第4話

「え・・・?」

「幸運なお相手は、石本恵理さん。石本専務の娘さんよ」

「やっぱりねぇ。如月さんは石本派に属する独身男性の中でも、一番の有望株だもん」

「でも恵理さんは今、大学4年生だから、結構年の差があるのよねぇ。まぁそれでも如月さんの方が年上だから、あまり重要視はしてないみたいだけど。とにかく、彼女が卒業してすぐに結婚するみたい」


如月さんが社内でも強い発言力を持っている石本専務を支持していることは、入社以来ずっと庶務課にいる私でも、9年も同じ会社に勤めていれば、社内事情のことも含めて噂を聞かなくても知っていた。

それだけじゃなくて、如月さんのお父様が、石本専務が営業部長だった頃から交流があったこと。

だから如月さんは、あずま興産に入社する前から石本専務のことを知っていて、家族ぐるみでおつき合いをしていることや、如月さんは石本専務に見込まれて、あずま興産に入社したことも、私は知っている。

これらは全て、如月さん本人と、ご両親から聞いたことだから。


それにあの日・・愛し合ったイブの夜が明けた朝、如月さんは誰かと電話で話をしていた。

会話の内容は知らない。だけど最後に「ごめんな、エリちゃん」と、彼が言った言葉だけが聞こえてきた。


あのとき如月さんが話していた「エリちゃん」は、たぶん石本恵理さんだろう。

いかにも年下の女の子に話すような口調だったし、優しい感じは相変わらずだった・・・。


残念、という気持ちはわかなかった。

惨めな気持ちにもならなかった。


ただ・・・現実を見せつけられたような気はした。


でも、如月さんくらい仕事ができるエリートな男性の結婚相手は、「次期社長の座に最も近いところにいる」と言われている石本専務の娘さんの方が、存在感の薄い一事務員である私よりも相応しいわよね。

自分にはもう身寄りがいないことを、私は決して卑下してはいないし、如月さんだって、そのことを蔑視なんてしてはいないことくらい、私にも分かってる。

でも・・如月家と石本家の方が、家柄的にも絶対つり合いが取れていると思う。



噂話を初めて聞いたその日、私は食べたものを吐いてしまった。

つわりかどうかは分からない。吐いたのはそれ一度きりだったから。

でも私は、噂話を聞いて精神的にショックを受けたというのが、本当の理由だと思っている。


実るはずのない恋だと分かっていたはずなのに。

9年片想いをしていた意中の彼に、一晩だけ愛してもらっただけで、「もしかしたら」という希望や期待を、無意識のうちに抱き過ぎていたのかもしれない。


目を覚ましなさい、私!


でも、如月さんを好きな気持ちは止めることができない。

誰かに恋をするって、そういうものだと私は思うから。


でも・・・如月さんのことを愛する気持ちは、もうこれ以上育ててはいけない。

もうこれ以上、如月さんを愛し過ぎちゃいけないよ、私。

そう言い聞かせただけで言う事を聞くものじゃないことは分かってる。

だけど、今の私は、それしか思いつかなかった。


いっそ誰かから頬を叩かれて痛みを感じたら、私の目は覚めるのかもしれない―――。







結局、今日も仕事中に色々なことを考えながら仕事をしてしまった。

まぁ大半が如月さんのこと、そして例の「噂」のことだったけど。


その噂の当人である如月さんは、クリスマスから出張中だ。

帰国予定は今月末。今日はバレンタインデーだから・・あと2週間ある。


如月さんに「結婚するんですか?」とメールで聞こうかどうか迷った。

でも私はそんなことを聞く立場にいない。

大体、聞いてどうするのよ。「ああそうだよ」と言われて、それから・・・どうすればいいのか分からない。

だから聞くのは止めておいた。


結婚する約束をした相手がいながら、如月さんはなぜ私を抱いて・・愛してくれたんだろう。

欲望から?

一時の気の迷いで?

それとも哀れな私を慰めようとして・・・かもしれない。


だから如月さんは私に、「愛してる」とか「好きだ」と一言も言わないんだ。実際そう思ってないから・・・。

だから翌朝、婚約者の恵理さんに、私と寝てしまったことを正直に告白して、「ごめん」と謝っていたんだと、私は本気で信じていた。


留守宅の管理も、もうしない方がいいのかもしれない。

いくら如月さんから信頼されて任されたとはいっても、プライベート過ぎることだし。

いっそ恵理さんに頼んだ方が・・・あぁ、でも恵理さんは大学生だ。学業が・・。

でも今の時期だったら、それほど忙しくないんじゃない?

卒業後の「進路」も決まってるんだから・・・。


私は無意識のうちに、自分の腹部に手を当てていた。


痛いからじゃない。

赤ちゃんの存在を確認するというか・・感じたかったから。


私は地下鉄を降りて、いつもの道をテクテク歩いて家路に向かった。

偶然会った如月さんと、一度だけ一緒にこの道を歩いたことを思い出した。


あの時は夏になったばかりで、いつもの時間より遅かったけど外は蒸し暑くて、空は暗くなり始めたばかりだった。

時々微かにそよいだ風が私の頬に触れたことや、二人の長いシルエット、小さなコロちゃんをそっと抱いたときの温かな感触、如月さんの笑顔が、次々と私の脳裏に思い浮かぶ。


あのときから私は、如月さんの包容力に頼りっぱなしだった。

とても心地良くて、いつまでもくるまれていたかったけど・・・ダメダメ!今からそんなんじゃあ、逞しく生きていけないよ?


