第12話

 私たちはそれからの何時間かを怠惰に過ごした。何をした記憶もない。私たちはたぶん冷めきっていたけれど、それでも久しぶりに二人きりになった恋人たちだった。――私は彼が好きだったし、彼も私が好きだった。だから、たぶん恋人。

 時間はそれでもいつもより早く過ぎた。いつの間にか太陽は沈んだし、私はケイと向かい合って食事をした。夜が来ていた。

 元から泊まるつもりだった。私は鞄から寝間着を取り出し、浴室に向かおうとする。ケイは私のその一挙一動をじっと眺めていて、やがて廊下へ出て行こうとする私を呼び止めた。

「いいのか?」

 それは本心を問いかけるような、深みを持った響きだった。私のことを憂慮するような、大切なことを確認するような声。私は一瞬止まる。図星だった。良いはずがなかった。このまま彼といることは、きっと彼が好きだという感情を摩耗させるだけだ。あるはずだった幸せを消していくだけだ。

 抱えていた寝間着を強く握る。けれど、もう流れに抗うことはできなかった。今さら家に帰ることなど、できるはずがなかった。昨日だって今日のために、今からのために準備してきたのだ。どう転んでも、今日はずっとここにいるつもりでいたのだ。

「放っておいて。幸せになりたいわけじゃない」

 感情を押し殺した私の声が、小さく響く。ケイはその声を拾って、そうかとだけ返した。表情の見えない声で、無関心な色で。


 結局その後でケイは私を抱いた。その時はどうあれ、少なくとも後味は最悪だった。二人ともそんなことは百も承知で、それでも止めることは出来なかった。行為中に交わした上滑りするような言葉は、むしろ嫌悪感と失望を呼び覚ます方向へと向かった。

 朝になって、私たちはほとんど言葉も交わさずに着替えた。日曜日の午前中、まだ時間は潤沢にあった。けれど、もう私はここに留まるつもりにはなれなかったし、ケイもきっと私を留め置く気持ちにはなれなかっただろう。私たちはお互いの気持ちを察していた。どんなに愛し合う恋人でも分からないくらい、切実に。

 彼と駅までの道を歩きながら、私たちはもうダメなのだ、と思う。でもそこにあまり切々とした感情はなくて、やっぱりかというような諦観の方をよっぽど強く抱く。ケイはもう私を守るために彼のものを犠牲にしてくれることはないし、私ももう彼に与えられるようなものを持っていないのだ。

 多摩急行線の改札の前で、私は彼に手を振った。私たちはもう隣同士に住んでいるわけではなく、会いたいと思わなければ会わない関係になっていた。彼への好意が失望と諦めに塗り替えられてしまいそうな心を抱えて、もしかしたら私はもう二度とケイに会うことはないのかもしれないと思う。

 彼は手を振り返さなかった。代わりに返ってきたのは、力強いハグだった。ぎゅっと抱きしめられた私は、少し迷った後におずおずと背中に手を回す。行き交う人の視線が刺さる。

 暫くして、彼が私を離した。意図が読めず困惑する私に、彼は告げる。

「誰も、もう囚われる必要なんてないんだ」

 それは、一番聞きたくない言葉だった。しかも、よりにもよって彼から。

 自分の顔色が一瞬で変わったのが分かる。頭に血が上っている。私は、それでも努めて冷静であろうとした。――もしここで彼にビンタでもしようものなら、それが核心をついた言葉だと告白することとほとんど同じだと分かっていたから。

 私は何も言わずにそのまま彼に背を向けて、駅の構内へと走った。ホームに続く階段を駆け上ると、電光掲示板を見つつ、荒い息を整える。

 家への帰り道、彼の言葉だけが心にずっと過り続けていた。


 望むなら、難しいことは何もない。

 私がこのフレーズを最初に聞いたのは、エムに会って暫く経った頃だった。一年生の六月、大学に入って最初の試験が迫っていた。一般的な大学の試験がどれくらいの難易度でどれくらいの努力を必要とするものなのかもわからなかった私は、だから過分に不安になっていた。今から思えばばかばかしくなるくらい勉強していた。

 エムは私に比べればかなり悠々としていた。そもそも彼女自身が要領の良い人間だったということもあるだろうけれど、彼女には余裕があった。一緒に図書館で勉強していても、彼女は途中で帰ってしまったり、別の本を読み始めたりした。疑問に思った私がなぜそんなに自信があるのか問うと、エムはよくこんな風に返した。

「だってほら、なるようになるよ」

 投げやりとも、諦めともとれるような言葉。けれど、そんな風に言った時の彼女は、本当に美しく笑んでいて、だから私は魅了されてしまうのだ。信じ込んでしまうのだ。目の前の彼女は、きっと何事もそんな風にして――綺麗に終えてしまうのだと。

