第8話

 デスクの上に置かれたコーヒーからは、湯気がゆっくりと穏やかに、けれど周りの空気を確実に白く染めながら立ち上っていた。それは私に世界が正しく回っていることを伝えているように感じさせた。どんなものも暖めれば湯気を発するし、それは必ず白く、そして空へと昇り、やがて溶けてゆく。

 私はエムに無性に会いたくなっていた。私の最低なところはまさにこういうところで、私は彼女を勝手にずっと前の記憶の中から呼び出しては、その度に一方的に会いたくなるのだ。そして私は突然に連絡を取り、思い出したように理由を取り繕っては、彼女の良心に訴えかけようとするのだ。どうしてもあなたに相談したいことがあるのだと縋りついて、願を立てて。もちろん実際の言葉と比較すればそれは誇張かもしれないけれど、私の気持ちとしてはそれくらい卑しいところまで落ちていて、だからもうそっちの方が心理的に言えばよっぽど真実だった。

 それが最低だというのは、人を自分の都合に寄り添うように勝手に操作しようというその浅はかな試み自体が愚かだというのもあるけれど、その操作しようとする対象がエムだということが罪をはるかに大きくしていた。私が彼女にしてきたことを考えれば、私はすでに地獄に落ちていてもおかしくないのだ。私はエムからケイを奪い、その上、一時期は彼女自身からも逃避しさえしたのだから。そもそも、エムとの最初ですら、私はたぶんに同情とか慈悲とか、そういう同格の人間には抱かないだろうような気持ちを抱いてもいた。そう思うと私は絶望的な気持ちになる。エムのことを本当に純粋な友達として考えていた時期が私に一体どれだけあっただろうかと。

 私はエムと会った最後を思い出す。彼女は渋谷のカフェに居て、コーヒーフロートを頼み、そしてコーヒーだけを残して去っていってしまった。彼女は言った。あなたも横浜に行ってしまえばいい、と。そしてその言葉に反応した私を置いて出ていってしまったのだ。私は思い出す。彼女の私を測るような目を。そしてそれ以来私たちは今日までどちらからも連絡一つ取ることはなかった。

 彼女はもう限りなく遠くにある気がした。けれどそれは私にとってはよくあることだった。いつもそうなのだ。連絡を取る前、彼女は毎回ずっと遠くにいて、けれど暫くすると私は彼女に会えて、会ってからはまたずっと遠くに戻っていくのだ。だから私は、何となく今でもエムに会えるような予感がした。たとえ、今彼女が私の心から無限遠の彼方にいたとしても。それは――望めば会えることと、心理的に遠くにいることとは――、矛盾しているように感じられるけれど、でも実際に彼女は遠くにもいた。連絡を取るまでには高い障壁があった。心理的な壁が。私はそれを見ると心が痛くなり、自分自身の汚れや罪深さにはっとするのだ。そしてエムと連絡を取らないでいることが正義であって、私はもう二度と彼女と関わらないでいることが自分の義務のような気持ちさえ抱くのだ。

 どちらにせよ、と私は思った。今は仕事に戻る必要がある。そしてもし終業時間になってもエムに会いたいのならば、銀座線の中でメールを打てばいいのだ。大抵のことは時間が経てば洗練され、美しくなる。形があるものでも、ないものでも、自分の思考でさえも。私には今はそういう逃げ道があった。


 結局私はその日エムに連絡を取る勇気がなかった。だからエムに会うその日の前に、私は決定的な日を迎えることになった。ケイが、越谷から横浜へと移るのだ。

 彼はほとんど何も持っていくことがなかった。彼が新しく暮らすことになる横浜の部屋へ――賃貸マンションへ持ち込んだものは、スーツと、私服の組と、そんなものだけだった。彼が持って出たのは小さなスーツケース一つきりだった。

 私は朝からずっと窓を気にしていた。本を読みながら、ラジオを掛けながら、リビングにある小さな窓から家の前の通りを観測し続けていた。他のことに集中しているふりをしながら、あるいは本当に集中しようとしながら、それでも私は他のことに全く心を向けられないままで、窓を見ていた。

 彼がアスファルトの上に現れたのは午後の最初の頃だった。私は意識してゆっくりと足を動かし、ドアに手を掛けて、髪型が気になって洗面台に駆けて行き、そして再びゆっくりと玄関へと戻り、ドアノブを回した。小さな金属音がして、私を外の空気が包む。頬を撫でるのは冷たい風。季節は木々をすでに丸裸にしていて、少し前まで空気の中を埋め尽くして踊っていた銀杏の葉は、全てを諦めたように道端へと掃かれて小さな山を作っていた。

 ケイは私を見ていた。きっと彼も私が外に出る前から私の家のドアをじっと見つめていたことに疑いはなかった。私たちは暫くの間見つめ合った。彼は灰色の服を着ていた。灰色のコート。そして私たちは何も言わずに見つめ合った。ケイの黒い瞳は私を一瞬も離さなかった。それとも、それは私がただ彼から目を離したくなかっただけだったかもしれない。私は直感していた。これが最後なのだと。――何の最後なのかもわからないままに。だから私は彼の目を私以外のものに向けさせる気はなかった。一瞬も。

