第9話

 冬が来ていた。

 吸う息は肺を凍らせ、吐く息は空を白く濁らせる。空気の冷たさは街の不浄さも全て取り去っていくみたいに思えて、寒いと分かりながら私は一杯に息を吸った。他のどの季節にも感じられない清々しさのようなものがそこにはあって、雲が一面に掛かって白く濁った空から差す、青白い太陽の光が街を彩度の低い殺風景で清廉な風景へと変えていく。刺々しい空気の存在は、だけれど同じく殺意のある夏の空気とはまた違って、人の温度に対する恋しさのような感情を抱かせる。

 朝八時の渋谷は、まだ冷たい。街はまだ完全には動き出していなくて、道を歩くことは私の自由だ。人の迷惑にならないように荷物や身体を意識する必要はないし、避けるように蛇行する必要も、もちろんない。私は手袋を外してポケットに入れ、指を広げて、両手を外気に晒す。一瞬で奪われる体温が、動かなくなってゆく指が、何故だが妙に楽しくて、今しかできない特別なことのように思えて、少しだけ嬉しくなる。

 道玄坂を上って会社に着いて、そこにいたエスに挨拶をする。パソコンの電源を付け、コーヒーを作る。特に何も考えなくても、手元さえもさして見る必要もなくできる一連の動作の最中に、私はエスの動きが完全に止まっていることを認めた。マグカップを持ったままで中空を見ている彼女を訝しんで、でも声を掛けるほどのことではないように思えて、私は結局ただ淡々と彼女を見つめているようになる。

「どうしたの?」

 声を掛けたのは結局エスの方だった。彼女のことをじっと見つめている私を、むしろエスの方が不審に思ったのだろう。彼女は疑問気に首を傾げ、カップから絶え間なく流れていく湯気の中に顔を隠していた。

「いや、何でもない」

 何かを見抜かれたような居心地の悪さを覚えながら、私はそれを振り払うように微笑みを作った。けれど、その居心地の悪さが自分自身予想もしていない感情だったせいで、微笑みはどうしても愛想の抜けないものになった。

「それならいいんだけど」

 エスはそう言うとマグカップに口を付ける。興味のなさそうな声色は私を安心させるものだ。私は内心でため息を付きながら、自分もコーヒーを飲み始める。苦味は、実際にはそれほど眠気を覚まさせるように思えないけれど、でも気持ち的にはずっと良くなった気がした。

 私はキーボードを叩いてパソコンにログインする。壁紙が読まれて、いつものデスクトップが立ち上がる。あまりに慣れていて、何の感慨も沸かないけれど、でもその背景に何があるのか想像すると、とても怖くなる。キーボードを叩けば、画面がすぐに反応して、切り替わって、私の設定した画像に、全ての画素が従う。私はきっと奇跡みたいなものを目の前に見せられて、けれどそれがいつものことだからというただそれだけの理由で当たり前だと思い込むのだ。それは私の人生に何かとんでもない災いを呼び込むに十分に値するような、重大な瑕疵に感じて、それがとても怖くなる。

 けれど私は当然のことを当然と思い込まなければ生きていくことすらできない。私が生きるのにはお金が必要で、お金のためには仕事が必要だった。私は決して貴族でも領主でも地主でもないのだ。それらはもうずっと昔に亡んだものだ。私たちが、両親が、祖父母が滅したものだ。だから私は働かなくてはならない。当然のことについて考え込んでいるような時間はないのだ。――例えば空が落ちてくるかもしれないことに関して憂さを持ってはならないのだ。そしてそれは生きていくことに関して言えばとても有意義で、効率的で、価値のあることだ。

 いつの間にか私は目の前のディスプレイを睨みつけていた。不意にエスが私の肩を叩く。一息ついて振り返った私に、エスは提案する。今日私と飲みに行かないか、と。

 私はそれに無言で二回だけ頷いて返した。


 脱いだコートは畳むと私よりずっと小さくなる。座るのは、脚をどんなに伸ばしても床に届かない、長椅子。パブの中で、私は隣の椅子に自分のコートを置いて、正面にいるのはエス。彼女もコートを脱いでいて――スーツの上着も脱いでいて、茶色のセーターが体躯を柔らかく包んでいる。