「小手先で足掻いたって仕方がないよ。神様は私たちを見てる。ホラ、だから行こ。近くに美味しいラーメン店があるらしいんだ」

 彼女は最後にはそんな風に言って私を連れ出した。微笑んで、手を取って。断ることなんて到底できなかった。私はその時の店を今でも覚えている。確かに美味しかった。帰った後で乗せられた自分が少しだけ嫌になったけれど、後悔はしなかった。

 エムといると、事態はよくそんな風に化けた。彼女は悩む私に手を差し伸べて、そんな悩みなんてちっぽけなものなのだと言って笑うのだ。けれどそこに嫌味なところはなくて、彼女は本当に美しく笑って、そして私を納得させてしまうのだ。確かにそうだ、きっとこんなことはなるようになるし、なるようにしかならないのだと。そして実際に、箱を開けてみれば彼女の言葉は真実になるのだ。

 そう、彼女がそのフレーズを言ったのは、そのラーメン店が最初だった。カウンターに並んで、私を見て、彼女はそう言ったのだ。

「よく言うでしょう? 『望むなら、難しいことは何もない』って。あれって、真実だね」

 悪戯っぽく笑う彼女の真意は分からなかったけれど、私は微笑んでいた。楽しそうな彼女を見ていると、私までどことなく幸せな気分になれたから。

 私たちは(少なくとも私は)、分かっていないことに対しても分かっているように振舞うことがある。相手に余計な気を遣わせないように。場の空気を読まずに説明を求めて、必要以上の手間を取らせないようにするために。

 今思えば、私はあの時、曖昧に笑ってしまった。楽しそうなエスを見ていて、思わず微笑みを漏らしてしまったのは事実だ。けれど、私は彼女の言葉の意味をあまり深く理解しようとすることなく、軽く流してしまった。彼女は確かにこう言ったのだ。『望むなら難しいことは何もない』という言葉は、正しかったと。私は何も知らなかった。彼女の望みとは何だったのか、裏返しに心配していた難しいこととは何だったのか。それでも私は笑ってしまった。彼女の悪戯な微笑みにつられてしまったのだ。

 私は時々後悔する。ケイとエムと私は、本当に素晴らしい関係だった。大学を出て、まるでその全てが嘘だったかのように消散してしまったけれど、私たちが友達でいた間は、私たちは友達として完璧だった。だから、もしかすると私のちょっとした行動や、ちょっとした言葉で、私たちは今でも強く繋がっていられたのではないかと思ってしまうのだ。エムが心を開いてくれていたかもしれないその時に、私が一歩だけ踏み込めば、事態は振れたのかもしれないと思うのだ。悪い方にかもしれないし、良い方にかもしれないけれど、それがまるでカオス系のように、バタフライ・エフェクトを起こして。

 望むなら、難しいことは何もない。

 もしそれが真実だとするなら、私たちは一体どこまでの望みなら叶えることができるのだろう。もし過去に戻って三人の関係を繋ぎとめることを望めば、私は時間旅行ができるだろうか。たぶんそれは不可能で、人の意志には人の意志だけの可能性しか存在はしていないのだ。

 けれど、人の意志は想像よりずっと強い。思いは、現実を変える。常識を革新する。私はそのことを誰よりも知っている三千万人のうちの中の一人だ。そして、エムはそのことを私よりもずっと理解しているうちの一人だ。私は未だに鮮明に思い出すことができる。エムの仙台の実家で、彼女の父親は噛みしめるように呟いていた。望むなら、難しいことは何もない、と。大学生になった自らの娘を見つめながら。慣れ親しんだ故郷の言い回しを、日本語に訳して。

 たぶんエムは昔からその言葉に触れていたのだろうと思う。彼女の存在それ自体が、エムの両親が起こした奇跡的な出来事を証明していたからだ。彼の父親はエムを見る度にその言葉を思い起こしていたはずだ。人の意志は時々、不可能の壁をすり抜けるのだという感慨を覚えながら。自分が歩んできた道のりを思い返しながら。

 エムの父親は東プロイセンの出身だった。大学生になった彼はモスクワへ行き、そこで彼がやがて結婚することになる一人の女性と出会った。そして彼は仙台市で職場を見つけ、アパートへと移り住んだ。言葉にすればたったそれだけのことでも、その一つ一つに苦労が刻まれているのは間違いがなかった。彼らの生きた年代と、その時代に国境を越えて移住することの厳しさを考えれば、それがどれだけ不可能に近いことかはすぐ理解できるのだから。

