第18話

 ケイの父親は時計技師をしている。彼が働いていたのは世界的にも有名で、国からも何度も表彰されていたメーカーだった。もちろんその会社は1990年から始まる一連の混乱を乗り越えたし、障壁の減った分だけむしろ飛躍すらした。

 だから私は彼が私立高校に行くものだと思い込んだ。東京の南側にある私立高校だ。学費は高いけれど、北側の公立高校に通うよりは将来が約束されるはずだとみんな見做していた。大人も子供も。それは誰も敢えては口にしなかったけれど、共通認識として空気に混ざっていた。そういうある意味で卑屈な認識を抱えていることを、誰も悟られたくはなかったのだ。

 私たちの通うことになった高校は――前もって言っておくと――決して悪くなかった。授業は分かりやすかったし、みんな基本的に頭は良かった。今から振り返ってみても、私があの高校に行ったことは正解だったと思う。ただ、それが南東京のいわゆる名門と呼ばれる学校に比肩するかと言われれば、やはり否定せざるを得ない。大雑把に言えば、学費が高いことは教育の質が高いことと社会的評価が高いことに一致するのだ。

 随分と後に分かることだけれど、ケイがその高校を選んだのは母親のためだった。彼女は入退院を繰り返していて、高価な薬を終わりなく処方され続けていた。彼の選択は、これ以上の家計への負担を避けるためだった。

 何はともあれ、そうして私はまた彼と同じ学校に通うことになった。今度もまた三年間で、中学の時よりも延長された通学時間は時々私たちを二人きりにした。偶然同じバスに乗り合わせて、そんな時は必ず隣同士に座った。高校に入ってから暫くして、私はもうケイとの距離をどう開けばいいかについて考えなくなった。新しく知り合う人ばかりの高校で、中学の時のように意識的に距離を置かなくても、私たちの間には十分な距離が生まれていた。縮めたいと欲するには十分な距離が。

 つまり私にとって高校時代の始まりは全て願い通りだった。中学の時のように周りから避けられることもなく、何の事件だって起こりはしなかった。ケイとの距離も完璧だった。忘れたり、忘れられたりできるほど遠くはなくて、相手を当たり前と思えるほど近くもなかった。私の願いは叶ったのだ。これ以上ないほどに。

 そしてそれから一年半の時間が経って、私の願いは本当に全て叶うことになる。ケイの告白という形を取って。それは私が直前まで心待ちにしていたもので、期待していたもので、告白された私は、彼をそのまま振ってしまった。


 私の人生は後悔で満ち満ちている。自分の行動のために自分自身が苦しむことも耐えられるものではないけれど、自分のせいで他人が苦しんできたのだと思わされることはもっと耐えられるようなものではない。私は身近な人を傷付けるだけ傷付けて生きてきた。ケイもエムも、きっと私のために何度も泣いたはずだ。

 それは受動的なこともあれば、能動的なこともあった。例えばケイをきっと一番傷付けただろう1993年の事件は私の責任では決してなかったし、逆にエムをきっと一番傷付けただろうケイの強奪は100%私の責任だった。

 人は時に存在するだけで他の人を傷付けることがある。ケイのことを考える度に私はそれを思い知らされることになる。間接的であれ、私がケイを傷つけたことは言い逃れのしようもない事実だ。それは同時に、彼が間接的に私たちのことを害していた(または害しかけた)ことも事実だということを意味していた。

 私たちはそういう意味で絶望的な存在だった。出会った時から互いを傷付けるように仕組まれていたのだから。だからこそ私は後悔する。私たちが一緒になるためには私がもっと献身的に彼を赦さなければならなかったのだと。誰かが誰かを傷付けた時、それからのことは傷付けられた側がどう対応するかに全て懸かっていると言っても過言ではないのだから。

 それでも私は自分自身の人生が全く無価値なものだとは思わない。大学時代にケイとエムを引き合わせたのは他でもない私自身だからだ。私は信じているのだ。それはもしかすると私の唯一の善行かもしれないけれど、それだけでもう私の働いた全ての悪行を贖えるだけの価値があるのだと。


 私情さえ排せば、ケイとエムの二人は出会ってきた中で一番完璧な恋人だった。私は彼らとダブル・デートしたことがある。大学三年生の夏休みのことだ。私の相手はケイのサークルの友達で、私も見知った仲の人だった。まだ暑さの残る九月の日で、私は袖のない白いワンピースを着て、エムは半袖の青いシャツに薄い茶色のスカートを合わせていた。彼女の服はいつものように驚異的に似合っていた。彼女は本当に何でも魔法のように着こなすのだ。どんなにひどい服装をしても彼女は本当にひどい人間には決してなれなかった。夏の彼女はまるで写真の中に写る一番爽やかで一番美しい南国みたいだった。立ち並ぶ椰子の木が青々とその葉を伸ばし、ハイビスカスはその赤い花を一面に咲かせ、粒の揃った砂浜が日の光を受けて白い輝きを放ち、穏やかな海がただ碧く広がっている。彼女を見ると誰もがそんな光景を想像せざるを得なかった。理想の夏が彼女の体躯に閉じ込められて輝きを放っていた。

 エムとダブル・デートすることは、きっと世の中で一番避けるべきことに違いなかった。しかも私の相手は自分の恋人ですらないのだ。悲惨な結果は目に見えていた。元々覚悟の上ではあったけれど、実際の結果は果たしてそれ以上にひどいものだった。私の相手役の彼はかなり努力していたけれど、それでも視線が彼女にしばしば漏れることは仕方がなかった。隠そうとしても私より彼女の方によほど気を遣っているのは明らかだった。私だけでなくケイすらもそれを察して苦笑いをしていたほどだ。彼はエムと私の二人ともによく気を配っていた。彼は昔からそういう人なのだ。エムと仲を深めることだけに集中すればいいのに、彼は誰か一人でも仲間外れになっていれば見過ごすことができない気質なのだ。

