第13話

 渋谷に着くと、空気は私の喉を突き刺してくる。満員の地下鉄の中の空気は、熱っぽくて湿っていた。地上は全くその反対だった。痺れるように冷たくて、痛くなるほどに乾いている。それでも、地上の空気の方がまだ心地が良かった。

 オフィスの空気は暖かかったけれど、乾燥しているのは外と変わらなくて、その上に埃っぽかった。先にいたエスに挨拶して、コーヒーを淹れる。白く立ち上る湯気に喉が触れて、少し咳き込む。このままだと風邪を引きそうだ。

 ふと見ると、エスが私のことを心配そうに見つめていた。大丈夫だと微笑んで、言葉を継ぐ。

「外が冷たくて、湯気にむせたの」

「それ、大丈夫?」

「私も少しびっくり。このままだと体調崩しそう」

「マフラーとか巻くといいよ」

 エスは自分の席から茶色のマフラーを取り出すと、首に巻く仕草をした。首元を指し示して笑う彼女が、その無邪気な優しさが、眩しい。

「ありがとう。今度探してみる」

「どういたしまして」

 彼女は満面の笑みでそう言うと、マフラーを戻そうとする。取り繕ったものではなく、純粋に私を気遣ってくれているのだとわかるその表情に、私は不意にエムの顔を見出す。

「ねぇ」

 無意識に呼びかけた私に、エスは振り向く。その瞳に見つめられた私は、心を探して、何か言うべき言葉を拾い出そうとする。私は、何のために声を出したんだ? そもそも、私は誰に呼びかけたんだ? 時間すら止まったような気がした。何かが溶けて混ざっていくみたいに、知っていたはずの全てが、感じていたはずの全てがわからなくなっていく。妙に暑い。今目の前にいるのはエス? それとも、エム?

 そして、私の目が不意に情報を捉える。私を疑問気に見つめているのは、エス以外の誰でもなかった。『彼女は彼女であり、その他の何者でもない』――頭の中で、誰かの声が響く。これは一体いつの記憶だろう。思考が戻ってくる。私の中で、私と呼ぶべきモノが私の中のどこかから記憶を手繰り寄せる。歯車が回り出す。

 私は目の前のエスを放置するべきではない。私が戻ってきて最初に思ったことはそれだった。何かを言わなければならない。

「私は、エムに会うべきなのかな」

 それは、疑問の形を取った決意だった。言葉を出すと、それはまるでパズルの一ピースのようにしっくりと響いた。まるで、世界がそれを望んでいたように。今まで思い悩んでいた全てのことが、言葉の前に無力だった。彼女について今まで考えていたことが、真剣な悩みだったはずのそれらが、一瞬にしてくだらないものへと成り下がっていった。

 目前の光景が変わる。全てが、急にリアリティを持ち始める。コーヒーの入ったカップも、灰色の椅子も、灰色の机も、灰色の壁も、灰色の天井も、全てが。今までも感じていたはずのカップの重さが、急に生々しく私を襲う。持ち手が、指に食い込んでくる。コーヒーの水面が揺れて、カップそれ自身の重さも揺れ動く。

 目の前に座るエスの生命をありありと感じる。どこにも触れていなくても、彼女が生きていることが分かる。瞳が揺れている。息をするたびに胸が上下している。頬が赤い。今までも分かっていると思っていたことを、しかし本当は何もわかっていなかったのだと気付かされる。全ては現実なのだ。それ以外の何物でもない。私は現実の中しか生きてはいないし、現実の中だけに生きているのだ。大きく見開かれたエスの瞳が、私を捉えていた。

 随分と時間が経ったような気がした。――実際には僅かな時間だったのだろうけれど、エスが私に尋ねる。微笑んで、まるで子供に語り掛けるような優しい顔で。

「その人、何か大切な人なの?」

 私は頷く。

「じゃあ、会うべきじゃないかな」

 エスは言った。私はもう一度だけ、ゆっくりと頷いた。


 メールを送ると、エムからの返信はすぐに届いた。それはとても単純で、短く、明確なメッセージだった。「構わない」と、彼女からのメールにはそれだけが書かれていた。まるで冷めきった関係に相応しい、と苦笑する。けれど、そのメールはびっくりするくらい一瞬で返ってきていた。

 ご飯を食べているエスに、エムと連絡を取ったことを報告する。彼女はよくやったというように指で丸を作り、口許を緩めた。私も同じように笑みを作る。気分が軽かった。何かに赦された気がしたのだ。私はエムに会ってもいいのだと。あるいは、救われてもいいのだと。エスの微笑みは、私にそれを知らせる福音のような気がした。――彼女の微笑みが、エムの浮かべるそれとほとんど重なって見えた。

「ねぇ」

 私はもう一度彼女にそうやって呼びかけた。

 ――今度は無意識ではなかった。私は確かめたかったのだ。彼女が私の側に存在していることを。根拠なく私はもうほとんど信じ込んでしまっていた。彼女も私たちと同じ世界観の中に生きていて、だから私を導いてくれているのだと。

