第6話

 渋谷という街には、全てを飲み込んで受け入れられるだけの度量が、きっとあるのだと思う。決してその街を愛しているわけでもなく、あるいは憎んですらいるような私も、それだけは認めざるを得ないところだ。ここには、よくはわからないまま人が集まり、どこかしらから金が流れ、そして訳もなくまた人が消えてゆく。そこには何のしがらみも規則性もあったものではない。だから私もまた何となくこの街で待ち合わせて、あまり歓迎されないだろう話題を二人で話し、けれど何の報復もなく再び帰るのだ。

 ケイに会っているということ自体が、私にとってはもうどうしようもなく現実離れしている。だから私は、このことが――ケイと渋谷で会っているというこの状態が――、現実に向き合った結果なのか、それとも現実から逃避した帰結なのか、それすらも不安定でわからない。ガラス張りの、ショールームのようなカフェで向き合っていても、視界の靄がその明るさを打ち消して、何も心の中に入ってこないような気持ちになる。私たちはいま人に囲まれていて、そしてその全員から無関心を維持されているのだというその事実と、私はけれど周りに目が移ってしまっているという事実に、私はそれだけで困惑の頂点にいるのに、そして目の前でケイがその深い色の目を向けていることに追い打ちがかかって、私は身体を隠したいような気持ちになる。その場違いさと、そして結局のところ私はケイ以外に見られているわけでもなく、そしてケイは私の外観などきっと飽きるほど見ているということに気付いて、ひどく心細くなった。

 店内にはバックミュージックはない。ここは喫茶店ではなく、カフェなのだ。そして、時々ラテのためのスチームド・ミルクが空気に溶ける音が――子気味良く響く。ここは透明な空間であり、そして目の前のカップ入りのカフェラテは、世界中の人々にただ純粋に愛されているのだ。私は思わず目を瞑って、そして母のよく口ずさんだ曲を思い出した。愛すべき西部を歌った、古いアメリカの曲。

 ひどく感傷的だと自分でも驚くほどの今の私は、ケイの目にもやはりそう映るらしい。自ら追及されるべきとしてこの場を訪れた彼は、当初の緊張は鳴りを潜め、今では私を気遣うような目すら覗かせている。ため息をついて、私はラテに口を付けた。

「最初から、あなたを責める気はなかったのよ」

 瞳の動きだけで視線を合わせる私に、彼は一瞬目を丸くする。咥内に侵入する苦味に眉を顰めそうになって、けれど努力してその色を消した。コーヒーというものは、元来社交の場の飲み物のはずなのに、人の顔を不機嫌そうに歪ませる力がある。

「申し訳ないと思っている」

 謝らないにしては殊勝すぎ、謝るにしては気楽すぎる態度でそう切り出した彼に、けれど私はもうほとんど何の感情も抱けなかった。怒ることが出来れば、泣き叫ぶことが出来れば、きっと私たちはもっと上手くいくのだろうかと、それだけを思う。

「触ってもいい?」

 答えを聞かずに彼の前髪に手を伸ばした私を、彼は動かないことで肯定する。手の甲に額が当たって、体温が粘り気を持って伝わる。

 私はもう全てがどうでもよくなっていた。彼はこの頭の中で私にはわからないことを考えていて、そしてきっと私たちは――もうすぐ終わりになるのだろう。それはもう二人とも絶望的に分かり切っていることだった。

 けれどそれは今ではない。私にはそれだけでもう十分だった。例え幸せを与えられることには慣れていなくても、幸せを分割されることには慣れ切っているのだ。それを愛しむ、背筋の凍るような安寧も、もう心の中に用意されていた。

 私はそのまま彼の頬を撫でた。乗り出したテーブルは、私の体重に不快そうな声を上げる。彼は私の目を凝視していた。口付けをしようとして、けれど周囲の存在を思い出し、目を瞑って椅子に戻る。耳に戻ってきた音は、私たちに気を取られていた人が現実に帰ったせいなのか、私がそこに帰ったせいなのか、それすら判然としなかった。

「ねえ。あれ、誰だったの?」

 ラテに再び口を付けながら思い出したようにそう聞く私に、彼は少し驚いたようだったが、けれど身構えて話す。

「会社の同僚だ」

「出身は、どこ?」

「横浜の郊外だと聞いている」

 ビジネストークのような口調で事実だけを切り出そうとする彼に、少しくらいは鼻白んでくれたら、きっとそれだけで私たちは――幸せになれるのに、と思う。

「年齢は?」

「二十六」

「とても理想的で惚れ惚れするわね」

 自分でも驚くような冷淡な口調で話す私に、彼は何も言わない。切れ長の一重の目は、奥の見えない深いもので、感情すら覗くことができなかった。頼んだまま冷えていくだけの彼のカップに、私は瞬時何かを重ねそうになって、やめる。

