第9話 風邪を引いてしまいました。


 デートを終えた翌日、それは十一月中旬の月曜日。俺はその日会社に行くことができなかった。言い方を変えれば、行く元気がなかった。


 なぜなら、風邪を引いたから。


 昨日はとにかく寒かったので防寒対策は徹底していた。それなのにこの有様は運の尽きといえる。最近は身の回りで幸運なのか悪運なのかわからないような、訳の分からないことが多発しているし、もはやこれは神様からの贈り物だと己を諭してしまったほうがいいのかもしれない。


 風邪をひいてしまったので、それを理由に深雪を呼ぶというなんとも素晴らしい名案を思い付いたのだが、その原因を作ったのが昨日のデートであるので、その案は不採用となるのがオチだった。


 深雪に会えるせっかくのチャンスだったのに。


 また会おうね―――


 昨日の電車扉に映る彼女はそう言ったのだ。あの笑顔を想像すると、少し体が熱くなる。思わず俺は、布団を力強く抱きしめた。


「あああ、会いたいぃぃぃぃぃ!」


「気持ち悪いな」


 頭の中には深雪しか存在しなかったというのに、藪から棒にあの猫が横入りしてきた。深雪の笑顔がコムギの不満顔に塗りつぶされる。


「いいだろ、別に。気持ち悪かろうがここは俺の家。やることは俺の勝手なんだ」


「この家の住民は君一人だけじゃないんだけど」


「俺とお前で二人だが、この家は俺のためにあるんだぜ」


「まるで嫌われ者のモブが言うセリフじゃないか」


「なんだとコラ」


 コムギは俺の反応を見て満足し、ベッドのそばから離れる。それをされると、風邪をひいている俺には手を出しようもない。そもそも、相手は神様なのでかなうはずもない相手なのだが。


「はあ」


 あいつは楽しそうに俺を弄んでいる。猫をほっといた神から俺への天罰か。コムギだけに。


 そんな親父ギャグをかましていると、ふと風邪薬を飲んでいないことを思い出した。熱は七度五分で一日二日で治ってしまうものだが、早く治したほうが体に負担はかからない。


 コムギに呼び掛けて薬箱を開けてもらうように指示する。


「風邪薬あるか?」


「うーん?」


 コムギの反応は首を傾げるだけだった。


「どうした?」


「キミの言う風邪薬だけど」


 コムギはさらに逆方向へと首を傾げる。


「多分無いよ」


 ―――ウソだろ?この倦怠感が丸一日続くのは流石にきつい。それでも俺は薬局に行く気にはなれなかった。すごく面倒くさいから。


 あーだこーだと嘆いている時、俺の中に一つの案が浮かんだ。


 ―――コムギの超能力を利用すれば治るんじゃないか?


 そうだ。そうすれば俺の風邪など簡単に治るじゃないか。今まで一体何をごちゃごちゃ考えていたんだろうか。神様というご身分でいらっしゃるコムギにお願いすれば、風邪なんて一瞬で治るだろう。


 そう思っていたのだが、コムギは見越していたのか俺に一言口を挟む。


「言っておくけど、ボクに風邪や病気を治す力はないぞ」


 コムギのほうへ首を振り向く。


「ないのか?」


 コムギは先程よりもっと大きな声で宣言した。


「ない。ないったらない」


「マジでか!」


 俺は一気に力が抜けベッドの中へと沈みこむ。いくら神様であっても、風邪や万病には敵わないらしい。


「もーーーーーう」


 結局、風邪薬を自分で買いに行くしかないじゃないか。俺のバカ野郎。コムギの役立たず。


「買いに行くの面倒くさいよー」


 モゴモゴと枕に埋まりながら、取捨択一とはいえない今の状況を嘆く。


「だるいしんどい力がでない」


 まるで駄々をこねる子どものように、ベッドをバタバタとたたく。さらに、そこから埃がふわふわと浮いていく。コムギは『埃が舞ってるんだけど』、とでも言うように不愉快そうな顔をし、鼻先についた埃でくしゃみが飛び出す。


「ハクシュンッ」


 そのくしゃみは小さく可愛げがあった。


 コムギはテーブルのティッシュを1枚掴み取り、不器用に鼻を拭う。拭い終わったあとはゴミ箱へポイと投げ捨てた。


 カラッ――—


 ゴミ箱の真ん中へ放射線を描いていたそれは、縁に当たり床に転がる。


 恰好ついてないぞ。俺はニヤニヤとコムギの失敗を笑う。コムギはむずむずとした恥ずかしさを覚えながら、ゴミに向けて人差し指をくるりと動かす。


 ヒュッ―――


「お?」


 ゴミがふわっと浮き、柔らかな軌道を描いてごみ箱の中へと沈んだ。ハンドパワーみたいなやつか?テレビ越しにマジックなどで見たことはあるが、生で見たら結構面白いな。


「なんだその能力」


「うーん?ああ、これかい?」


 コムギは人差し指をこちらへ向け、円を描くようにくるくると回す。


「これは遠隔操作だよ。聞いたことあるよね?」


「ああ、あるぞ」


 まさにテレビのリモコンとかだな。


「そうだなー」


「うん?」


 コムギはくるくる回している指を止めた。顔は心なしか、笑みを浮かべている。ただし、ブラックな笑顔である。


「ひとまず体験してみる?」


「へ?」


「ヒョイッ」


 コムギのヒョイッという声の直後、俺の身体は唐突に浮遊した。前準備もなく急に浮き始めたので、ふらふらと無秩序で、体の自由が利かない。特に支える部分もなかったため、頭が左右上下に揺れる。体調不良を起こしている人間に対して、使っていい技じゃないだろ、と頭の中でつっこんでいると、さらに体はベッドから離れていく。


「ウェッ」


 あ、やばい。何か口から出そう。


 吐き気と頭痛という、両方からのアプローチ。これを人間業で耐え凌ぐことが出来る人間は、相当数限られていると思う。


「うわっ」


 いつの間にか、俺の身体の向きは、頭にベッド、足先に天井という逆立ち状態に変化している。


「本当に吐きそう」


 ベッドの真上を、逆立ち状態でキープされるのは、もはや拷問に近いものを感じる。


 ―――コムギの奴め、覚えてろよ。


 体の状態とは関係なく、頭の中は冷静で、コムギをどう懲らしめてやろうかを考えていた。


 視界の端を、うっすらと影が落ち始めるころになると、コムギの声が聞こえた。


「じゃあ、終わり」


 すると、俺の身体を包んでいた何かが雲散霧消する。


 これで苦しみから解放された。


 と安堵するべきなのかそうではないのか、いや、これは安堵すべき場面ではないだろうと断言する。


 現在の俺の身体は、ベッドの上を逆立ち状態で浮いているままだ。これを不親切にそのまま解除されると、ベッドに向かって垂直方向に落っこちることになるのだ。


 これは間違いなく、


 ―――痛い。


 そう悟った瞬間、俺の身体は落下した。


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