 風が吹いた。髪が煽られて私の顔の前を舞い、彼と私の間を黄色い葉葉が埋める。思い出したように軽快な秋の音を奏でながら。私の目の表面を前髪が撫でて、思わず目を閉じてしまう。急いで再び取り戻した視界に、ケイの背中が映る。思わず手を伸ばして、危うくバランスを崩しそうになった身体は、けれど彼を引き留める言葉すら思うように出てこない。私は何も言えなかった。脳はケイの後ろ姿をコマ送りのように不連続に認める。叫ぶ言葉はただ肺を壊すように空気を強く送り出すだけ。無力感が私を包む。

 そしてケイが私を不意に振り返る。困ったような表情は、私を迷惑がっている証拠なのか、彼も私と同じことを感じていたのか、今でも分からない。乱れた前髪の彼は、ずっと聞いてきたその声で言う。「ありがとう」と。私の頬を滴が粘着質に流れていく。右手でそれを掬って、濁った視界にそれが無意識に流れた涙だと知った。

 そして彼は再び背中を向けて、私は認識する。ケイの茶色のパンツと、黒のスーツケースとを。私が靴をつっかけたまま道へ飛び出て、彼が見えなくなるまで、もうケイはそれから二度と私のことを振り返ることはなかった。


 物事にはそれに相応しい時期というものがある。その前では早すぎ、その後では遅すぎるような時期が。例えばそれは乳飲み子に道理を説いたり、もう全てが一つの計画によって動き出している時にそれを否定して新たな案を示したりするような時に相当する。そういうことは、もしそれが別の適している時に行われるのならば有益だけれど、それが今その時期ではないというそれだけの単純な理由で無益になり、あるいは害を与えることにすらなる。そういうことを、私は理解しているつもりで、いざ自分がその立場に立ってみると、時期を過ぎても諦められないものがあったり、機が熟していない時でも我慢できないことがあったりする。

 私はその時にも察していたのだ。ケイが横浜に越していったあの時から、私とケイが関わっていく時期はすでに終わったのだと。もう会っても何も得られないし、話しても為にならないのだと。けれど、それでも私は彼のことを諦め切れなかったのだ。表面で賢そうなことを言って、何かを理解したつもりになっていても、私の行動はどうしようもなく感情に拘束されている。私はそのことが嫌で仕方がなかった。

 告白すれば、私は理解していた。エムがケイとの交際を私に告げたあの日から、私は彼らにとって毒にしかならないということに。そして彼らにとって私が毒ならば、彼らは次第に私にとっても毒になっていくだろうということに。私がそれを無意識に悟ったのはあの春の日だった。その日は穏やかな陽気に包まれていて、私は大学にあるベンチを、エムの隣に腰かけていた。そして彼女はいつものように瑞々しくそこに在って、私を魅了するようにソフトクリームを舐めているのだ。私は足を伸ばして、ずっと膝を曲げていた時だけに味わえる、快感の混ざったような特別な解放感を味わっていた。気持ちのいい昼間だった。私はあくびを一つ噛み殺して、手を前に伸ばして、するとエムの脚が私に当たったのだ。私は彼女に振り向く。彼女は言う。「ケイと付き合うことになった」と。私はその瞬間頭の中が真っ白になったことを覚えている。私は単純に嬉しかったのだ。私はエムのことも好きで、ケイのことも好きだった。彼らが付き合うことを祝福しない理由などどこにあると言うのだ。けれど、同時に私は深く深く自覚することになった。私はそういう意味でなくケイが好きだったのだと。そしてそれ以上に、私はその言葉に無力さを覚えていた。私はもうすでに彼らに何かを与えられる立場から後退したのではないかと思い込んだ。今までずっと彼らと共有してきたと思っていた世界が、実は彼ら二人だけのものになりつつあることを悟った。確かにそれらは私の勘違いであったかもしれない。私は彼らとまだずっと多くのものをやり取りすることができただろうし、少なくとも新しい世界を紡いでいくことはできたはずだ。けれど、そう思った瞬間に、それは現実になってしまった。彼らに対して今まで抱いていた感情が消えてしまって、あるいは卑屈な精神が芽生えてしまった時に、私たちの行く末はもう破壊の方向に舵を取って進んでしまった。人と人の間など、別れていくのが自然なのだ。私が綱を落としたその時に、全てはもう繋ぎ留められない運命へと転じてしまった。

 それから私たちは大学を卒業し、エムは千住にある商社へと進み、ケイは横浜にあるメーカーへと進んだ。そして彼らが疎遠になった隙に、私はケイをエムから盗み出したのだ。――客観的に言えば、その疎遠はきっと私が何もしなければ解決したはずのものだし、彼らもそれを十分に分かっていたと思う。それでも私はケイの気持ちを自分へと向けさせることに十二分に成功したのだ。そのことに浮かれて、彼との関係を見せつけるように再び彼女と連絡を取った私に、けれどエムは何も言うことはなかった。

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