第7話

 人というのは不思議なもので、その時にはわからなかったことが、それが過去になってからそうだったのだと納得することがある。それはきっと、記憶には自分にとって都合がよくなるようにこじつける機能があることの証拠だけれど、それでもそういうことを見つけると、記憶を信頼して納得したり、悔いたりしてしまうものだ。

 私たちが記念に仙台に行ったのは、大学の二年生の冬休みだった。仙台はエムの故郷で、だからケイと私は彼女に街を案内して貰ったのだ。私が後悔しているのは、その時の私は明らかに異分子で、いなければよかったのではないかということについてだ。

 三年生の五月に私に交際を伝えることになる彼らは、きっと二人での旅行を望んでいたのではないか。――例えば、あの時の道の歩き方がエムとケイと私の並びだったことや、そしてエムのたまに見せたはにかむような微笑みやそういうものが、恋人の最初に現れるような特別な気恥ずかしさでできていたように思えて、私は悔いてしまう。

 私は二人ともが好きだった。今も好きだけれど、その時は今よりもずっと単純に好きだったのだ。同じ経験を共有する、仲間として。幼馴染のケイにそういう気持ちを抱くことは普通だとしても、あるいはエムに対して抱くのは一般的に言えば不可思議なことかもしれない。けれど、実際に私たちは同じだった。だから――。

 後悔を抱くのは、あるいはあまりにも罪深いことかもしれない。私たちは確かにあの時の旅行を楽しんだのだし、エムが微笑みを向けたのはきっと半分以上私に対してだった。ケイが見つめたのは、三分の一くらいはきっと私だった。自分の良いように記憶された思い出は、願望でないか不安になるけれど、でも私の中では間違いなく真実で、ほとんど確かな事実だと思う。私たちは三人で仙台にいた。出来たばかりの新幹線に乗って、三人でいることを噛みしめたのだ。

 その時の街は、建て替えが周辺部へと普及し始めていた。私たちは中心部にあるホテルに泊まって、結局深夜まで一緒に笑い合った。その時感じたのは、楽しさと、少しの疲労感と、くすぐったくなるような後悔だった。今になって覚えているのは、いつもより近いケイとの距離とか、生糸のように綺麗なエムの髪とか、些細で、きっと取るに足らないようなことだ。それは今思えば信じられないくらい大切で、輝いていて、取り戻すことなどできなくて、胸を締め付けるように痛ませる。

 エムの破れるような笑顔も、ケイの綻んだ横顔も、その時のものはすべてが輝いていた。仙台の街からは不格好で整然としたものが消えうせ、綺麗で不揃いで美しいものがどんどん建てられていた。初めて見たその街はとても魅力的で、だからこそエムが時々見せた無表情はあまりに不格好だった。その旅行中、彼女はよく笑っていて、けれどそれと同時にいつもよりぼーっとしていた。それは、熱に浮かされていて、高調しているというわけではなく、むしろその逆のように見えた。

「睡眠不足なんだ」

 問うた私に彼女はそう答えて、彼女はその紅い唇の先を上げた。その表情は同性の私をして魅了させられるように淡くて、そしてその言葉は確かに現実の一側面だった。だって、私たちはホテルの一室で遅くまで話し続けていたのだから。私は彼女に微笑みを返して、つまり彼女の物憂さは睡眠不足ということになった。

 エムの実家は仙台の郊外にあった。地下鉄線を南に進んで、それから郊外電車に乗り換えて、駅前すぐの住宅団地に。そこは一般労働者向けに開発されて供給された数ある住居の一つで、立ち並ぶ同じスタイルの建物を数えて何個目かのところだった。

 最初は行くつもりではなかった。私たちは最初から最後まで街中の小さなホテルに泊まるつもりだったし、それだけでいいと思っていた。エムの家族を知りたい願望より、迷惑になりたくない希望の方がずっと大きかった。けれど、旅行中に鳴ったエムの携帯電話は、彼女の両親が私たちを歓迎してくれることを確かに伝えたし、今や私たちのするべきことは誰の身にも明らかだった。

 地下鉄はもうずっと前から地上の風景を映し出していた。私たちはホームから階段を下りて改札を通り、昔からの整然とした通りを歩きだした。――エムが少し前に出て、ケイがそれに寄り添うように。だから私は自然とエムの後ろを、斜め前で進むケイの横顔を見つつ歩いていた。

 エムの両親は彼女によく似ていた。――もちろん、冷静になって考えればエムの方が彼らの特徴を受け継いでいることに違いはないのだけれど、私からすればそちらの方がよっぽど真実だった。初めて彼らを見て感じたのはその瞳の美しさだった。深く穏やかな黒色の瞳をした母親と、淡く消えてしまいそうな茶色の瞳をした父親。そして何よりも、その瞳には決然とした幸福が刻まれていた。自分たちの選択と覚悟で今の現実があるのだと、彼らは無言でそう語っているようにすら見えた。

