罪の容

伊島糸雨

罪の容


 うさぎの耳を、千切って、捨てる。


 薄く開いた窓から風が入り込み、白いカーテンを静かに揺らしている。自分の吐息以外に、生命の反応を示すものは聞こえない。白い空間にぽっかりと空いた隙間が、否が応にも孤独を自覚させる。


 うさぎの耳を、千切って、捨てる。


 ここに来てから、どれだけの時間が流れただろう。それほど長くない気もするし、とてつもなく長い間いるような気もする。今年は何年だっけ。今は何月で、何日で、何曜日だっけ。考えてみても、よく分からない。自分がいったい時間軸のどの辺りにいるのか、すっかり見失っている。

 こんな場所に閉じ込められた経緯というのは、別段特別なものではなかった。私というモノが、どうということのない肉の塊であったというだけのことだった。一人で蠱毒になりきって、果てに毒虫も何もかもが死に絶えたというだけの話だった。面白みの欠片もない、なんともつまらない結末だった。幾度かの刃の煌めきと、自ら結った円形の空白、水の冷たさに嘔吐感、息苦しさとアスファルトの輝きを体験した結末として、身体がここにあるというだけのことだった。そして、私という精神は、身体に結びついたモノとして、ここに縛り付けられている。


 うさぎの耳を、千切って、捨てる。


 どうしてこんなところに来てしまったのだろう、と時々考える。何が間違っていて、私はこれまで何か正しい選択をしたことがあったろうかと考える。身勝手に生まれ、気がついたら自分でもどうしようもないところまで来てしまっていた。何が、どこが、誰がいけなかったのか。

 誰が悪かったのだろう。誰のせいでこうなったのだろう。シーツとベッドで構成された真白い現実に微睡みながら、薄眼を開けて犯人探しを続けている。枯れ果てたはずの感情の流れの中で、未だ波立つものを探している。


 うさぎの耳を、千切って、見つめる。


 うさぎ。うさぎは好きだった。思い出すのは十年近く前のこと。当時私は小学生で、飼育小屋にいたうさぎによく会いに行った。休み時間は、網越しに彼らに話しかけるのが唯一の楽しみだった。

 友達は彼らだけだった。私はひとりぼっちで、でもやっぱり、友達は欲しいのだった。

 うさぎたちは何も言わなかった。彼らは私に優しかった。だから、集団朝会でうさぎが一匹死んだと言われた時は、とても悲しかった。友達が一人減っちゃって、寂しくなった。みんなは誰かが殺したのだと言った。私は犯人が見つかったら同じ目にあわせてやろうと思っていたけれど、卒業するまでに犯人がわかることはなかった。腕についた二つの変な傷跡を見ると、うさぎのことを思い出した。今になっても、少し泣きたくなる。

 どこか遠くで鳥が鳴いた。私にはそれが何であるか判別のしようもなかったけれど、耳には幾分心地よかった。


 耳を捨てる。また、うさぎの耳を千切る。


 私にはお姉ちゃんがいる。優しくて、誰もが立派だと言うお姉ちゃん。私に対しても、それは変わらなくて、私がこんなになっても毎日お見舞いに来てくれていた。このうさぎだって、お姉ちゃんが切ってくれたものだった。

「うさぎ、昔から好きだったよね」

 私が窓の外で枝葉が揺れるのを見つめる中で、丸椅子に座って綺麗な声で歌を口ずさみながら、りんごを切り分けていた。歌は、昔私が好きだったものだった。

 りんご。りんごは好きだった。小さい頃から、あの甘酸っぱくてしゃりしゃりした感じが好きだった。随分前に、お姉ちゃんにはその事を話したような気がする。だから、お姉ちゃんはそれを覚えていて、私が死に損なう度に、毎日、毎日、りんごを持ってここにやってくる。

「りんご、好きだったよね」

 そんな風に微笑みながら、ドアを閉めるのだ。

 密室でふたり、私たちは会話することもなくただそこにいる。話すことなんて思いつかなかった。私とお姉ちゃんでは、あまりにも見ているものが違いすぎる。

 視界の外で、しゃり、しゃり、とりんごの果肉が擦れる音がしていた。果物ナイフを器用に扱いながら、その赤々とした皮を剥いでいる様を、私は想像する。僅かな圧迫から、薄く黄色がかった果汁がお姉ちゃんの端正な指先を伝っていく。お姉ちゃんはそれに気がつくと、静かに指先を口元に寄せて、唇で果汁を拭き取って。