 エムは初対面の人とそれほど打ち解ける性質ではない。それは彼女自身の問題ではなく、相手が無意識に壁を作ってしまうことに依るものだった。エムは本当に綺麗すぎるほど綺麗だったから、ついそこに不幸の影を見出してしまうのだ。そして彼女はその扱いに慣れていて、孤独に対して耐性を持っていた。彼女は一人でいることに恐れがなかったし、人の視線に対して鈍感なことはむしろもう一つの魅力を彼女に付加していた。彼女は独立していて、他人には左右されない自分自身の形を保持していたのだ。彼女はどんな時でも堂々として見えた。エムの瞳には自分の行く先を鋭く見据える光があった。だからエムのことを一度でも見た人は自分の道を切り開いて進む彼女の姿を容易に想像することができた。それは本当に魅力的な要素でもあったけれど、初めて彼女に会う人はそのために彼女に話しかけることに気後れした。

 それでもその日、私の相手方の彼は会ったばかりのはずのエムに惹かれていた。それはきっとそこにケイが居たからだった。ケイを見つめるエムは本当に素敵だった。彼の顔を見つめる視線も、彼の話を受ける微笑みも、全てが幸せに溢れているように見えた。それが彼女の近寄りがたい雰囲気を和らげていた。その日の彼女は本当に生き生きとしていた。彼女はよく笑顔を見せていて、子供のようにいかにも可笑しそうに声を出してはしゃぐエムの姿はまるで絵のように美しかった。楽しそうに彼と話す彼女の姿を見ていると私はエムの魅力に憑りつかれざるを得なくなった。ケイが惚れてしまうのも無理はない、と私は思った。そしてエムの姿を見ていると彼女の方もケイのことを好きなことはすぐに分かった。私は抱える権利もないような姑息な敗北感を強く覚えた。彼らは完璧で、だから私がつけ入る隙なんてどこにもなかったのだ。

 私はそれでも少しだけ抵抗した。品川区八潮の海沿いの公園の中だ。私の相手の彼がエムを一瞬だけ捉えて、私は少しの間だけケイと二人になった。緑色の海から吹く風が強い海の匂いをあたりに運んでいた。崩れる前髪を手のひらで抑えながら、隣に立つケイに問いかける。

「ねぇ、エムのどこが好きなの?」

 思いのほかそれは冷静に響いた。もっと動揺した声が出るかと思ったのだ。心の中でどこか安堵する私の顔を、ケイは少しの間じっと見つめてから答えた。

「どう言えばいいか……。一言で言えば、彼女はどこまで行っても彼女自身であって、それ以外の何者でもないんだ。そういうところかな」

 それは私の心の中を完全な敗北で満たした。

 彼女を好きになる理由は私にだって幾つも考えられた。嫌いになる理由を考える方がよっぽど難しいのだ、それは当然のことだった。頭脳? 美貌? 性格? そのどの側面を取っても彼女は素晴らしくて、もちろん私なんてどれにしても到底敵わなかった。エムはどんな時でも飄々とした態度でA+の成績をかっさらい、キャンパスの中を闊歩する彼女はその存在感も相まってまるでモデルのようだった。それも普通のモデルではなく、横浜アリーナに敷かれたランウェイを歩くトップ・モデルのような。彼女はどこにいても群を抜いていた。まるで彼女だけが照明に照らされ、オートクチュールに包まれているみたいだった。それでいて彼女といると心が落ち着いた。エムは誰かに依存することを決して好まなかった。彼女には芯のようなものがあって、エムと一緒にいることは彼女の持っているその芯を共有することと同じだった。エムはまるでずっと年の離れた姉みたいな存在だった。私のまだ知らない答えみたいなものをとうに導き出していて、見守ってくれているような感じがした。それではまるで私の方が彼女にくっついているだけみたいだけれど、彼女はいつでも私を掬い取ってくれた。私は彼女といるとそれだけで全く孤独ではなかったのだ。私は彼女といると自分も彼女と同じように独立して世界を生きていけるのではないかという錯覚すら覚えるほどだった。

 だからこそケイの言葉は私の胸の奥まで響いた。だって彼はエムの在り方が好きだと言うのだ。それは彼女が持つ要素一つ一つと競うよりよっぽど絶望的なことのように思えた。頭脳だと言われれば、それでも彼女より十倍勉強すれば成績では勝てる希望があった。美貌だと言われればもう少しだけ体重を絞る気力はあった。性格だと言われれば――それはそれで絶望的なことだけれど、それでも彼女の存在のしかたが好きだと言われるよりは対応のしようがあった。

 もし私がエムのことを全く知らなければ、きっと彼の言葉についてそこまで悲観的にならなかったと思う。なぜなら人は少なからず独立にその人自身であって、交換可能な存在では決してないからだ。きっと私は彼の言葉を聞き流せたと思う。確かに彼女は彼女できっと魅力的なのだろうけれど、私だって負けていないのだと。

 でも私は彼女のことをよく知ってしまったのだ。だから彼の言葉の意味は痛いほどわかった。私にはエムのようになれる自信が全くなかった。そして一番絶望的なことは、その言葉でケイがエムのことをどれだけ深く知っているのか察せてしまったことだった。

 彼は彼女をよく分かった上で愛しているのだ。

 ――人を愛すのにそれ以上何が要ると言うんだろう。


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