 目の前にあるのはヴォッカベースのカクテル。そうすれば私は綺麗に酔うことができた。――次の日には残らないで、でも今だけはきちんと酔える。

 エスと飲むなんていうことは久しぶりで、感覚的にはほとんど初めてみたいなものだった。だから私は目の前に彼女とアルコールが並んでいるその状況に、意味もなく少し緊張していた。でも、結局のところ飲み始めたらどうせそんなものどうでもよくなるのだ。だからそれは要らない緊張だということを私は知っていて、けれど緊張をしないでいるということは不可能だった。だから私は緊張していた。迷っていたのだ。何を話すべきなのか、どうすればいいのか、踏みだしたら嫌われるような気がして、離れたら嫌われる気がした。

「とても久しぶりな気がする」

 エスは私を見て、まるで何かを尋ねかけるような口調でそう言った。顔を疑問気に小さく傾けて、まるで気を引こうとするように私を上目で見つめる彼女に、気恥ずかしさと、何か見てはいけないものを見てしまったような罪悪感を重ねて、私は気持ち下を向いた。そこにあるのは彼女の唇と、オレンジと紫のカクテルで、薄暗いからこそ色を鮮やかに強調するようなパブの照明が、光景をあまりにも革新的に美しく見せる。

 私はけれど彼女とは裏腹に何も返すことができない。同意することも、あるいは何か新しい話題を打ち出すことも、決して無理なことでもなければ、それほど難しいことでもないはずだった。けれど、私はそれでも頷くことすらできなかった。理由は自分でも判らなかった。私の視界が綺麗だったからか、エスの輪郭が今まで思っていた以上にはっきりとその魅力的な線を描いていたからか、とても目を合わせていられないほどの彼女の瞳のせいだったのか。そして私はそういう理由たちに甘えてその場で固まっていた。――むしろ、言い訳を考えることだけに努めて頭を集中させていた。

 私の膠着を眺めながら、彼女は落ち着き払って目の前の黄色いカクテルに口を付けている。今まで私を見ていた彼女の瞳は、もうすでに私とは全く違う場所へと向けられていた。私の視界に、エスの横顔が映る。何かを見つめる時の人の瞳は――それが自分以外のものに向けられている時には――本当に綺麗だ。私はずっと昔からそう思ってきた。きっと、何かを見つめている時の、あるいはただ頭の中で何かを考えていて、意識せずにどこかへ視線を向けているような時の、人の目の姿は一般に美しいのだ。人がどこかに目を向けて、そしてそれを維持している時、人はきっと、何かに集中している。人一人の意識が、何かに向けられている。生きていて、考えている。それはきっととてもかけがえのないことだ。私はそう思う。だから私はそういう風な人の営みが好きだ。目をどこかにじっと置いているという営みが好きなのだ。そしてそれが私自身について向けられているものではない時、私はその美しさを実感することができる。その時私は第三者だからだ。人に見つめられている時の恐怖感、誰かに自分のことを考えられている時の恐怖感を、感じずに済むからだ。だから私は単純にその美しさを感じることができるし、実際に美しいと思うことができる。

 私は吸い込まれるように彼女の横顔を見ていた。エスはどことなく気怠そうで、そういえば彼女はあまりお酒には強くないのだということを思い出し、そうすると彼女の頬が少しばかり赤みがかっているように見えた。私はそれが――彼女が酔っていて、私が素面なことが――、何故だかちょっと卑怯なことのように思って、目の前の紫色のカクテルを手に取る。グラスの三分の一くらいまで飲むと、何となく身体が暖まってきたような気がして、私は安心しながら、それをテーブルの上へと戻す。暗い照明が燈す曖昧な輪郭は、だからそれが自分が酔っているせいなのか、それとも明かりのせいなのかを分からなくする。それは自分自身がどれだけ酔っているのかということすらも隠されているのと同じことで、つまり自分のことですら私は環境が違えばわからなくなるのだということを嫌でも実感させられる。

 そしてエスの瞳が不意に私を捉える。艶消しの綺麗な黒が、私の視界に映る。彼女は何も言わず、私の頭は彼女の瞳だけに支配される。それは美しい黒で、曲面で、見ていると恐怖を覚えるくらい、真っ直ぐに私を切り裂くもののように思える。

「私には幼馴染がいる」

 彼女は淡々とそう切り出す。視界の隅の方で、エスの唇が動いていることを私は観測した。だから、何故だかいつもより低く大人びているように思えるその声は、それでもエスのものなのだと、私はそう認識する。

「でもそれだけ。私は彼が今何をしているのか知らない。どこに住んでいて、どこで働いているのかも。あるいは、働いているのかどうかでさえ」

 彼女はグラスを左手で取った。一息つくようにそれに口を付ける。けれど、飲み終わった後に訪れたのは沈黙だった。彼女はもうそれ以上何かを言おうとしなかった。だから、私は彼女の言った言葉の、その意味を探そうとする。

