第2話 胸の中
「ヒイィィィーーーー」
「大丈夫かー」
数分前に扉に挟まった尻尾を、その猫はわが子のように撫で続けていた。挟まった直後にすぐドアを開いたが、時すでに遅し。猫の尻尾は、見事に直角に折れ曲がった。
元に戻そうとしても意味はなく、それでもめげずに続けていたが全くの無意味であった。
「これが大丈夫とでも言うんですか!」
猫は尻尾を鷲掴みにし、俺に見えるように目の前に突き出す。尻尾の先が天井に上るようにして曲がっている。根本の方は生き生きとしているが、折れ曲がった先から動きはなく停止している。
「今はこんな痛みなんてどうでもいいんです!でも、この尻尾を折ったことは絶対に許しませんよ!絶対の絶対の絶対に!!もしもあなたが手を離してなかったら、こんな無様な姿にはならなかった!」
確かに俺がドアから手を放してしまったせいで、尻尾が折れてしまったというのは間違いないが、あんなところにいた猫も反省すべきところはあると思う。だから実際、悪いのはお互い様だと思うんだ。
涙が浮かぶ吊り上がった両目に睨まれ、対照的にしっぽは元気をなくしている。
「まあ、あれは許してくれよ、いきなりだったから」
苦笑いしながら肩をすくめる。
「確かに突然だったのはボクが悪いですけど」
俯きながらぼそぼそ話す。多少反省してるんだな。
感心していると、なんだか悪気を感じた。猫と同じように、頭の中がヒートアップしていたのかもしれない。
「俺も悪かったよ」
猫はまるで呪いをかけるように睨む。
「すまなかった」
正面の猫に頭を下げた。
「俺にその尻尾を治すことはできない」
これで勘弁してくれ。俺には尻尾を治す技術を持っていないし、なんも力にはなれないと思う。
数秒間、沈黙が続いた。
「・・・・・・わかりました。ボクも悪かったです。玄関前にいないように気を付けます」
頭を下げながら安堵した。よく考えたら、部屋の中は一人の人間が一匹の猫にたいして、頭を垂れ謝っている状況。これを第三者にでも見られたらどうなるだろうか。
「そうか、なら——
「ですが、条件があります」
猫はさっきまでの表情とはうって変わって、生き生きとした笑みを浮かべていた。
おいおい、変なお願いをされても困るぞ。
「俺が差し出せるものは少ないぞ」
「多分大丈夫ですよ、きっと大した事ではないですから」
笑顔はいたって普通。だけどきっとってなんだ。本当に大したことじゃないんだろうな?
「じゃあなんなんだ?さっさと言ってくれ。俺はもうすぐここを出ないと遅刻するんだ」
「そうですねー」
猫はどう言えばいいものかじっくり考えこんでいる。
「早くしないと行くぞ」
「よし」
俺には内容はわからないが、何かを決断したらしいことは分かった。
「ボクをこの家のペットにしてください」
その目は真っすぐこちらを見ていた。
「よろしく」
舌を出し、小さく笑みを浮かべた。
「マジかよ」
「マジだよ」
さすがに時間がなかったので、すぐに話を切り、俺が帰宅する時間帯に家の前に待機するように言った。
ギリギリ遅刻しそうになったが、何とかそうならずに済み出勤することができた。
仕事はそつなくこなし、集中するにつれ次第に時間が過ぎていく。昼休み休憩に入った時、猫の存在を思い出した。そういえば、あいつの名前決めてなかったな。まあ、後々決めればいいか。それよりも、早急に始めなければならないことがある。
猫ってどう飼えばいいんだろう―――
机上のホットコーヒーを口に運びながら、ふと漠然とした想像をする。俺は生まれてから今のいままで動物を飼ったことがなかった。
「身近に誰かいないかなー。ペット飼ってる人」
「お?