 知っている。すべては想像でしかない。りんごを切る音が響いている間、私はお姉ちゃんの何も見てはいなかった。ただ、木の葉の揺れるのを見つめていただけだった。

 時々、お姉ちゃんの顔に目を向けた。すると音は止まって、お姉ちゃんは俯いて垂れた髪を掻き分けると、その黒い瞳で私を見つめるのだった。

「どうしたの?」

 その声は穏やかで、優しくて、私はすぐに目を逸らした。


 うさぎを手に取った。

 手の上のうさぎ。赤い皮と、その下に張り付いた黄色い果肉。

 果実の瑞々しさが、皮膚をしっとりと湿らせた。

 私は。

 私は、お姉ちゃんのことが、憎くてたまらなかった。

 その顔が、身体が、髪が、眼球が、唇が、その心のあり方が、憎くて、たまらないのだった。

 首をもたげるのは、いつもこんな疑問だった。

 どうしてそんな風に生まれてきたの。どうしてそんな風に生きているの。どうしてこんな私に付きまとうの。私はただ、あなたから逃れたくて、ただそれだけだったのに。どこまで、どこまで無自覚に私を縛り付けるの。私は何度、おまえを殺そうと思ったかわからないのに。

 りんごを見るたびに思い出す。うさぎを見るたびに、思い出す。

 お姉ちゃんは反吐が出るほどに私の理想像そのものだった。こうあれればよかったのにと、唇を切り裂きながら幾度となく呪いの言葉を呟いた。自分がもう至れないとわかっているものが、目の前で輝くことへの怒りがあった。お姉ちゃんを呪い、何よりも私自身を呪い殺してやれないものかと苦心した。

 それが叶わないと知って、まず最初に血管を切り裂いた。当たり前のように生き残った。血まみれになった腕を見下ろして、ざわつく頭のまま嘔吐したように思う。思う、というのも、そういう時の記憶というのは、決まって朧げに霞んでいるのだった。だから、今ではもうそれが現実だったのか、夢だったのかもわからない。ただ、うさぎを持った腕には確かに傷跡があって、不確かな記憶がこのベッドに錨を下ろしているのだと、現実を分かった気になっている。

 お姉ちゃん。

 りんごが大好きだったように、うさぎが大好きだったように、大好きだったモノ。

 どうして、と考えるけれど、すべては最初から歪だったのだと、そんなことを思う。家族として、姉妹として。母親の羊水に溺れてもがいていた時から、こうなると定められていたような気がする。

 お姉ちゃんは、私を憎んでいるだろうか。憎んでくれるだろうか。私がお姉ちゃんを殺そうと思うくらいに、私に殺意を抱いてくれるだろうか。壊れた機械みたいにりんごだけを切り分けながら、その刃で私の心臓を刺し貫く想像をしているだろうか。そうやって、私たちは対等になれるだろうか。

 うさぎを、鼻にそっと近づけてみる。そして、何も得られないことを確かめる。

 りんごの匂い。それはもう、霞みがかった記憶の中にしかないものだった。

 死にたがった行為の結末として、私は匂いと味をうまく感じることができなくなった。それがわかった時、私は自分がまた一つ、私が私であることの証明を失ったのだと知った。それでいい、と思う。これまですべて失敗してきた。けれど、繰り返すたびにこうやって一つ一つ失っていけるのなら、いずれは望む結末を得られるだろうから。

 私がまだこんなところにいるのは、お姉ちゃんのせいだった。私を生かしたのはお姉ちゃんで、聞く限りだと、最初に私を見つけるのは、決まってお姉ちゃんなのだそうだ。

 以前、どうして、と聞いたことがある。どうして、いつもぎりぎりで私を生かすの、と。

「だって、大切な妹だもの」

 あの人は、事も無げにそう言ってのけるのだった。

 単純なことだ、当たり前だとでも言うように。


 *    *


「りんごの実の花言葉三つ、知ってる……?」

 まだ好きなモノがたくさんあった頃、お姉ちゃんが言った言葉は、今でも覚えている。

 お姉ちゃんは首を傾げる私を見て、いつもの微笑みを浮かべていた。

「一つ目は、『誘惑』。二つ目は、『後悔』。それから──」

 ほんの少しだけ、間が空いた。私は何か心配するような言葉を発したような気がする。それを聞いたお姉ちゃんは、私の頭を撫でると、取り繕うように首を横に振るのだった。

「ごめんね、間違えちゃった。二つしか、なかったね。ごめん」

 嘘だというのは、すぐにわかった。けれど、私は何も言わずに黙っていた。


 ついこの間、足がダメになる直前に、ふと思い出して調べてみた。

 私は、お姉ちゃんが言わなかった三つ目を知った。そして今、ベッドの上でうさぎの耳を千切りながら、そのことの意味を考えている。

 『原罪』

 オランダでは、そんな花言葉もあるそうだ。聖書の、アダムとイヴの話。

 お姉ちゃんは、何を嫌がったのだろう。その言葉が、何を示すことを忌避したのだろう。

 お姉ちゃんの罪。私の罪。どこまで遡ればいい? どこまで数えればいい?

