第2話
その後如月さんに会ったのは、翌週の土曜日。青かった空が、茜色に染まりかけた夕方のことだった。
コロちゃんがどうしているか―――無責任に放置されているとは、もちろん思ってなかったけど―――如月さんに聞きたかった。
でもそのためだけに、わざわざ営業部まで行って如月さんを呼び出したりすれば、彼が迷惑すると思った。かと言って、如月さんが住むマンションのエントランスで待ち伏せするのも・・・やっぱり迷惑するだろう。
だったら社内メールでコロちゃんの近況を聞くのは・・・それもどうよ。完全な私事だし。
そして私は、如月さんのプライベートの番号やメールアドレスを知らない。
となると、また偶然会うチャンスを待つしかないと、内向的で臆病過ぎる性格の私は思っていただけに、如月さんが、わざわざ私に会うために、マンションのエントランスで待っててくれたことが、とても信じられないくらいビックリして。
それ以上に嬉しくて、さらに緊張してしまって・・・心臓はドッキンドッキン煩く鳴りっぱなし。
買い物袋を強くギュッと握りしめたつもりが、なぜかドサッと落ちてしまったくらい。
それでも胸のときめきは、なくならなかった。
壁のように分厚く、大柄な体格にも関わらず、如月さんは素早い身のこなしで私の方に駆け寄ると、手から落ちた買い物袋をパッと拾い取ってくれた。
一方、私の方は、緊張でその場に固まって棒のように突っ立っているだけだ。
あぁ、何て気が利かなくてドンくさい私・・・。
如月さんは「大丈夫?」と私に言いながら、さりげなくその大きな右手の平で、私の二の腕にそっと触れた。
それで私は目が覚めたかのように、如月さんを仰ぎ見た。
「あ・・あぁはいっ。だいじょうぶ、です」
どうにかそう答えた私に、如月さんは頷くと、私の二の腕に触れていた右手の平を、そっと離した。
全ての仕草がさりげなく、洗練された男らしい気遣いを感じる。
・・・といっても私の場合、29になるというのに、おつき合いの経験は一度もないから、片想いをしている如月さんだけが、男らしさの基準になってるんだけど・・・。
「急に訪ねてきてごめん」
「いえっ、そんな気にしないでください!」
「コロのことが気になってるんじゃないかと思ってさ」
「あ・・・はぃ」
「あいつのことは両親が世話してくれてるから。大丈夫。もう心配しなくていい」
「そうですか」
「それから、コロは元気過ぎるくらい元気だよ。病気も怪我も今のところはしてない。健康そのものだ」
「そうですか・・良かった」と呟きながら、私の目には安堵の涙がにじんでいた。
「私は言っただけで何もしてなくて。あとは全て如月さんたちが引き受けてくださって、私・・・本当に、どうもありがとうございました」
「いやいや。むしろお礼を言いたいのはこっちの方だ。両親も喜んでるよ。俺と姉貴の世話する必要もないし、孫の世話はたまにしかできないから久々の“子育て”に両親も張りきってる。それ見て俺も良かったって思ってるんだ。どうもありがとう」
「いえ、そんな・・」
「あぁそれでだ。今日は霧野さんの番号とアドレスを交換したくて会いに来たんだ。仕事のじゃなくて、プライベートの方」
「・・え・・?」
驚きで目をパチパチと瞬かせる私を安心させようとしてなのか。
如月さんは、ジーンズのポケットからスマホを出すと、私の目の前に画面を見せた。
「コロの写真撮ったんだ。霧野さんも見たいんじゃないかと思って」
「あ・・」
「それで俺、写真送りたかったんだけど、霧野さんの番号もアドレスも知らないし。でもこういうのを会社のメールで送るのは、癒されるだろうけどやっぱプライベートだからなぁ。やばいだろ?」
「はいっ。そうですね。じゃあ・・お願いします」
私はバッグからいそいそとスマホを取り出すと、如月さんと番号を交換した。
ずっと片思いをしている相手のプライベートの番号とアドレスを登録することができたなんて・・・。
私、また夢見てるのかな。
でも、目の前に立っている如月さんは本物だと思いながら、彼の私服姿を見たのも初めてだと気づいて、頬がボッと火照るくらい、感激してしまった。
如月さん、もうラグビーはしていないようだけど、まだまだ体を鍛えてるみたい。
日焼けした肌と盛り上がった筋肉に、ピタッと吸いつくように着られた白いポロシャツとのコントラストが、見事にマッチしている。
襟の立て具合もすごくオシャレだ。
なのに私ときたら・・・。
完全な休日部屋着スタイルのまま、うちから徒歩3分のところにあるスーパーへ買い物に出かけた帰りに如月さんに会ってしまったという現実を、まざまざと思い知らされてしまった・・・。
髪だってボサボサ加減を少しでもごまかそうと、後ろに一つ、適当に結んだだけだし。
メイクは普段から薄めにしかしないけど、休みの日は完全にノーメイクだし。
よりによって、片思い中の彼に完全に「素」の私を見られたなんて・・・!