デスクの隣から声をかけられた。ぼんやりとした頭の中を整理しつつ椅子ごと振り返る。
「いや、そういう訳じゃないが、
振り返った時には、既に椅子に座ってこちらを向いていた。
「そうなんだよー。言ってなかったっけ?」
彼は首を横に傾げた。彼の名前は
「言ってたっけ?」
正直覚えていないが、筋トレ大好き人間というイメージが強いため、違う部分に視点が向かないというのが原因な気がする。
「犬飼ってたんだよ、実家だけどな」
「犬か」
長谷川のイメージなら、小型犬じゃなくて大型犬だな。
「まあ、俺ん家の犬の話ならいくらでもして良いけど、今したい話はそれじゃないだろう?」
そう言って、長谷川はハキハキと喋りながら尋ねた。確かに、今はその話を聞きたいわけじゃない。
「そうだなー」
目の前に人差し指が立った。
「俺が言い当ててやるよ」
指の先端が左右に揺れる。何の気なしに目で追った。
「ムムムムム」
彼はきゅっと瞼を閉じ、眉間にしわを寄せた。
「ほおぉぉぉぉ!」
「なんだなんだなんだ」
突然奇声を発したため、さすがに慌てた。周りの会社仲間もこちらを振り返る。俺は何もしていないが、何故か罪悪感じみたものを覚えてしまう。
「ふうううぅぅぅーーー」
必死な顔で深呼吸している長谷川は、なにか超能力でも使っているのかもしれない。
「ハッ!!」
そしてやっと答えた。
「猫」
お、言い当てた。少しだけ驚いた表情をしたかもしれない。
「ああ、そうな―――」
んだよ、と言いかけたが俺の思考回路がちょっと待てと赤信号を示した。
もしそのままイエスと答えてしまえば、フットワークが軽い長谷川なら必ずあの猫を見たがる。普通の猫ならまだしも、あの猫は人間の言葉が理解できて、さらに話すこともできてしまう。それがバレてしまえば、きっと誰かに聞くに決まってる。面倒くさいことになるかもしれない。
だから、今回限りはイエスともノーともとれない、どっちつかずの答え方をしよう。
「実は―――」
「とりあえずその時は実家が猫を引き取ったので、そのうち一匹を預かろうかという話にしたんだ」
「それで良いんじゃないー?」
定時に帰宅できたので、現在は猫と一緒に近場のスーパーマーケットに向かっている。そのさなか、今日の昼休み休憩にあった出来事をありのままに話したのだ。
さて、とりあえずこの猫に聞きたいことが山ほどある訳だが、まず、なぜ人間の言葉を理解し、話すことができるのか。なぜあの日、帰りの路肩で寝そべっていたのか、いや、空腹で倒れていたのかもしれないが。それと、最初見たときは捨て猫だと思っていたのに、もともと飼い主はいないだとか。
こいつは謎なところが多すぎるぞ、おい。
なんとなく、果てしない空を見上げた。もう太陽は沈み、街中は澄んだ暗闇とぼんやりとしたライトで、淑やかなコントラストを織り交ぜている。それを遠くで月が眺めていた。
ふと、まだ猫の名前を決めていないことを思いつく。
「名前、まだ決めてなかったな」
「お!たしかにそうですねー」
猫の折れ曲がった尻尾がピンっと立った。
「でも」
一つ前置きした。
「気持ちはうれしいですけど、すでに名前はあるんですよー」
これまた予想外。飼い主がいないというのに、名前がもうあるとは。
「ボクの名前はコムギっていうんです。これからは、ボクをそう呼んでください」
命名者はきっと、白と黄金色だからコムギにしたんだろうな。その命名者が誰だかは知らないが。
とにかく家に帰ったら、聞けるだけ聞こう。なぜ人間の言葉を理解し、話せるのか。そしてあの場所で倒れていたのか。もともとどうやって暮らしていたのかを。
今日はこいつのせいで眠れないぞ。
「クワァ」
思わずあくびがこぼれた。
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