第11話
ケイから連絡があったのは、十二月の中旬になってからだった。
約束を交わしたのは十一月のことだった。渋谷のカフェで、私は彼の浮気を咎めたのだ。私は何処に行きたいかも言わずに言った。「連れていってはくれない?」と。彼は私には何も訊き返さず、ただ首肯して答えた。そして彼は私の意を完璧に汲んでいた。
彼と待ち合わせたのは渋谷駅だった。私たちはそこから東横線に乗り、横浜へと向かった。朝の東横線は混みあっていた。横浜方面も、渋谷方面も、どちらも同様に混雑していた。渋谷は始発だったから、待てば座ることができた。ケイも私にそれを勧めた。待つか? と。でも私はそのまま電車に乗ることを選んだ。
私たちは車内に押し込められていた。向かい合って、密着していた。彼は私を守るように背中に手を回してくれたけれど、それでも私の身体はケイ以外の誰かとも接触していた。彼は横浜に着くまで何も言わなかったし、私も何も言わなかった。彼は掴んだ吊り革をじっと見ていたし、私は頭を下に傾けて、ケイのコートをぼんやりと見つめていた。私はどんどんケイに近付いていった。そしてついに距離がゼロになったその時に、電車は横浜駅へと滑り込んだ。
私はケイに先導されて地下の多摩急行線のホームまで辿り着き、そのまま快速の電車へと乗り込んだ。横浜へと通勤してくる人が主なこの時間帯で、多摩新都市へと向かう電車は、今までの喧騒が嘘だったかのように静かだ。椅子に座り、まばらにしかいない人を眺めていると、窓とその外のホームドアとで完全に隔離された向こう側では、未だに人が忙しなく流れていることに気付く。それが何だか不思議で、私はまるで世界から取り残されたような気がして、そのままケイの手を握った。彼は私の手を握り返して、私たちは指を絡ませ合った。――それ以外はお互いどこも触れないで真っ直ぐに座り、何でもないような涼しい顔をしながら。
快速電車は地上に出ていくつかの駅を通過し、再び地下に潜ってまたいくつかの駅を飛ばしていた。流れていく景色は、地上にしても地下にしてもあり得ないほどに速くて、長いはずの距離が、本当に短く感じる。やがて電車は止まり、私たちはその駅で降りた。
そこは横浜の郊外で、そして彼のいま住んでいる場所だった。高架のホームからは、遮音壁の後ろにパチンコ店の看板が二つ、堂々と立ち並んでいるのが見える。私はケイに導かれるままに改札を通り、駅ビルの入り口の、柱の陰に並ぶ。
駅前はバスを待つ人で溢れていた。猫の額のような駅前のロータリーは、タクシーもバスも、そもそも人すらも上手く捌けていない。ロータリーの真ん中に横断歩道があり、車が来ると、途切れることなく渡る人の列を警備員が制止し、無理やりに通す。バス停には十分なスペースが確保されてすらいなくて、自然にできた長い待ち列は、そもそも円滑でない通行をさらに妨げる。
それは活気というよりは、むしろ猥雑さを感じさせるような光景だった。明らかに無計画に造られた街は、そのキャパシティを完全に超えて稼働していた。少し面食らっている私に、彼は目で合図すると、目の前の横断歩道を渡り始めた。渡っている最中の私を、ティッシュ配りの人が目ざとく捉え、ティッシュを握らせる。広告はさっき駅から見えた看板と同じパチンコ店のものだ。ギラギラした黄色の地に赤字で書かれたその文字を視界に入れつつ、私は隣にいるケイから離れないように歩く。
駅から少し離れただけで、道からは歩道が消える。私のすぐ横を、タクシーが音を立てて走る。少し怖かったけれど、でも他の人たちが何も言わず、何の動揺も見せずに、さも当たり前のことのように歩き続けていて、だから芽生えた小さな恐怖心は当然捨て去ることにした。しばらく先で復活した歩道に安心していると、そこにはパチンコ店が二つ、道を挟んで向かい合っていた。この街で見た他のどの建物よりも高く大きい立派なその店先には、これまた巨大なモニタが設置されていた。液晶には、新しく決まったアメリカの大統領を特集するテレビが映し出されている。テレビの中では、深刻そうな顔をした出演者たちが、自分のコメントがいかにも重要で、大切なことなのだとでも主張するかのように振舞っていた。新任の大統領の人柄や、嗜好や、それがこの国に与えるだろう影響やらをもっともらしく力説する彼らを見ながら、私は目の前のその光景があまりにもちゃちで、何かバカバカしいことのように思えて、一人肌寒くなった。そもそも禁止されているはずの賭博が暗黙に、そして大々的に行われている店先に置かれたモニタの中で、スーツを着た人々が偉そうに、公衆の代表であるかのような態度で斯く斯くと政治を語り、そして人々はそれを殆ど気にも留めずに歩いてゆくのだ。