あぁなんて恥ずかしい!
・・・でも、こんな姿をしていても、如月さんは私だと分かってくれたことが嬉しい。
って、その点喜んでもいいんだよね・・・?
複雑な想いを交差させながら、せっかく来てくれた如月さんに、思いきって「うちに来てお茶でも飲みませんか?」と言ってみた。
「あ、それともこの時間だとごはんの方がいいですか?」
「いや。俺はもうメシ食べたから。実家に行ってきた帰りなんだ」
「あぁ、そうでしたか」
「霧野さんはまだなんだろ?引き留めてすまなかった」
「いえいえっ」
「じゃあ俺はこれで。家に着いたら写真送るよ」
「あ・・はいっ。それじゃあ・・・気をつけて。おやすみなさい」
「おやすみ」
それから15分もしないうちに、本当に如月さんは私に写メを送ってくれた。
如月さんは控えめに「写真撮った」と言っていたけど、合計40枚も送られてきた。
どれもこれも、コロちゃんはあどけなく可愛い表情で、カメラを見ている。
『これでホントにマジで最後!くどくてごめん。でもかわいいよな?俺も親バカモード入ってる』と書かれたメッセージに、私はクスッと笑いながら、胸の内がじんわり温まるのを感じた。
ホント、優しいな。如月さんは。
やっぱり何かお礼をしたいと思った私は、メッセージを送った。
内気な私の場合、直接如月さんの顔を見ながら聞くより、メールの方が聞きやすい。
なんと、それからすぐ、如月さんから電話がかかってきた!
「実は頼みたいことがある。明後日から俺、出張なんだ。今回はアラブ。滞在予定は3週間」
「そうですか」
「で、頼みたいことは、俺の留守中、ポストから郵便物を取ったり、家の換気をしてほしい。毎日じゃなくていいから。これは礼っていうより近所のよしみで霧野さんに頼みたいんだけど。いいかな」
「も、もちろんです!私でよければ喜んで。ぜひやらせてください」
「良かった。俺も助かるよ。じゃあそうだな・・鍵は明日、君んちのポストに入れとくってことで」
「はい分かりました」
「ありがとう。それじゃ、おやすみ・・の前に、ちゃんとメシ食べるんだぞ」
「あっ、食べます、はいっ」
なんか、すごくプライベートなことを頼まれた気がすると思ったのは、スマホを切った後だった。
それ以来、私は如月さんが出張中、彼の家に行って、郵便物を仕分け・整理したり、家の換気をするために窓を開けたりといった、留守中の家の管理をした。
如月さんは平均して、2ヶ月に一度の割合で出張があるようだ。
でもそれは不定期で、出張する日数もその都度変わる。
どうやら今年度は、出張日数は少な目だけど、その分回数が増えた形になってるらしい。
如月さんの出張先は、外国の中でも石油産出国が主だ。
そして如月さんがひげを生やしているのは、中東地域を担当しているため。その国の文化や風習に合わせる必要があるからだ。
ラグビーで鍛えた厚めの体に、目鼻立ちがハッキリしている如月さんのひげを生やした顔は、なんだか優しいクマさんみたいに見える。
でもその顔でスーツを着ている姿が、女子社員の間ではカッコ良くてステキに見えてるのよね。もちろん私もその一人で・・・。
私は如月さんが言った通り、毎日じゃなくて1日か2日おきにお邪魔した。
郵便物で何か緊急なものがあれば、「こういう手紙が届いている」とメールで知らせる。その上で如月さんから指示があれば、開封したり、そのまま破棄をしている。