「その人のこと、好きだったの?」

「ううん、好きってわけじゃない」

 彼女は首を左右に振って、私の問いを明確に否定する。その声には焦りも照れも何も含まれてはいなくて、彼女の心はその言葉通りなのだと私は理解する。

「もちろん、全然好意がないってわけじゃない。小さい時に仲が良かったことは覚えているし、今だって会えばきっと友達に戻れると思う。時間を巻き戻すみたいに。でも、それが私にとってそこまで魅力的というわけではないの。連絡を取ろうとしたことが、今まで一度もなかったくらいだから」

 そう、と相槌を打ちながら、きっとそれが正常なのだ、と思う。人と人との関係なんて徐々に移り変わっていくことの方が普通で、誰かに固執することの方が異常なのだ。彼女は秋田生まれで、仙台の大学に通い、就職して東京に来ていた。だから彼女はそれぞれに交友があり、土地が変わるごとにその関係を更新してきたはずだ。――ずっと隣に住み、あまつさえ大学まで同じだった私とケイの事情とは明らかに異なるのだ。たとえそれが同じ言葉で――幼馴染という言葉で――表される関係であっても。

 私はそう思いながら、そして答えを予想しながら、彼女に問いを投げる。

「後悔している? 連絡を取らなかったこと」

「多少は。連絡を取っていれば、帰省した時、親に会うだけじゃなくて、もっとすることができたかもしれない、とは思う」

「今からでも連絡してみれば、何か変わるかもしれない」

「だけど、そんな風に努力をするつもりはないの。私が思うのは、ただそうだったかもしれない、という可能性だけ。それを現実にするつもりはないし、後悔もしない。ただ、そういうこともあったのかもしれないって、時々思う」

 彼女はどうでも良さそうに、まるで興味のない話を切り替えたいと願っている時のような口調で、そんな言葉を投げる。会話を続けられなくなった私は、再び目の前にあるグラスを取った。ただ沈黙に耐えるためだけに酒を飲んでいくのは、あまり良くないことかもしれないけれど。

 何か無難な適当な話題を探していた私に、話しかけたのはまたも彼女の方だった。

「あなたは?」

「私?」

「あなたは、後悔している?」

 まるで心を覗くように私のことを見つめながら、エスは優しく、まるで親が小さな子供に問いかけるような口調でそう尋ねる。私はその言葉に凍り付く。短い問いに意味が解らなかったわけではない。むしろその逆だった。彼女は明らかに尋ねていた。私とケイとの関係を。後悔していないのかと。

 エスは私とケイのことを確かに知っていた。出会ってすぐの時に、私はエスとケイを引き合わせていた。けれどそれは就職した直後のことで、もう七年ほども前のことだ。だから彼女が未だにケイを覚えていて、私のことを見抜いていることは軽い以上の衝撃だった。彼が引っ越してから塞いでいる私のことを、幼馴染が、ケイが原因だと看破していることは、戦慄すら抱くことだった。

 鳥肌の立った腕をさすりながら、私は出来るだけ無難に、当たり障りのないような答えを返そうとする。私には、これ以上悟られたくないという感情があった。プライドがあった。幼馴染に固執して、大学で知り合った一番大切な友達を傷つけ、挙句の果てに、その執着したケイにまで去られようとしている自分を、知られたくはなかった。

「後悔するようなことは、何もない」

 たった一文。たった五秒。それだけの言葉を、けれど私の口は正常に発することができない。自分で聞いてもまるで怯えているような口調でそう返した私に、エスは本当に残念そうな顔をする。

「私の予想、外れてたか」

 ため息でもつきそうなその口調に、私ははっとする。エスは間違いなく私がケイのことで悩んでいることを見抜いていて、飲みに誘って、話題を作ってくれたのだ。心を閉じるような自分の言葉は、きっと残酷なことに他ならない。予想が外れていたというその言葉には、私が彼女を拒絶したことに対する反応も込められているのではないか。私は自己嫌悪する。くだらないプライドを押し通して、ただ自分の状況のみを悟られまいとすることが、どれだけ汚いことか。

「違う、たぶん当たっている」

 バツの悪そうに答える私に、エスはただ頷いて、言葉を促す。真剣な目に、私はもう後戻りはできないのだと思った。後悔した。嫌われたくないという思いと、最低だという自嘲がついさっき決意させたことについて、私はそれでもまだ悔いていた。