 エムの瞳は澄んだ焦げ茶色だ。その目は見つめるほどに淡くて、けれど何よりも深い。彼女の顔の造形について、きっと他のどの部分を見ても人を外れて綺麗だという形容はできるだろう。けれど、私が一番好んだのは間違いなくその瞳だった。自然な――眉と同じ色の――銅色の髪も、透き通るような肌の色も、もちろん彼女の美しさの一部を構成していることに違いはなかった。エムについて美しくない部分を見つけるほうがよっぽど難しかった。けれど、瞳だけは本当に誰も文句を付けようがないほどに完璧だったのだ。そして私はその日、その美しさが誰かと地続きだと初めて知ることになった。仙台出身の一人の女性と、東プロイセン出身の一人の男性の要素の継承として。

 私たちは本当に歓待された。夕方に到着した私たちは、あるいは食べきれないほどの量の料理と共に迎え入れられた。そのうちのいくつかは明らかに手の込んだもので、背景には慌ただしい準備や、申し訳なくなるほどの真摯さが詰まっていた。私たちがこの街にいるのだと彼らが知ったのは間違いなく今日になってからで、つまりそれは彼らが買い出しや料理や諸々の用意に今まで駆っていたことを何よりも明確に示していた。

 エムの両親の表情には疲れや苦労はなかったし、それを私たちに伝えようとする意志もなかった。それは私たちが義理などではなく真剣に歓迎されていることを表していたし、だから私たちは、同様の真剣さで歓待される必要があることを感じていた。

 目の前では鳥の鍋が熱くぐつぐつと音を立て、その隣では練ったジャガイモが丸められ、表面にカリカリとした焦げ目を付けて置かれていた。それ以外にも、中に挽肉とマッシュポテトの詰まった小さな餃子や、あるいはバターと醤油で包み焼かれた鮭など、食卓には種々の料理が溢れんばかりに上っていた。

 温かい料理だった。決して小綺麗なわけではなく、どちらかと言えば素朴で。それは私にとってとても好ましかった。ケイにとってもそうであることは間違いがなかった。私たちは出された料理のほとんどに手を付け、堪能したのだ。

 食事中、エムの両親は私たちを暖かい眼差しで見つめていた。私はまるで自分が本当に彼らの子供になったような気さえした。エムは少し気恥ずかしそうな横顔を浮かべていたけれど、その恥ずかしさが彼女の家族に向けられたものではないことは態度からして明らかだった。エムは自分の家族とその対応に、何か一切でも欠点があるとは考えていなかったのだ。たとえその歓迎が現代的でなくとも、都会的でなくとも。それは一般に進歩的で良いものだと思われている方向に自分を包む環境が変化すれば、自分の元いた環境の風習についてどうしても何か体面が気になってしまう人間の習性から考えれば難しく、そして遥かに貴い態度だった。私がもしエムなら、あるいは両親の行き過ぎた対応や、あまりに家庭的で親密すぎる態度に赤面してしまったかもしれなかった。

 あの日私たちが歓迎されたのは、私たちがエムと仲が良かったからに他ならない。そして私は簡単に想像することができた。――エムは本当に綺麗で、綺麗すぎるからこそ今まできっと避けられていたのだと。もしかすると、私たちは初めて彼女とあそこまで仲良くなった人たちだったかもしれなかった。私はあの日もそれを分かっていた。ケイもそれを察していたのかもしれない。けれど、ケイの理解と私の理解とには確然とした差があったはずだ。私はケイよりもずっと彼女のことを分かっている自信があった。それはほとんど呪われた自信だったけれど。だからこそあの日私は、彼らに何を伝えればいいのかすらわからなかったのだ。――きっと私が何を言っても大丈夫なのだろうという了解が場の空気にあっても。そして、私が何かを言うことはむしろ場を良くする方向に働くかもしれないという予感があっても。

 私とケイは問われた言葉にはきちんと返していたし、会話は確りと続いていた。遠方から来た私たちを気遣う言葉にこれ以上ないような手厚い歓迎への感謝の言葉を返したり、テーブルに並んでいるあまり見たことのない料理の名前を尋ねたりした。会食は上手く進んでいたし、円滑に流れていた。私たちは何も間違えていなかったし、今でも後悔することは全くない。それでも、その日の食事には大きな溝があったのも事実だった。エムとその家族と、そして私とケイととの間には明らかな距離があったし、その心理的距離を詰めることはとうとう誰にも出来なかった。私たちが初対面だからということもきっとその理由の一つだったけれど、理由は明らかにそれだけではなかった。私たちは分かり合うことに必要なほど雄弁でなかったし、そうでなくともエムの事情について口を差し挟むことに対する輪郭のない畏れのようなものが空間に分布していた。彼女自身も、自分の人生を他人に表すことに対する慎みのようなものを抱えていた。だから私たちの空気は混ざり合うことが絶えてなかった。

 けれど私は覚えている。たしかに私たちは表面を滑るような言葉ばかりを交わしたかもしれないけれど、それでもあの日少しだけは分かり合うことができたのだと。私は、私の祖母は日本海沿いの小さな町の生まれなのだと言った。エムの母親は彼女の父親がその近くの出身だったのだと言った。祈るように瞼を下ろし、小さく眉を寄せながら。ケイはそれに何も言わなかった。沈黙は時に何よりも多くのものを語ることがある。私たちはそう教えられてきた人間だった。エムはずっと静かに食べていた。それだけで絵になるような美しさで。

 そしてエムの父親は、彼の娘を見ながら時々嘆息し、そして呟くようにこう繰り返した。、と。

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