それから、誰もいない部屋でも埃はたまるので、掃除もやった。
帰国する前日には、必ずその旨のメールが如月さんから来るので、そのうち帰国時間に合わせて、食材や、すぐに食べれられるおかずを数品、冷蔵庫に入れておくようになった。
夜中に帰国しても、お店やレストランは開いてない。かといって帰国早々コンビニ食じゃあ味気ないだろうと思って。
それに、如月さんは中東に出張中、基本外食(ホテルで)だと聞いたから、家にいる時くらい、あっさりした味付けの手料理の和食を食べたいんじゃないかと・・・少なくとも私はそう思うから。
でも私は、如月さんの彼女という立場ではない。
私たちはおつき合いをしてるんじゃないし。
如月さんから「つき合おう」といったストレートな告白はもちろん、「好きだ」とか「愛してる」というような愛の言葉を言われたことも、一度もない。
たった一夜だけ、体で愛し合った、あのときでさえ・・・。
如月さんがそういう目で私を見てはいないということくらい、もちろん私にだって分かってる。
これは如月さんへの感謝の気持ち。
そして「留守中の細々とした雑用は私に任せて、きっと過酷で大変なはずのお仕事(出張)に集中して乗りきってください」という、私なりの応援でもある。
だから、あくまでも出しゃばらず、やりすぎないようにと自分をいさめることは、決して忘れなかった。
如月さんは、私が今やっている留守宅の管理を、それまでは彼のお母様に頼んでいたそうだ。
でも今の高台マンションに引っ越しをして、実家からの距離が遠くなったので、わざわざ頼むのも・・と気が引けていたらしい。
だから、留守宅の管理は近所に住む私に頼む代わりに、コロちゃんのお世話を引き受けてもらったと言っていた。
同じ会社に勤めていることも、私を信じて管理を頼む要因になったみたいだ。
如月さんはプロでもない赤の他人に、そういうことを頼んでいるという気兼ねがあるのか。
いつも「お礼に」と言っておみやげをくれた。
それが、オリーブオイルやアルガン油といった、天然成分で作られた手作り石鹸とか、モロッコミントティーといった、とても素朴な品ばかりで、「値段もそんなにしない」と如月さんから言われたこともあって、私も「そんな・・」と恐縮せず、「ありがとうございます」と言って素直に受け取ることができた。
「これを見たら霧野さんのことを思い出した」とか「こういう石鹸は君にピッタリだと思って」と言われたのはちょっと「?」だったけど・・。
たぶん如月さんは私に対して、石鹸のような「素朴で淡い女」だという印象を抱いているんだろうな。
確かに私には、香水といった華やかで、女らしく甘い香りに満ちてるイメージなんてないから。
でも、「石鹸は手作りだから、一つ一つ形や大きさが微妙に違う」と言っていたっけ。
だから、私にもそういう「隠れた個性」のようなものを感じ取ってくれたのかも・・・なーんて!
如月さんが私のことをそんな風に特別視なんてしてるわけないでしょ!
そんな私たちの関係が大きく変わったのは、それから5ヶ月近く経った、クリスマスイブの夜だった。
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