私は妙な錯覚すら覚えそうになっていた。雑然とした空間を、冬の朝の弱弱しい太陽が薄く、黄色く染めるその光景は、現実というよりは何かの夢の中のようだ。綺麗な建物の並ぶ整然とした横浜駅から、私はほんの少しだけの時間でこんな場所に来ている。全体的にビルは古くて、道は狭く車が並び、動く人すら機械的に感じる。タイムスリップしてきたみたいだ、と思う。あるいは、逆に今まで見てきたものの全てが虚構の中で、これこそがホンモノなのだというような気すらする。現実感が消える。
それから暫く歩いて、私たちはファストフード店へと辿り着く。二人で同じハンバーガーとポテトのセットを頼み、店の前の道がよく見渡せるカウンター席へと陣取った。
「こうやって席に着くとさ」
切り出した私を、ケイは僅かに身を寄せて聞く。
「人の足が見えないね」
真剣に言う私に、彼は小さく笑う。そうだな、と返す。冗談でも言われた時のような軽い返答は、私には少し悲しかった。それが理不尽なことは分かっている。私にとってですら、その言葉はほとんど何の意味を持つものでもなかったからだ。だけれど、それでも私は彼にも真剣にそう言って欲しかった。そうだな、見えないな、と。深刻そうに、それがいかにも重要なことであるかのように。
私はケイと並んでポテトを摘まむ。隣に彼がいて、二人とも無言で、それでも全く気まずくないということが、私を安心させる。これが私たちの関係だった。そして今もそうだ。そのことが、私には何よりも嬉しかった。
そして、私はもう一つ気付く。足の見えない人々が道を行き交っているところを見ていると、今まで異質に見えていたこの街が、急にリアルに感じられたのだ。それは、今まで見ていたどの景色とも同じだった。――渋谷でも、越谷でも、人は街の中を動き回っているのだ。そして、店のカウンターと曇りガラスで遮られて限定された情報の中のこの街は、そのどれとも同じように見えた。
現実感が戻ってくる。指についたポテトの塩が、ざらざらとした感触を返す。まるで何かのスイッチが入ったみたいに、私という人格が起動する。隣にはケイがいて、彼は今、ハンバーガーを齧っていた。キャベツの音がする。リアルが戻ってくる。
目の前の風景が、急に私にとって意味を持ち始めた。ここは横浜駅から多摩急行線に乗って僅か十分の場所なのだ。西東京――横浜市新緑区。ここは、私たち北東京の人々にとっての越谷と同じ場所のはずだ。私が見たかった場所。西東京の人々にとっての郊外。人はここに住んで、横浜に通うのだ。そして、ケイも今はその一人になっている。
私はケイの方を見て、そして彼がそういう人間の一人になったことが、悲しいというよりも辛いというよりも何よりも不思議なことのように思えた。ケイを見つめる私を、彼もまた見つめながら問いかける。
「なんで首を傾げる?」
「私、首傾げてる?」
「そう見える」
彼の言葉に、私は自分の居住まいを直してから答える。
「不思議だなと思って」
「何が?」
「あなたがここに住んでいるということが」
私の答えは、彼の心を刺激したらしい。ケイは苦々しい顔を浮かべると、赦しを乞うような声色で問うた。
「まだ責めるのか?」
「もう責める気はないわ。ただの、純粋な疑問」
彼はそうは思わないだろう。そう思いながらも、私は目の前の冷たい紅茶のストローに口を付け、会話を切り上げる。
ケイは、基本的に優しい。だからこそ、人が何の気なしに発した言葉ですら気に病むことがある。もう責める気はないというのは私の本心だったけれど、諦めと事後肯定で作られたその心をきっと彼は信じないだろう。でも彼が引っ越したことは、私の心をずっと揺らしたから、それくらいの復讐はしてもきっとバツは当たらないはずだ。