 りんごが私に何も与えなくなった時?

 お姉ちゃんを憎むようになった時?

 うさぎが殺された時?

 それとも、もっと前かな。

 それこそ、お姉ちゃんが私のお姉ちゃんになった時、とか。


 りんごを齧る。

 罪の味、なんてものは、私にわかるはずもなくて。

 触覚ばかりを刺激するそれは、不愉快でさえあるのだった。


 コツ、コツ、とドアがノックされる。誰なのかは、言うまでもなかった。

 私は何も言わずに、齧りかけのりんごをお皿に戻す。口の中でペースト状になったものは、なんとか飲み込んだ。

 ドアがスライドして、お姉ちゃんが現れる。見慣れた光景だった。見飽きた光景だった。その手には、やっぱり袋が握られているのだった。

「りんご、好きだったよね……」

 後ろ手にドアを閉めて、こちらに向かってくる。ほとんど食べていないりんごに視線を向けると、表情を変えずに近くのビニール袋の中に流し入れ、何事もなかったかのように丸椅子に腰を下ろした。

「調子は、どう?」

 いつも通りだよ。そう言う代わりに、顔を窓に向けた。

 何も変わらない。ずっと変わらない。

 もう何年も前から、お姉ちゃんはこうだった。

 壊れていたのはどちらだったろう。死にたがりの私と、かつての記憶に執着するお姉ちゃん。私がりんごを好きだと信じている。私がうさぎを好きだと信じている。私という存在は、お姉ちゃんの中で停滞したままだ。

 これが私の罪かもしれない、と思う。私は、お姉ちゃんを狂わせた。

 なら、お姉ちゃんの罪は?


「うさぎ……好きだったよね」


 すべてはこの言葉の中に詰まっている。お姉ちゃんは、ここにいる私のことなんて、最初から見ていなかった。

 私の日々は無意味なループだ。

 今の私の世界は、お姉ちゃんがいることを前提に成り立っている。そして同時に、うさぎの形をしたりんごがあることが、必然の条件のようにまとわりついている。

 まるで、呪いのようだ。もしこれがお姉ちゃんの憎悪の形だというのであれば、受け入れるのはきっと容易いだろう。憎み合い呪い合いでもしないと、私たちは姉妹でいられないのだと、そう思うから。そしてなにより、互いを直視する術が、私にはそれしか思いつかないから。

 変わらないお姉ちゃんと同じように、私も相変わらず窓の外に目を向けた。木の葉が揺れ、カーテンが風に波立っていた。

 それを見ながら、私は自分が普段とは違う心持ちでいることに気づく。ちょっとした気持ちの問題だけど、私は幾分大胆になっていた。

 ちょうどいい、と頭の片隅で考える。この気分に乗じて、私たち姉妹の核心に触れてみるのも、いいかもしれない。

 いつまでも同じまま、ドラマチックな展開もロマンチックな感情もないままに、生命の終わりまで同じことを繰り返すのはもううんざりだった。お姉ちゃんお姉ちゃんねえお願いどうか私を殺して欲しいの。私が無様にそう懇願するのも、そう遠くない未来に想定できることだった。

 鬱陶しい私自身に別れを告げて、どこか遠くへ行ってしまうためにも、私は一思いにお姉ちゃんを刺し殺さなければならない。りんごにナイフを突き刺すように、皮膚を裂き、肉を割り、骨を砕いて臓腑を掻き乱すように、真実の刃で、お姉ちゃんを殺す。二度と、私を延命させられないように。二度とあんな言葉を理由にできないように。


「お姉ちゃん」


 言いながら視線を翻すと、その華奢な肩が、ビクッ、と揺れるのが目に映った。

 随分と長いこと、口にせずにいた言葉だった。だから、きっと驚いたのだろう。

 お姉ちゃんはゆっくりと顔を上げると、柔らかな表情で、言った。

「……どうか、した?」

 動揺の色は見られない。隠しているのか、それとも本当に動揺なんてしていないのか。瞳の奥に目を凝らそうとして、途中でやめた。

 どちらでもいい。そんなことは、どうでもいいのだ。私が今問いたいのは、そんなことではないはずだ。

 はっきりさせなければならない。私が、私たちが、ここでこのように在る意味を。その理由を。

 だから私は、お姉ちゃんにこのように問いかける。一つ、小さく息を吸って、そのまま、一息に。

「──お姉ちゃんの罪って、何?」

 僅かに、目を見開いた。

 果物ナイフが、欠けたりんごを中途半端に貫いていた。

「ねぇ、お姉ちゃん」

 心が波立ち、強烈な感情に全身が支配される。私は僅かに身を乗り出して、お姉ちゃんに顔を近づけた。

 私を見てよ。その大きくなった瞳孔で、私を捉えてよ。

 そして、答えて。

「それは、罪滅ぼしなの?」

 うさぎを象った、りんご……それは、何を示すというの?

