ、何がHappinessだ、と私は思った。どうせこんな場所には身体を重ねる少しの間しか用はないのだ。
私たちはそれから無言で部屋に入って、私がドアを閉めると同時に彼が唇を奪った。彼の舌が私の口腔に侵入する。ついに距離が零になった、と朧気に思った。それから固く握られている彼の手をほどいて、自分の指を絡ませた。
「いいよ」と私は言った。
何がいいのか、どこまでいいのかは自分でも分からなかった。彼だってたぶん分からなかったと思う。それでも彼はその言葉に真剣に頷いた。そして彼の手が私のシャツに掛かり、私は両手を伸ばしてそれに応えた。
白状すれば、それから先私はエムのことなんて一切も考えていなかった。彼と首都高を走っている時には少しくらい過りもしたけれど、それ以降はもう彼女は忘却の彼方にいた。ケイは誰とどうなっていようが彼でしかなかったし、私もきっとそうだった。それでも散々交わった後に私はエムの話題を出した。「きっと」と私は言ったのだ。「エムは、まだあなたのこと好きよ」と。
だからそれは100%打算だった。私は彼にエムへの罪悪感を植え付けようと思ったのだ。そうすれば共犯者の私との距離は近付くだろうし、あるいは彼がエムと別れるかもしれないと。そうすると彼は苦悶するような険しい表情でこう言ったのだ。
「俺はエムのことが怖くなった」と。
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