 私はそして一つだけ疑問に思うことがある。彼女自身も、物心のついた頃にはそれを理解していたに違いなかった。自分という存在そのものが、人の意志が起こす奇跡を証明するものに他ならないのだと。私は思う。自分自身の存在の根底に、自分では介入できない大きな意味が侵入していると聞いて、彼女はどう思ったのだろう。その無邪気な残酷さに、彼女はどう対応しているのだろうと。一つだけそれを類推できるような材料を挙げるなら、彼女は決してその言葉を負担にしてはいなかった。『望むなら、難しいことは何もない』――エムは時々そう口に出すこともあったし、意識して避けるようなことはなかった。それに、彼女はその言葉が真実だという確信を強く持っていたわけではなかった。あの時、エムはこう言ったのだ。望むなら難しいことは何もないって、あれって真実だね、と。それは、その言葉が既に証明されていると考えている人間の言葉では決してなかった。彼女は、自分自身がそれを証明しているとは思っていなかったのだ。彼女の父親すら、エムのことをその言葉の象徴として見ていたにも関わらず。

 他人の持つイメージから離れて自分のイメージを持つことは、相当に難しいことだ。もしそれが自分にとても近い関係の人であれば、尚更に。

 恐らくエムは承知していたのだと思う。自分の存在が他人にとって、そして何よりも自分の親にとって、どんな意味を持っているのかを。自分自身の存在は、自分の親が起こした奇跡の証明であると。それでも、エムは自分自身をただ自分自身であると考えていた。自分が他人にどう思われているか、そんなことには関わらず、自分は自分であると。自分の意識と信条は、自分自身の人生に基づいて決めるのだと。

 そう考えた時、彼女がどれだけ芯の強い人間なのか、私は驚かされる。私には不可能に思われることを、彼女は自然に、誰に主張することもなく行っていると思うと、芽生えるのはいつも驚嘆と、そして小さな劣等感だった。私はきっとエムほど強いわけでもなければ、エムほど綺麗に生きているわけでもなかった。彼女は自分自身のイメージを自分で掴み取る強さがあって、しかも他人が自分に重ねているイメージを否定することもなかったのだから。

 そして私は彼女に新しいイメージを重ねてしまった。東京の北側に生きる人としてのイメージを。懺悔すれば、それは一人に背負わせるにはあまりにも強烈で過酷なスティグマだった。今の私がエムと単に疎遠になってしまっているだけではなくて、むしろ間に寒風すら吹きすさんでいるのは、ほとんどそのせいだと言ってもいいかもしれない。

 理由が分かっているのなら、彼女からその印を剥がせばいい。それはとても明快で、そして真実性のある指摘だ。確かに、もし私が彼女に抱くそのイメージを取り去って、もう一度一人の人として見ることができれば、私たちはもう少しくらいは良い関係になれるだろうし、それは私にとって本当に魅力的なことだ。けれど、エムは私の付けたそのイメージを了解して、自ら引き受けてくれていた。エムは私のことを悟ってくれているのだ。そして、私は未だに彼女に甘えていた。


 冬の目覚まし時計は、どの季節よりもよっぽど攻撃的に聞こえる。それは、空気の澄んだ季節だから? それとも、起きるのが一番つらい季節だから? 理由を追求するつもりはない。けれど、私にとって冬の目覚まし時計ほど迷惑で、ありがたいものはない。

 ぐしゃぐしゃになった髪を、ドライヤーで伸ばす。『整える』ではないのは、私の行いが自分で見てもそんなに丁寧な仕事ではなくて、とりあえず見られるようになればいいやという怠惰な精神が見え隠れしているからだ。別に、何本かあらぬ方向に飛んでいてもいい。遠目で見て絡まっていなければ、それでいいと。

 鏡に映る自分を見て、いつもと変わらないことを確かめる。まだ化粧はしていないけれど、そんなものしてもしなくても私の場合あまり変わりはしない。すっと通った鼻筋に、野暮ったく垂れた目尻。いつもと同じ自分、他の誰でもない。胸元まで伸びた髪は、もうさっきまでのように塊にはなっていない。だからこれで良い。覚えるのは気怠さの混ざったような安堵だ。

 両親と一緒に食卓を囲む。大学を出てからもごくごく当たり前のように実家暮らしを続けているわけだけれど、もうそろそろ独り立ちをしないと世間体が立たないのかもしれない、と思う。貯金はあるし、収入もそこまで低いわけではないから、ここと同じような郊外なら一人暮らしできないこともないだろうけど。

 世の中は本当に難しい。自分の人生なんて、自分の好きなように生きさせてほしいところだけど、でもきっとそんな風にはいかないのだろう。私たちには秩序が必要で、世間が必要で、それらは時々信じられない方向に飛び火することがある。

「誰も、もう囚われる必要なんてない」

 自分の部屋でスーツに着替えながら、私は呟く。それは、ケイが最後に私に残した言葉だ。私を抱きしめて、目を見て、真剣な声色で。『誰も、もう囚われる必要なんてないんだ』。彼はそう言った。必死に、私を説き伏せるように。

「でも、それは夢物語に過ぎない」

 私は頭の中の彼に答える。頭の中のケイは、哀しそうに首を振った。いつからだろう、彼は私にそんな表情ばかり見せるようになった。

 終わりだ、と声が漏れた。そうだ、もう私たちは終わっている。

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