 私の罪。お姉ちゃんの罪。

 私はきっと、お姉ちゃんを狂わせたけど──

「お姉ちゃんはきっと、私を狂わせたよね」

「───」

 お姉ちゃんは笑った。声もなく、穏やかに。優しく、笑う。

 それから、私が求めた答えを、静かに告げた。

「ごめんね」


 ああ、やっぱり。

 やっぱり、そうなんだね、お姉ちゃん。

 私のお姉ちゃんになってしまったことが、それ自体がもう罪だった、って。

 私を繋ぎ止めようと必死で、だからそんなにも過去に執着したんだ。

 私が好きだったもの。お姉ちゃんの中で、確かだったもの。置き去りにしてきた過去の遺物。他に頼れるものなんて何もなくて、他にどうしようもなかったから、必死に縋っていた。

 でもね、お姉ちゃん。

 それは、今の私じゃないんだよ。

 だから、さ。

「ごめんね」

 私もまた、静かに言った。

 私は、お姉ちゃんが願うような在り方ではいられない。

 私は、お姉ちゃんのことを狂わせるくらい、理想とは程遠い出来損ないだから。

「ごめん」

 目を逸らし、葉がひとひら揺れ落ちていく様を、ぼんやりと見つめた。

 しばらくして、抑えられた嗚咽が白い空気を小さく揺らすのを、私は聞いた。


 ……憎い。憎いよ、お姉ちゃん。あなたはそこで、泣くことができるんだね。私が不感症なだけかもしれないけれど、正直、羨ましいよ。

 私は、あなたのそういうところが、憎くてたまらなかったのだから。

「ねぇ、聞いて、お姉ちゃん」

 そう言っておきながら、聞こえていないことを期待して、ずっと黙っていた本当を告白する。お姉ちゃんを殺すための切っ先を、肺腑にそっと押し付けて。

「私ね、りんごは嫌いだよ」

 うさぎも嫌い。

 お姉ちゃんも、嫌いだよ。

 でも何より、私自身が一番、嫌いなんだ。


 顔を手で覆い、肩を震わせるお姉ちゃんを一瞥する。

 一つだけできていたうさぎを手にとった。指先を伝う果汁を、私は構わず放置する。

 りんごが、うさぎが、お姉ちゃんにとっての罪滅ぼしだというのなら、私の罪は、きっとうさぎの形をしたりんごなのだろう、とそんなことを思う。

 ならやっぱり、私が殺すべき相手は決まっている。嫌いなものを世界から消したければ、世界の方を消してしまえばいい。愚かではあるけれど、それが考えうる中での最短距離だから。

「お姉ちゃん、私を見て……」

 今度こそ、この私を見て。そして見届けて。

「……」

 沈黙の中に、お姉ちゃんの視線を感じ取る。私は満足して、薄く微笑んで見せた。

「ごめんね」

 こんな出来損ないで、ごめん。

 耳ごと、うさぎを齧る。

 不快な感触は変わらない。何の感慨も、与えてはくれない。もしかしたらこれこそが私にとっての罪の味だったのかも、と今更思う。今となっては何もかもが手遅れで、本当に、どうしようもない。

 目を見開いたお姉ちゃんに見せつけるように、天井を向いて。

 ごめんね。

 私はその塊を飲み込んだ。


 *    *


 私の人生は無意味なループだ。

 私の世界は、お姉ちゃんがいることを前提に成り立っている。りんごもうさぎももうないけれど、それは変わらず、何度目かもわからない白い部屋で、私はお姉ちゃんの姿を見る。

「……どうして、いつもぎりぎりで私を生かすの」

 横になったまま、その綺麗な顔を見つめて、私は言った。もう一度、ここで聞いておきたかった。お姉ちゃん、あなたはどこまでお姉ちゃんでいられるの、と。

 お姉ちゃんは、赤く腫れた目元のまま、再び涙を滲ませて、

「だって、大切な妹だもの」

 そう、事も無げに言ってのけるのだった。

 単純なことだ、当たり前だと。

 こんな私でも大切だと、そう言うのだった。


                                 【終】

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