チョコレートの日

 



 リオ様と一緒にお屋敷で一緒に住むようになり、私の名字がカルトロールからフェナンシェットに変わってから、季節はすでに一巡りし、新たな時間を刻んでいた。二度目のヴァシュランマーチを終え、 私もギフトの力を抑えるべく努力する日々だけれど、未だに振り回されるときがある。

 けれども、以前よりも心の中の重たい荷物は減ることはなくても、きちんと持ち上げて前を進むことができるようになった気がする。


 大きな変化も、小さな変化もたくさんありながら、また寒い季節がやってきた。わずかに暖かくなると思うと、やっぱりとぶり返す外の景色に服を分厚くさせながら、シャルロッテさんと一緒にかまどに火を通した。


 誰かの妻になってしまった。

 それだけでも驚きなのに、友人もできた。カルトロールの屋敷にいた頃の自分に伝えると驚いて、何を言っているのと信じてもくれないかもしれない。庭では天幕水の下の暖かな気候の中で、ソルが真っ白い体をふわふわと毛玉のように丸まりながら遊び回っている。


 寒いはずなのに、ひどく暖かい空気を胸の奥にゆっくりと吸い込んだとき、「できあがりましたわ!」 シャルロッテさんが、よいせとかまどの扉を開けた。彼女とはお料理友達で、こうしてときおり料理を作って、一緒にご飯を食べるのだ。お野菜に頬ずりしている姿もたまに目にしてしまうのだけれど、そこは見ないふりをするのが大人というものな気がする。もう私も十九になったのだ。


 こうして日々のふんわりとした日常を噛み締めながら、さっくりした美味しいタルト生地を二人でもふもふ頬張り、幸せにほっぺをなでていたときだ。


「――そう言えばもう少しでヴァレンタインですわね。エヴァ様も、リオ様にもちろんお渡しになるんでしょう?」


 わたくしも配達屋の顧客の方々へ配りますので、今から準備しませんと! とふすふす気合を入れるシャルロッテさんを見ながら、私はゆっくりと首を傾げた。シャルロッテさんは、私と反対方向に首を傾げる。まさか、とシャルロッテさんから“声”がきこえる。

 何を驚かれているのかわからない。


「あの、バレンタインって……」


 恐る恐るした問いかけに、彼女はひどく衝撃を受けている様子だった。けれど、ゆっくりと教えてくれた。なんでも、王都では女性から意中の男性にチョコを渡すという古くからのイベントがあるのだとか。


 ヴァシュランマーチにせよ、場所が変わればお祭りだって変わってしまう。去年の私はやっと外に出るようになったばかりだったから、まったくもって目に入っていなかった。けれど思い返せば、街中から甘い匂いが漂っていて、ソルと一緒に散歩をしながら震えた。世の中って、こんなにイベントごとがあるのねと。


 昔は女の人から男の人に渡すばかりだったイベントだけれど、これからもよろしくお願いしますと言う意味のチョコもあれば、仲良くしましょうと同性同士で交換することもあるとのことで、シャルロッテさんはその二つがメインなのだと言う。


『去年は仲良くさせていただいたばかりで、貴族の方に贈らせていただいていいものかと様子見をさせていただいておりましたが、今年はがっつりさせていただきますわ!』と、八重歯を見せていたシャルロッテさんはとても可愛らしかったのだけど、悩み事が一つある。


 私は、それをリオ様にお渡ししてもいいのだろうか。


 気持ちとしてはお渡ししたい。でもそんな。夫婦と言うよりも、恋人的に渡すことが多いイベントらしく、今更渡したところで、なんだそりゃ、と思われるかもしれない。いやリオ様ならそんなこと思わないけど。わかっているどころか、本当に“聞こえている”のに、未だに足踏みをしてしまうのは幼い頃からの引きこもりで、対人関係をうまく築いてこなかった私自身の欠点だ。克服せねばと思いながらも、心の隅で、いつもひょっこり自信がない言葉が溢れてしまう。


 困りながらリオ様とお夕食を食べているとき、ふとリオ様が窓の外を眺めながら、(もうこんな時期か)とお鍋の汁を飲み込んで考えていた。ほう、と温かさに息を吐き出しながら、ぼんやりと、(エヴァさんから、チョコがほしいな……) 去年はそんな雰囲気ではなかったから、どういったら言いだろうか、でもこちらから催促するのも妙な話だし、と葛藤している。


 ぱたぱた、と左右に尻尾を振るようにゆっくり思案している夫を見つめた。申し訳ないことに、全てが聞こえてしまった。 「…………」 何をどういったらいいのかわからない。うーん、とリオ様は天井を見つめて考えていた。そして気づいた。「ん……あっ」 全部こちらに聞こえている。


 リオ様は、私が彼の考えを知ることができることを知っている。誰かに言うつもりもなく、一生自分の内に秘めていこうと思っていたのに、自分からその秘密を伝えることになるだなんて、誰が想像しただろう。


 リオ様と視線を合わせて、気まずくそらした。わかっているけど、それに対して反応するとなると話は別だ。わざわざ口に出していないものに返答をしてしまうとなると、恐らくリオ様自身はなんとも思わないとしても、ルール違反のような気になってしまう。でも本当に全部聞こえていた。中々反応に難しいところだった。


 目前の彼は口元をきゅっとつぐんで、八の字眉毛をしているだけだけれど、頭の中では、わああ、と叫んでいた。


(いや、これは恥ずかしい。本気じゃないんだ。俺は、ただちょっと思っただけで、ほんとに、ほんとに……嘘だ欲しい!)