沈黙が流れる。でもそれは決して苦しい種類のそれではない。ケイの左手が今はただ単純に机の上に置かれているだけなのを見て、私はそれに自分の右手を重ねる。
「食べにくいだろ」
不機嫌そうな声を出すケイは、けれどそう言いながら私の指を彼のそれに絡ませる。彼も私も右利きだから、右手を握られている私の方がよっぽど不便だ。それを非難する私の声を、彼はそのまま無視した。
彼の手は随分と乾いていた。ガサガサの感触は、十代の彼にはなかったものだ。それは単純には不快なことだったけれど、私にはむしろ愛しかった。彼が大人になっていることが、私が大人になったということが。――そして何よりも、繋ぐ手の感触を昔と比べられているということそれ自体が。
「ねえ」
前を見たまま、小さくケイを呼ぶ。彼が私の方を見たことを気配で感じる。
「私、今ちょっとだけ幸せ」
ケイは頷いた。私は彼がどんな表情を浮かべているのか見る勇気がなくて、ただ彼の手をぎゅっと握った。握り返してもくれない彼は、きっと今とても悲しい顔をしている。
私はそれからケイの家に行った。ケイの住んでいるところは、さっきまでのファストフード店から坂をずっと上った先にある、それほど古くはない賃貸マンションの一室だった。私は何も言わずにコートを適当な椅子に掛けて、そのまま彼に抱きつく。
彼はまだコートを脱いですらいなかった。彼より私の方がよっぽど機敏なのは、ひとえにここが彼の家だからだ。ここには彼のコートのためのハンガーすらあるのだから。私には何もない。だから何にも拘束されなくてもいい。彼は私の突然の行動に驚いていたが、すぐに適応して腕を回し、私の背中を強く抱きしめた。彼の身体の感触が伝わる。体温が伝わる。そうやって冷静に分析できている自分が、どこか悲しい。
私は暫くそうやってケイにずっと抱きしめられていた。最初に縋りついたのは私で、最後まで縋りついていたのは彼だった。私たちは求めあっているというよりも依存し合っていた。彼と私は共犯者だった。幸せの残渣を感じ合うための。
私はケイのことが好きだった。今だって好きだ。けれど、もうお互いに向き合っていても、抱き合っていても、新しい幸せは得られなかった。私たちは傷つけあっていた。彼は私を放り出して横浜に住んだ。私はそれがどうしようもないことだと認めながらも彼を責め続けた。ケイは私にもう弱みを見せなくなった。このまま私との関係が消滅しても、それは仕方がないのだと暗黙に主張するみたいに。私だって彼に対して可愛げを見せなくなった。会えなくて寂しいのだと言えばよかった。今でも好きなのだと伝えればよかった。でも私はそれより不格好に真顔でいることを選んだ。私は彼と手を繋いだし、抱きつきもした。けれど、それはあまりにも不足した出来事だった。単に量的に不足していただけではなくて、ケイにいま示すものとして方向を全く間違えたものでしかなかった。そのことも彼を大きく傷付けたことに違いなかった。私はもうケイのことなど必要としていないのだと、彼はきっとそう受け取っただろうからだ。
私たちは傷付け合っていて、それでも離れる勇気がなかった。離れたくなかった。私たちは未だにお互いのことが好きだったし、会えばそのことは何となく伝わった。お互いのことを好きでいた今までの自分が望んでいたことをついに達成しようとしている状態で、今流れているこの時間が、いつか近いうちに求めていた幸せに化けるような錯覚を抱きながら離れることは、不可能にほとんど近いことのように思えた。私たちは現在にいて、そしてそれよりももっと、少し前に夢見た幸せの中にいた。昔描いた幸せを、今の無感動が塗りつぶしてゆく絶望的な営みの中にいた。
「ねぇ」
私はケイの耳元に囁く。「ここに来たの、私で何人目?」
彼は私を抱きしめる力もそのままに、表情のない声で答える。
「二人目だ」
「最初に来たのは、前に私が見た人?」
「それで合ってる」
「その人、この近くに住んでいるんでしょ?」
「ああ。――だからこの部屋にしたんだ」
「そう」
自分の声があまりにも無関心で、私はそのことが自分で悲しくなった。
もう私には、嫉妬する気すら沸かない。
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