「あなたって、どこの出身なんだっけ」

 突然の私の問いに、彼女は首を傾げながらも答える。

「東北よ。日本海側」

「どこの県?」

「県?」

 エスは怪訝にすら見える表情をして答える。「今さら?」

 それは、私にとって衝撃だった。――冷静に客観的に考えてみれば、エスの反応は当たり前のことだ。今さらこんなことを聞くこと自体、私の方がずっと異常だ。けれど、私はどうしようもなく重ねてしまっていた。エスとエムとを。だから、彼女の当然の反応が、私にはどうしようもなく辛かったのだ。目の前のこの人は、エムとは違うのだと。とうに統合されているのだと。

 固まった私を気に留めることなく、エスは言葉を継いだ。

「そうね……。県で言えば、たしか秋田のはず」

 思い出すように答える彼女に、私はできるだけ声を振り絞ってありがとうと伝えた。不思議そうに微笑む彼女に覚えるのは、単純なもの悲しさよりも、よっぽど強い孤独感だった。足許が崩れたような錯覚を覚えるほどの。


 私たちはよく最後の世代と呼ばれる。決して好ましい言い方でも、ましてや愛称でもない。詰め込めるだけの悪意を詰め込んで、それからじっくりと煮詰めたような呼び名だ。――時代遅れの習慣と絆しに縛られた可哀想ではた迷惑な人々の中で、一番若い集団。そういう侮蔑的なニュアンスがその言葉には暗黙のうちに含まれているし、ある時には明示的に表明されることすらもある。

 私がその言葉を最初に聞いたのは、中学生の最後の頃だったように思う。一瞬だけ悪化したケイとの距離は完全に元に戻り、私は淡い恋心を抱きながら彼を見ていた。私は確かに彼のことが好きになりかけていたけれど、それでも彼と特別な関係になろうとなんて全く思ってもいなかった。唇を合わせたり、あるいは求めあうように抱き着いたり、そんなことは望んでもいなかったし、むしろ思いつきもしなかった。特別を求めるには私たちはあまりにも特別になりすぎていた。ケイは隣に住んでいて、同じ学校で、よく二人で一緒にいた。私は時々彼の肩に寄りかかって眠りにつくことすらあった。ケイとの距離はあまりにも近すぎて、だからそれ以上距離を詰めるということがどういうことなのか、私はまだ悟ることができていなかった。

 最後の世代という表現を最初に聞いたのはまさにそういう時だった。私たちは私の家で二人で並んでテレビを見ていて、そして液晶の中でどこかの大学の社会学者か何かがその言葉を発したのだ。『あまり仕事に熱心ではなく、社会に対して溶け込めずにいる、私たちのような若者』。それが最後の世代という言葉の最初の定義だった。

 大抵の言葉がそうであるように、その言葉の意味もどんどん拡張されていった。コアの時点であまり好意的だとは言えないその言葉は、雪だるまのように膨れ上がっていくたびに、呆れるほどの悪意を取り込んでいった。もしその悪意を他の部分に使えるとしたら、きっとこの世界は今よりもずっと良くなるだろうと信じられるくらいには、悪意は拡大し、拡張された悪意が悪意を呼び、いつの間にかそれはほとんど差別に近いニュアンスを持つようになっていった。それでも人々は好き好んでこの言葉を使ったし、それによって傷つく人がもしいたとしたら、それはむしろ自分の望みそのものなのだと主張するような態度すら見せるようになった。

 人は自分とは全く違う集団にはいくらでも残酷な態度を取ることができる。それは、私の発見した真実のうちの一つだ。私はこの考えをいつの間にか持っていて、そしてそれは次第に確固たる信念になっていった。人は人を傷付けても原則的には何の痛みも感じることはないのだということを。私はいつかこの考えをケイに伝えたことがある。そうするとケイは哀しそうな顔をして首を振った。「共感できるのが人間という生物の強みであって、そして人はそうやって世界を創っているのだ」、と彼は言った。

「でも私はそう信じている。人は人を躊躇いなく傷付けられる」

「躊躇いなく見えても、いつかは後悔するんだ。人が人である限りはね」

「でも何も感じることのない人もいる。私は知っている。それは真実よ」

「どうしてそう思うんだ?」

「私はそれが真実だと経験してきたから。人生の中でね」

 彼はもうそれ以上何も言わなかった。ただ哀しそうに首を振るだけだった。経験から得た悲観的な観測を信じることは、彼のように肯定的で理性的な判断を持つことよりもずっと愚かであると主張するように。

 経験から得た真実ほど正しいものは何一つ存在しない。私はいつからかそう思うようになった。誰にも理解されなくても、他の人にとってそれが全く正しくないものであっても。結局のところ、私の生きているのは私が生きている世界なのだ。私が見て、認めて、感じる。それが私にとっては全てなのだから。

 私たちはよく最後の世代だと言われる。けれど、それは私たちの責任ではない。私たちはただ偶然になってしまったのだ。望むと望まざるとに関わらず。だからそれを責めるのは、私にはあまりにも残酷なことだと思う。けれど人はそんな風に私たちを評するし、時には生すらも否定されることもある。私たちが障害なのであって、私たちが死ねば全ては解決するのだと。あまりに短絡的な暴言は、立派な肩書と経歴とをぶら下げた人間から大して悪意なく発せられるもので、その人たちはそれによってたぶん何も思うこともない。反省することもないし、私たちがそれにどう思うのかなんて考えもしない。

 私たちはそういう世界に生きている。――二十年前から。

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