大丈夫。私にはこの子がいるんだから。


今朝、検査薬を試して、二本のラインがクッキリ浮かんだのを見たとき、「あぁやっぱり私、妊娠してる」と分かって安心した。

ずっと身寄りがいなかった私に新たな家族ができることが、とても嬉しかった。

しかもこの子の父親は如月さん。私が愛する男性。

赤ちゃんは生む。絶対に。

生んで、私一人ででも必ず育てる。これは絶対事項なんだから!


ただ、問題が一つある。仕事のことだ。


仕事、辞めた方がいいのかな。

でも今、仕事を辞めてしまうのは危険というか・・・。

再就職先も決めていないどころか、再就職先がすぐ決まる保証もない。

決まった所で、今みたいな事務職に就けるかどうかも分からない。

就けたところで、今いただいているお給料と同額くらいもらえるかどうかも分からない。


でも、このまま「あずま興産」で仕事をし続けても、私のおなかはこれからどんどん大きくなる一方だから、妊娠していることが社内に知れ渡るのは時間の問題だ。


『えーっ!?あの霧野さんが妊娠!?』

『シングルマザーだって』

『父親は誰よ・・・』


リアルな想像に、思わず足が止まった。

どっちにしても、ここはマンションのエントランスだ。


私は鍵を探しながら、ため息をついた。


・・・どうしよう。

私の妊娠は、いつまでも如月さんに隠し通せることじゃない。

そうなると如月さんの結婚も・・・あ。だから恵理さんには前もって話をしたの・・・?


行き着いた考えに、頭がショートしそうになったそのとき、エントランスの自動ドアが開いた。


え?まさか・・・。


背中に感じる雰囲気から、ふり向かなくても誰が来たのか分かった。


でも・・まだ出張中のはず・・・。


私は、鍵探しをひとまず止めた。

そして思いきって――本当は恐る恐るといった感じで――後ろをふり向いた。


私が「感じた」とおり、そこには如月さんが立っていた。


ガッシリした体格も、背の高さも、凛々しくハンサムな顔に少し疲れが見えるのも、彼の隣にスーツケースが置いてあることから、まさしく本物の如月さんが、出張から戻って来たんだ。

でも私は、驚きで目を見張りながら、如月さんを見ることしかできなかった。


何となく怖くて。

如月さんのことが、ではなく、私たちの「関係」とか「これから」を、今、これからハッキリさせなきゃいけない時が来たことが。

これ以上如月さんに近づいたら、私は・・・。


でも私は、足 に根が生えたように、その場から動けなかった。


会えて嬉しい。触れて疲れを取ってあげたい。

でも悲しい。行かなきゃ。彼から離れなきゃ。

あぁ、私・・・泣きそうだ。


結局、如月さんが私の方に近づいた。

私はただ、息を詰めてバッグをギュッと握りしめながら、彼が近づいてくるのを待つことしかできなかった。


背の高い如月さんが、私を見た。

そして私は、如月さんを見上げた。


如月さんが後ろに隠し持っていた、一輪の赤い薔薇を、私にスッと差し出した。


「これ、バレンタインのプレゼント」

「あ・・・ありがとぅ、ございます」


差し出されたものを、反射的に手を出してもらった透明のセロファンに包まれた赤い薔薇は、少し長めの茎で、とてもキレイだ。

でも、いきなりそれを「バレンタインのプレゼント」と言われてもらったことに、私は嬉しい以上に戸惑っていた。


「・・・俺、今日誕生日なんだ」

「・・え・・・?」


しかも如月さんから「誕生日なんだ」と言われるとは思ってなかっただけに、ビックリした以上に、なんだか拍子抜けした。

いっぱいいっぱいに張りつめていた私の緊張感が、スルスルと緩んでいくのが自分でも分かる。


「それでどうしても今日帰ると決めて、仕事詰めこんで前倒しさせて・・俺の気持ちにみんな協力してくれたおかげで、どうにか間に合った。・・・マジで良かった」

「あ、えっと・・・おめでとうございます。言ってくれれば、プレゼント用意したのに。私ばかりもらって・・」

「用意しなくてもいい。でも俺、欲しいものがあるんだ」

「じゃあ言ってください。明日にでもプレゼント買いに行きます・・・」

「俺はかすみが欲しい」

「・・・え・・・?」


今、如月さん「かすみが欲しい」って言った・・・?


「か、かすみ、って・・」

「おまえのことだけど」


口を「あ」とか「う」とか「お」と開いてパクパクさせるだけの私に、如月さんは包容力をふんだんにたたえた笑みを浮かべながら、私の二の腕にそっと手を添えた。


そして如月さんは、自分の右手だけを、そっと私の手の方へ滑り降ろしながら、私の左手を握って・・・。


いつの間にか手に持っていた指輪を、私の薬指にそっとはめてくれた。


「霧野かすみさん。俺と結婚してください」


・・・嘘みたい。でも嘘じゃない。

だって、今、私が感じているのは、如月さんのがっしりした体と、温もりと、そして私自身の、忙しない鼓動が、ドキドキ、ドキドキって・・・。

左手の薬指にある指輪の感触だって夢じゃない。本物だ。


これは、ロマンチックな夢を見てもいいって・・ううん、ロマンチックな私の現実なんだよね?


「愛してるよ。かすみのこと、愛してる。俺と結婚してほしい。おまえのこと、絶対幸せにする。だから・・」

「・・・ぅ・・・っ・・・」


ずっと好きだった人から、プロポーズされた。

心の底からたくさん愛している人が、「愛してるよ」と言ってくれた・・・。


私は嬉しくて・・ただ嬉しくて。

ボロボロ涙を流しながら、如月さんのワイシャツに額を擦りつけるように何度も頷いた後、やっと「はい」と返事をした。

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