「幼馴染が、横浜へ引っ越した。私はそのことが頭から離れない」

 エスへの言葉を探しながら、途切れがちに継ぎながら、同時に私は自分自身と――自分の感情と――向き合っていた。私が感じていたのは、痛いほどの寂寥だった。無力感だった。自己嫌悪だった。ケイやエムに対する憎しみと、それがほんの些細なことのように思えるほどの愛しさだった。私は彼を殴りたかったし、彼のコートを握りしめて泣きつきたかった。誰か、誰でもいい他の奴に頬を叩かれて、散々罵倒されたかった。生きる価値を誰かに否定されたかった。

 私の心は支離滅裂だった。憎まれて、恨まれて、否定されることを望んでいた。でも同時に、赦されたいという気持ちは何よりも強かった。それでいいのだと言われたかった。確かに私は色々な人を傷つけた最低な人間だけれど、それでも構わないのだと。私は誰かにそう言われたかった。誰かに。ケイでなくてもよかった。エムでなくてもよかった。もちろん、目の前にいるエスでもよかったし、エスでなくてもよかった。

 それをそのまま言葉にすることは憚られた。そして、何よりも、それを言葉に出すということは何か誤ったことのように私には思えた。確かに、私は心の中で確かにそう考えている。誰かが私を――自分が思っている通りに――最低な存在だと認めてくれて、それでもいいのだと赦してくれたら、それはどんなに素敵なことだろう。――私は心の底からそう思っている。それは真実だ。でも、それはあくまで私の心の中の真実でしかない。声に出せば、それは真実とは程遠いところに行ってしまうように私には感じた。声に出すという行為が暗黙に含有している意味と形態――例えば、伝わってほしいと願っているということ、言葉は自分の声によって時間をかけて運ばれるということ――が、それを真実から嘘へと変えてしまう気がした。だから、私は一番根本的で、嘘になりようがないことだけを取り出したのだ。私の感情は、ケイが横浜へ越していってしまうことによって揺さぶられていた。たとえそれがそれ単体ではそこまでの意味を持たなかったかもしれないことだったにしても、実際に私の気持ちを大きく揺り動かしたのはその事実だった。――ケイが越したことはただの象徴に過ぎないことは私にも分かっていた。今まで私がエムにしてきたことや、みっともない嫉妬や、固執や、色々なものが積み重なって、ついにそんな風に致命的に追い詰められることになったのだということは私の目にも明らかだった。けれど、もしケイが横浜に越すことがなければ、それは私にとってまだ無視できる範囲内だった。自己中心的だと言われるかもしれないけれど、でもそれが私の真実だった。

 だから私は伝えた。幼馴染が横浜に越すことが頭から離れないのだと。それは私が言える最も正確で、そして間違いのない事実だった。それは私が誠実であったことを意味しない。私のしたことは明らかに逃避でもあったからだ。もし逃げずに、最も誠実な方法を取るのならば、私は明らかに伝えるべきだったのだ、エムに何をしてきたのかを。その全てを。けれど私は結局エスにそれを言うことはできなかった。

 エスは私の言葉に頷いた。共感するでもなく、同情するでもなく、彼女はただ頷いて、何も変わらなかった。彼女は私に次の言葉を継がそうとはしなかったし、その目にはほとんど何の感情も浮かんでいないように見えた。

 私はその時、言葉を継ごうとしていた。もっと正確に言えば、エスは私に言葉を継がせるだろうと考えていた。けれど彼女がしたことはそうではなかった。彼女は私の言葉に食いつくことはなかったし、私のことをそれ以上聞いてくることもなかった。心の中に最初に浮かんだのは、何となく肩透かしで、淋しいような気持ちだった。尋ねられると思っていたことを、実際にはただ流されるだけだったというのは、非論理的なことだけれど、妙な切なさを感じさせることだった。――自分は彼女ではなく、彼女は彼女自身でしかないのだということをもちろん認めつつも。けれど彼女のその態度は、エスが私に無関心であることを意味しているのではないことは私も知っていた。何よりも、彼女が今この場所で私と向かい合っているという事実が、彼女が私のことを考えてくれているのだということを証明していた。だから、次に浮かんだのは心の軽さだった。心の内を吐露することは、それがたとえばずっと長い間流れることもなく暗い闇の中を停留し続けた地下水のようなドロドロとした腐りかけた感情をそのまま光の下に晒すというわけではなくて、あくまでとっかかり程度の軽いものにしか過ぎないものだとしても、自分が想像していたのよりも遥かに負荷になり得るのだということを私は実感していた。だから自分のペースで、自分が覚悟できている分だけを話せるというのは、単純に魅力的なことに思えた。自分がどれだけ浅ましく罪深い存在かということを直前まで嫌悪しながら、それでも次の瞬間には私はそれとはまったく関係もなく、自分が守られることに対する安堵感を覚えていた。(だけれどそれは人として当然のことだと私は思う)

