第10話 俺たちの日常


「いいっ!!」


 身体がベッドへと真っ逆さまに落ちる。


 条件反射で眼をギュッと瞑り、咄嗟に両手を前に出すが、間に合わない。


 もう無理―――


 そう諦めた瞬間。


「ハイ、おしまーーーい」


 コムギの終了の声と同時に、ベッド直前で落下が止まる。まるで体周りの重力が抜き取られたかのような錯覚だ。


 おそるおそる閉じていた眼を開けると、目の前には腕を組み、ふんぞり返っているコムギがいた。


「ふっふーーーーん」


 片耳がピクピクと揺れる。


「どうだった?ボク渾身の遠隔浮遊アトラクションは?」


 コムギはしてやったりという笑顔を浮かべている。大変満足といった感じだ。


 俺はコムギの汚いやり方に呆然としながら、だんだんと燃え上がるような怒りがわいてくる。別に、ベッドに落とされかけたのが、気に食わなかったわけじゃない。本当に気に食わなかったことは、こいつの玩具にされたことだ。


「てめえ」


「はあい」


 相変わらず、目の前の猫は、余裕綽々な笑みを浮かべている。


 その時、俺はこの笑みを全力でぶち壊してやりたいと思った。


 ―――そうと決めたら、あとは実行するだけ。


「丸焼きにしてやる」


「あ、それだけは勘弁」


「この野郎!!」


「うわあぁ!」


 俺の全力ダイブをコムギは見抜き、スルッとよける。だが、俺がコムギに躱されるは想定内。だからこそ、ダイブの次に放つアタックを決めていたのだ。


 キック!―――


 頭から飛んだ勢いを乗せた横キックを、コムギがよけた方向へとくり出す。


 筋肉の張った硬い脚が、コムギの真横に迫る。だが、コムギは歩を侮ってはいなかった。気づいた時には、キックの間合いにコムギの姿はなかったのだ。


「やあっ!」


 コムギが俺の脚を躱した食後、自分自身の身体を浮遊させたまま、一直線に向かってくる。勝負は最短で決め、簡潔に終える。俺はまだまだ、コムギの足元にさえ及んでいないらしい。


 コムギの力をもってすれば、俺の防御など紙切れ同然。だから、もし俺があがいたとしても、敗北は免れない。勝負はついた。


 ―――ボクの勝ちだね。


 コムギの表情は、自然な笑みが浮かんでいた。


 あいつの方が上手。だから、俺に負けるわけがないし、そもそも俺は、コムギを屈服させる方法がない。


 つまり、負けが見えている俺は、諦めるしかない。いや、すでに諦めているはず。


 ―――そう、思っただろ?


「まだだぁ!」


「わあ!」


 コムギとの直線上に、さきほどゴミ箱の中に入ったばかりのごみを、目くらまし用に投げる。


 コムギは思わず、目を瞑った。


「今だ」


 ゴミを投げた後は、空になったゴミ箱のターン。


「そりゃっ」


 ゴミ箱のくぼんだ部分を、コムギが突っ込んでくる位置へとうつし、未だ前が見えていない猫をすっぽりと吸い込む。ナイスキャッチだ。


 捕らえた後は、すぐに蓋をするのがお約束。


 手順は、横に持ったゴミ箱を、逆さまにひっくり返すだけ。以上。


「ほい」


 非常に簡単な操作だった。逆さまになったゴミ箱に俺はおしりから座る。


 ガタッガタッ―――


 ゴミ箱は動くが、おしりで衝撃を吸収するので意味はない。面白いほどの慌てようが十二分に伝わってくるので、大変満足だ。


 コムギは神様からゴミへとランクダウン。ランクの降下が著しい。


 ガタッ―――――――――――


 一人でいろいろと考えていると、ゴミ箱の揺れが、いつの間にか収まっていた。さてさて、コムギ君は観念したのかなー?


 面白いものが見れるかと期待を抱きながら、俺はゴミ箱を開けようとする。


 だが、その時。


「病人が動くなー!」


 中にいるコムギが、唐突に姿を現した。


 唐突なのだから、もちろん、俺は隙だらけの状態である。あっけらかんとした俺の顔の真下を、コムギが通り過ぎる。


 それに合わせるように、視界が斜めにぐらっと揺れた。揺れた反動で、平衡感覚がずれる。


 視界に映る俺の部屋が、複数に分散する。かと思ったら、重ね合わさった像に変化する。


「どうよ?これがボクの全力アッパーだよ」


 そうか。アッパーか。


 俺はアッパーを決められたことがないので、全く分からなかった。そもそも、アッパーされることなんて、真面目に毎日生きていたら、遭遇するはずも無い。


 急に瞼が重く感じた。視界から光が消え始める。


 はあ。だがしかし、綺麗に決められたなー。


 勝負に負けた、という事実に感傷的になったが最後、俺の意識は途絶えた。





「本題に移ろう」


 いつの間にか、ちょっとした争いごとから一時間は経過していた。一体、誰のせいなのだろうか。


「風邪薬買いに行くぞ」


「キミがピンピンしているというのに、なぜ?」


 コムギはあきれた様子を隠そうともしないで、肩をすくめてみせた。


「いちいちうるさい。さっさと行くぞ」


「ええーー」


 コムギは心底面倒くさそうに顔をしかめる。


「行くったら行くんだよ」


 家主が体調不良のときに、なんて失礼な奴。これはいつか、懲らしめてやらないといけない。まあ、俺にはあいつを懲らしめる方法を知らないが。


 ガチャ―――


「うう、寒い」


 両腕を包み込むようにして、自分の身体を抱く。昨日よりも寒くなっているような気がする。いや、確実に昨日よりも寒い。


 一方、コムギをちらりと見ると、全然寒くなさそうだった。猫特有の何かで寒く感じないとかか?うらやましい限りだな。その体毛、俺にくれよ。


 ああ、これは明日にまで風邪が長引きそうだ。


 嫌な予感を感じながらも、やはり買いに行くしかないので、俺はしぶしぶ薬局へと向かった。


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