第17話

 思い返せば、私はずっとケイと一緒に歩んできた気がする。出会ったのは小学生の頃で、私たちはそれから大学までずっと一緒だった。もちろんクラスやら学部やらは違っていたけれど、それでも隣の家から同じ場所まで通っていたというだけでも十分すぎる共通点だった。そして今振り返れば私はその過半で彼のことが好きで、彼はほとんどの期間私のことが好きだった。

 私たちはきっとたぶん何かを間違えたのだろうと思う。だってもし誰かが好き合っていて、ずっと近くにいて、それでも傷つけ合っているのだとすれば、それは絶対に正しいことではないからだ。私たちはきっとまともではなかった。

 幸いにも、私たちの間に最初に生まれた溝は僅か三ヶ月で消えていった。あの1993年の五月に生まれて、八月には消えたのだ。でも今から振り返れば、きっとそれはただのまやかしにしか過ぎなかったのだと思う。それはずっと消えずに残り続けていた。私側からは消えたように見えても、ケイの方から見れば深い傷となって。あの前と後で、ケイが私に接する距離は決して変わらなかった。だから私はその傷の深さを見誤ってしまったのだ。彼は確かに私との間に距離を感じていたのだと思う。そのずっと後に、私がエムに対して感じていたような気持ちを――つまり、自分の身が相手への罪に塗れていて、できるだけ関わらない方が相手のためになるのだというような強迫観を――彼はきっと私に対して抱いていたのだろうと思う。それは影のように彼の心を蝕んだはずだ。たとえ普段は意識していなくとも、ふと気付くとそれは自分の足元に忍び寄っていて、どんなに擦っても消すことはできない。彼は頭の悪い人では決してないし、ずっと一緒に過ごしてきた私の心を少しも読めないほど朴念仁でもない。だから、その強迫観が嘘だということは理解していたはずだ。私は少なからず彼の存在を求めているし、彼は私との関係を断つ必要なんてどこにもない。それでも、波のような感情の起伏が、時に催眠術のように自分を無価値だと思わせる。そんな時にその疑念が足元を襲うのだ。結局、どんなに理性的であろうとしても、人は所詮生き物でしかない。身体がいつも完璧な状態でない以上は、精神もいつも完璧なわけではないのだ。

 そう思うと、私は本当にひどい失策をしたものだと思う。ケイに恋していると気付いてしまった頃の話だ。私はその時にケイとの距離があまりに近いことに絶望して、彼から一度離れることに決めてしまった。それは彼に誤った信号を送ったはずだ。二年間という時の中で薄れていた彼の疑念を、再び明るみへと現すきっかけになったかもしれなかった。私はその可能性など思い至ることもなく、あまりに早急に結論を出してしまったのだ。

 私はそんな風に間違い続けて、結局そのまま中学校を卒業しようとしていた。一月のことだ。入試はすぐそこまで迫っていて、私たちは――好むと好まざるにかかわらず――勉強を強いられていた。その頃の私は全然真面目ではなかったけれど、それでも教室に居座って自習していた。私でもそんな風に勉強していたのだから、ケイがどれくらい勉強していたのかなんてわかり切っていた。私が帰ろうとしていた時にも、彼はずっと机に向き合っていた。

 私は鞄を持って彼の机へと近づき、顔を覗き込んだ。目が合って、彼は不審そうな目で私を睨んだ。私は肩を竦めた。

「帰らないの?」

 彼にそう問うた。彼はさらに不機嫌そうになって返した。

「もう少し勉強してから帰るさ」

「なんで?」

「なんでって……。俺はお前ほど頭が良くない」

 彼はほとんど呆れたような口調になって答えた。「嫌味か?」

「心外。あなたに嫌味を言うほど下らない人間になったつもりはないわ」

 私は眉を顰めながら言った。彼の解いている問題を覗き込む。それは私がさっきまで解いていた問題と全く同じだった。彼も私と同じ高校に行くのだ、と小さな驚きと共に思った。確かにその高校はこの学区のトップ高校だったけれど、彼はてっきり別の私立高校に行くものだと思い込んでいたのだ。

 彼の解答を盗み見る。書き込まれていたのはあまりに周到で、解法としてはあまりに入り組んだ思考の断片だった。それは正しくて、でもその正しさはその問の解としては全く別の方向に向けられていた。私はむしろそれに感心した。私はその問題をさほど苦にしなかったけれど、だからこそそれ以上のことを何も考えなかったからだ。

 きっと、と私は告げた。

「あなたはもっと単純に考えるべきなのよ」

「単純に?」

 彼はそんな風に疑問気に尋ねた。本当に意表を突かれたような口調で。それはまるで世の中が複雑だと信じ切っている子供に、物事を一つ一つ説明していくようなことを想像させた。どうやったら電車に乗れるの? 切符を買えばいいのよ。どうしたら掛け算ができるの? 九九を覚えればいいのよ。――例えるなら、そんな風に。

「そう、単純に」

 私はそう言って頷いた。「あなたは、何というか考えすぎなのよ」

 そして彼は私と同じ高校に通うことになった。もちろん、ケイが受かったことをあの時の私の助言のおかげだと言うつもりはないし、そんな風に思い上がるつもりもない。だけれど、私は今でもあの時のことを思い出す。それは私に色々なことを想起させるからだ。彼の愚直さや、真面目さや、考え方を。そして何よりも自分のそれらを。

 大げさに言えば、それは広い意味で世界の捉え方と言えるのかもしれない。ため息が出そうなほど複雑で本質の隠されたこの世界を、それでも一つ一つ切り取って単純に考えられるのかどうかを。もしそれが高校の入試問題という限られた状況なら、私はそれを客観的に捉えることができる。でもそれがもし他のものだったら? 例えば恋心は? 友情は? そう考えると私はとても怖くなる。

 何はともあれ私は言ってしまったのだ。『単純に考えるべきなのだ』と。色々な状況で私はこれを思い出す。もちろん自分が今瀕している事柄はその時とは大きく異なっていて、もっと切実なことだってある。高校入試の一つの問題なんて、人生の中では本当に下らないものの一つでしかないからだ。

 それでも、発した言葉は棘になって私に残り続ける。なぜなら私はその言葉を発した瞬間に、それがこの世界の真実の一側面でもあると納得してしまったからだ。言葉は時にそれが使われた状況を飛び越えて一般化してしまうことがあるのだ。

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