 エスは無言になった私をしばらくは同じように何も言わずに見つめていたが、少しすると、何か面白いことをふと思い出したような軽い微笑みを浮かべた。穏やかな笑みで、だからその突然さに関わらず、それはとても自然なことのように思えた。

 私が彼女の変化に疑問気に顔を傾けると、エスはごめん、何でもないの、と答えて、もっと楽しそうに微笑んだ。その顔からは彼女がさっきまで浮かべていた憂いのようなもの――それが私に真実を吐き出させたのだ――は既に消え失せていて、元々の彼女の明るいイメージへと戻っていた。人懐っこい彼女へと。今までの真剣さの行き場を失くさせるようなその行動は、本当に少しだけ私に怒りに似た感情を抱かせたけれど、エスの楽しそうな態度は、私から確実に棘を抜き去っていった。

「ごめんなさい。でも、何となく楽しくなって」

 言葉通り本当に楽しそうに微笑む彼女に、構わないけど、と返す。その言外に含んだ質問を理解したようで、少しの時間を空けてからエスはまた話し出した。

「あなたが私に相談してくれているんだ、って思ったら、嬉しくなって。会ってから、あなたはすっごく凛としていて、かっこよくて。でも、ずっと距離を感じてたから」

 その言葉は私にとって意外なものだった。凛としていて、格好いいというその印象は、まさに私が彼女に対して抱いていたものだったからだ。そしてそれは、そうではない自分との対比として強く掴んだイメージでもあった。けれど目を見ていれば、にわかには信じられないようなその言葉は、彼女の本心なのだということは明確だった。

 私が格好いい? 凛としている? 自分の心の中をその疑問が永遠に反射していた。あり得ない、と思う。けれど私はそう思いながらもどこか嬉しいと思っている自分自身を知覚してもいた。今まで生きてきたことを肯定された気がした。それほどやさしいわけではない人生を、あなたは今まできちんと生きてきたのだ、と。

「あなたは、好きな人いる?」

 言葉が、自分の口から飛び出す。それはほとんど反射的なことで、感情を通した妥当な選択では決してなかった。そうだね、と悩む彼女の声と考え込むようなその反応を見ながら、私はちょっとした罪悪感と強烈な後悔に襲われる。

 エスは、たぶん気付いていない。彼女が繰り出した今までの質問も、私の答えも、それは幼馴染に対する感情に、ケイへの恋に焦点を当てた会話だ。だから、私がここでエスに対して恋の話を振ることは、客観的に見ればそれほどおかしいことではなくて、相談としては普通のことだ。恋に悩む一人が、もう一人にアドバイスを求める。きっと私の言葉はそう見える。だからエスはきっと心苦しいくらい真剣に悩んでくれるし、私が逃げたとは夢にも思わないだろう。

 けれど私にとってそれは確実に逃げだった。私はケイへの恋などという単純な感情について悩んでいるわけではなかった。どちらかと言えば、私の知っている人がみんなみんな消えてしまうことについて孤独と恐怖を抱いているのだ。私は取り残されていた。ケイは先に進んだ。彼は統合されることを選んだ。エムは残った。残って、戦うことを選んだ。みんな大人になった。私だけが、まだ二十年前にいた。私だけ子供だ。何も決められず、何も掴めず、まだ混乱の最中にいる。

 私は熱い部分でエスに心を開こうとし、私を伝えようとしていた。けれど、冷静な部分ではエスから逃れる方法をずっと探していた。そして私は逃げることに決めたのだ。私は今、自分が冷酷な人間であることを自覚していた。こんなに優しくて親身な人から、私は自己保身で逃げようとしている。

 言い訳をすれば、心を開かないことは私の昔からの自衛手段だった。私には心を開ける人などほとんど誰もいなかった。だからこれは癖なのだ。心を閉じて、自分のことをできるだけ隠すことが、一人の少女についてずっと大切なことであり続けていた。でもそれが言い訳でしかないことは私も重々分かっていた。――私は本当に最低な人間だ。

 エスはそれからいつものように明るく、人懐っこく笑った。私には、あんまり恋というものが分からないんだ、と。その言葉の終わり頃には、彼女はどこか寂しそうに、あるいは気怠そうにも見えるようにその笑みの種類を変えていた。私はそれを見ながら、これほど綺麗な人がこの世の中にいるのだ、と今更ながら思った。

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