 沈黙だけが流れていく空間は、けれど決して辛いものではない。私は特に彼の言葉を期待しているわけではなく、そして彼も傲慢にもそれを感じていた。――まるで新婚の男女の間に流れるような柔らかい空白が、その場を支配している。それは場違いで、理解に苦しむものなのかもしれないけれど、そういう概念はきっともう死んでいるのだ。だから、私たちは御せない自分の感情を、それでもそのままにしておいてもいい。

「連れて行ってはくれない?」

「どこへ?」

「決まっているでしょう」

 彼はため息をついて、それを受け入れる。

 私は足を組んで、彼をじっと見た。ケイも私のことを凝視していた。その目は、ずっと昔から変わらない光を持っている。そのせいでいつの間にか勝手に彼を好きになっていた自分を思う。頬杖をついて嘆息する私に、彼は目を細めた。その顔に、私はハッとしてしまう。それが、どうしようもない愛しさをにじませているように見えたのだ。


 初めてエムを見た時の衝撃を、私はきっと一生忘れ得ない。彼女はただ美しいのだ。少人数の語学クラスで隣り合った私は、その鮮烈さに瞬間生きることすらやめてしまいそうになった。その白い肌も、ブラウンの髪も、全てに文句を付けようがなかった。寝ぐせなのだろうけれど、所々が無秩序にはねているそのヘアスタイルも、どうしてかその美を強調するように働いていた。美しさには、きっとどこかに整っていない部分が必要なのだ。美の化身のような彼女に、私はそんな感慨すら覚えた。

 彼女は、人を外れたその美しさのせいか、教室に入った瞬間からすでに敬遠されているようだった。周囲からの視線は、当事者でない私の心にすら痛みを抱かせたほどだ。不躾なその態度に、私は憤りを隠せなかった。それでも悠々と椅子に座る彼女に、私はただ驚嘆し――哀切を覚えて、話しかけ自己紹介をしたのだ。

 できるだけ平静を保とうとしたその挨拶が本当に成功していたのかどうか、結果を知っている今も、全く自信がない。それでも、その時の彼女を――よろしくと言って私に手を伸ばしてくれたその姿を、私は一生忘れる気はないし、忘れたくないと願っている。

 エムと私は、ここから始まったのだ。


 昼休みにエスに誘われた私は、久しぶりに彼女と二人で街を歩いていた。ラーメン店に向かう道筋を、彼女に先導されて進む。少し前まで逆の方が多かった私たちを思うと、それが何だかすごく新鮮で、嬉しいことのように思えて、ひとり微笑んでしまう。

「そんなに喜んでくれるなら、もっと誘えばよかった」

 緩んだ私の顔を認めた彼女は、そんな風に笑う。少し恥ずかしくなった私は、けれどある種の幸せを感じているのは確かで、そういう複雑な感情を混ぜ込んで、そして彼女にそれが伝わることを祈りながら、表情を整えようとする。

「いつでも誘って。あなたなら――ほんとうに大歓迎」

 彼女は頷いて、そして前を進んだ。エスの歩き方は、とても自然だ。少なくとも、エムのような端正さはそこにはない。けれど、親しみやすい彼女の性格によく合っているその動きは、背伸びして矯正するより、よっぽど美しいとすら思う。

 こってりした醤油ラーメンという、相反する二要素を組み合わせたような食べ物は、しかし文句なく美味しかった。贅沢な味だった。私たちは、一時間も働けばこんな料理が食べられる国に生きているのだ。それは奇跡的なことのように思え――そして実際に奇跡だった。私たちがここにいるのは、私たちの努力の結果であり、運の結果でもあった。それが歓迎すべきことなのか、悲観するべきなのか、私はそれすらもはっきりとは断言できないけれど、気の遠くなるような引きの結果であることだけは真実だった。

 エスは店員にはっきりと注文するし、麺も堂々と啜る。耳に髪をかけて豪快にラーメンを食べる彼女は、美しく、豊かであると思う。髪をゴムで留めて、私だって同じように振舞っていたつもりだけれど、果たして彼女のように周りに映っているのかどうか全く自信がなく、だからこそ内心も少しばかり揺れていた。

 美味しいものは、それでも確りと美味しいのだ。私はそれが嬉しく、そして不安でもあった。それはきっと、幸せを与えられることに対する反動的な恐怖だ。基本的に私はこういうことに向いていないのだという自覚がある。けれどもう、死ぬまでそれは変えられないだろうという諦観もあった。

 オフィスに戻るエスと並びながら、私は彼女の横顔をじっと見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る