第14話

 エムと待ち合わせたのは東京駅だった。神田駅から山手線に乗り換えて、赤レンガの駅舎へとたどり着く。彼女は灰色のコートを着てそこに立っていた。

 彼女を視認した私は、その場から動けなくなった。エムは前に見た時よりも、もっと綺麗になっていた。コートに身を包む彼女は、あまりにも完璧だった。完璧すぎて、生命の息吹を感じることも、今私が生きている現実と陸続きだと思うこともできないほど完璧だった。もし私が写真家で、その時の彼女と東京駅をありのまま切り取ることができたなら、きっと私はそれだけで一生を過ごせるほどの資金を手にしただろう。彼女は不吉なほど完璧だった。完璧に綺麗だった。

 固まっていた私にエムは気付いて、軽く手を振った。私を招くように。彼女はとても大人っぽい服を着ていた。フォーマルで、しゅっとして見える服を。私はそれを見て幸せだと思った。私はよりにもよって彼女と待ち合わせて今からどこかへ出かけようとしているのだ。それは世界の中でただ私一人だけに許された贅沢だった。

「久しぶり」

 彼女は私を見てそう言った。そこには笑顔はなかったけれど、言葉の響きにも敵意はなかった。彼女にとって私はニュートラルなのだ。あるいは、彼女も迷っているのかもしれない、と思った。エムにとって私は大学で一番好きだった友達で、自分の交際相手を奪った人間で、時にはそのことについて相談までしてくる女だ。

「久しぶり」

 私は言葉を返す。寒さで声が震えていた。「どこに行く?」

「ここから北へ」

 彼女はそう言った。すでに決まったことを伝えるような、はっきりとした口調で。


 高層ビルの立ち並ぶ大手町を、北の方へ抜ける。

 土曜日の日中、三車線の道路はそれほど混みあっていなかった。行き交うタクシーと人の数には不釣り合いなほどに広い道幅に、巨大なビルが林立している光景を見ていると、何だか全てが作り物のようにすら思える。どうしてこんなにがらんとした場所に、こんな巨大なものが建っているんだろう?

 でもそれが間違った問いだということは分かっていた。そもそもここは閑散としているわけではないのだ。もしこの場所を平日の朝に訪れれば、それだけで全てに合点がいくはずだ。目の前に見えているものばかりが真実ではないのだ。

 彼女は何も言わずに私の前を歩いていた。私はなるべく何も考えないようにエムの背中だけを追っていた。彼女が導いている場所に見当はついていた。だから、そこに辿り着く前に彼女がどこかのビルに入っていくことを私は望んでいた。けれど現実的な問題としてこのオフィス街のビルのどれかが彼女の目的地である可能性が低いことは明らかだった。私はその思考を駅から出るその一瞬でまとめて、そして不都合な結論を忘却し、それからはできるだけ思索を放棄することを選んだ。

 彼女は大手町を真っ直ぐに抜けていった。日比谷通り沿いには財閥系の銀行や大企業の社屋がその立派さを競うように堂々と立ち並んでいた。目の前には東京高速道路中央環状線の高架が見える。神田橋インターの案内板には主だった繁華街までの距離が羅列されていた。新宿まで九キロ、渋谷まで十キロ。

 エムは何も言わずに私の前を歩いていた。私は彼女に先導されて日比谷通りを北へと進んでいた。そして彼女は神田橋まで辿りついた。高速道路の構造物が橋のぴったり南半分の空を覆い、日本橋川はどろりと淀んで緑色を呈していた。彼女は橋の真ん中まで一歩ずつ私に示すように美しく歩き、ぴったり真ん中で止まった。ちょうど日差しの差し始めるまさにその位置で。

 エムはふり向く。

 私は何も言えずに彼女を見ていた。彼女の唇が動く。

「ホラね、何もない。何もないんだよ」

 彼女はそう言って私に微笑みかけた。上からは高速を行き交う車のノイズが途切れることなく聞こえていた。薄暗い高架の下にいる私と、日差しの差している彼女。エムの微笑みは眩しくて、同時に少し哀しそうに見えた。

「この世界は、もう二十年前じゃない」

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