「ご、ごめんなさい……」


 さすがに謝ってしまった。ルール違反のような気が、と思っていたのに、さすがに彼の混乱を見て見ぬ振りができなかった。全ては空気を読めない私のギフトが悪い。


 ばちん、と音が聞こえたと思ってびっくりしたら、リオ様がご自身のほっぺを思いっきり両手で叩いていた。彼の顔が真っ赤なのは、手のひらで叩いたからか、それとも違うのか。「エヴァさん!」 多分、後者だった。「で、できれば、なんだが……ッ!」 うう、と苦しげに顔をそむけながら、大きな拳を握って震わす彼に、はい、とコクコクと頷く。


「本当に、で、できれば、できればなんだが!」

「はい……」

「……俺はきみの、チョコが欲しい!」

「は、はい……!」


 私も瞳をぎゅむりとつむりながら頷いた。もうはいしか言えない。私達の間では駆け引きなんて無意味なのだ。二人で一緒に赤面した。でも、心の中も外も、ぱあっと花を散らしながら喜ぶ彼が可愛らしくて、どきどきして、美味しいものを作らないと嬉しくなってしまった。



 ***



「チョコは固めたものを溶かしてまた固めるだけ? ノン! そんな生易しいものじゃございませんわ!!」


 テンパリングでの温度調節の重要性をとくと教えて差し上げますわ! とオホホと声高くしゅぱしゅぱ腕を動かすシャルロッテさんに必死についていきながらも、なんとか自信作が出来上がった。ソルにもなにかをあげたかったけれど、さすがに犬にチョコは難しいし、彼の好物はお塩だ。これもちょっとどうかな、と思ったため、庭に新しい花の苗を植えた。もとは花屋の犬である彼だから、これ、なあに、素敵ね! と言いたげにくるくる回って、ふわふわの尻尾をはたはたと思いっきり左右に揺らしていた。


 もう少しシャルロッテさんみたいに手がこんだものがよかったんじゃ、でもこれが私にできる精一杯で全力だし、と不安になりながらも自分を奮い立たせるを繰り返して、可愛らしい箱にラッピングをした。結んだリボンがリオ様の瞳みたいにきらきらした緑色でなんだか嬉しくなってきた。


 そうしてそわそわしながらリオ様のご帰宅を待っていると、珍しいことにも彼はマルロ様とご一緒に玄関のドアを叩いた。


 彼とも時々顔を合わせるけれども、リオ様ときちんと向かい合うことができてからというものは、その回数もめっきり減った。以前は心配して顔を出してくれていたらしいけれど、今はそんなことはないらしい。僅かな恥ずかしさと一緒に、リオ様の周囲の方々の優しさばかりを感じてしまう。


「エヴァ夫人、お久しぶり!」


 マルロ様は片手をあげながらも、どうにも口元をにかにかさせていて、「いやあ、たまたま今日はリオに会ったわけだけどさ、こいつの緩み顔が見ていられなくてたまらずに、うっかりここまで来てしまったよ!」 リオ様のほっぺをにゅいんと引っ張っている。


 そしてタイミングが悪いのかいいのか、シャルロッテさんもその場に鉢合わせてしまった。抱えた可愛らしいバスケットの中には、知り合いへ配っているチョコレートが入っているらしい。かぶせたレースのハンカチが揺れている。


「あら……お久しぶりでございますわね」とこちらも挨拶をしながら眉間に皺を作るシャルロッテさんとマルロ様は、実とところ犬猿の仲である。どちらかと言うとシャルロッテさんがマルロさんを嫌っていて、マルロさんはそれに困惑している。けれども挨拶をしないという非礼は彼女の中ではなかったようで、つんと声を出しながらも、すぐさま顔をそむけて、バスケットの中から、私にチョコを一つくれた。


 一緒にチョコレートを作りながら、私の分も準備をしてくださっていることは知っていたけれど、実際いただくとなるとなんだか感慨深い。ありがとうございますと頭を下げて、私も準備をしていたものを渡した。「あら!」と口元に手を当てながらも、互いに笑い合った。やんわりとした空気の後ろでは、マルロ様がぼんやりしている。


「そうですわ、こちらはリオ様へ。お台所をお貸しいただいておりますから、ほんの気持ちです」


 勘違いなさらないでくださいませね、と私に一声をかけてくれいるシャルロッテさんの心情はもちろん伝わっているので、大丈夫ですと慌てて片手を振った。私に渡すのに、リオ様にはなにもないというところを気にされているようで、でも奥方の前でお渡しするのはと困っているようだ。私の反応に彼女はホッとしたあと、今度は苦虫を噛み潰したような顔でマルロ様を見上げる。


「まあ、丁度いいですわ。こちらはあなたへ。どうぞ、ご賞味あれ?」

「わあい、嬉しいな……」


 棒読みがすごい。


「わたくしの全身全霊をかけたチョコレートですのよ! ははん、いくら強力なギフトを持っていらっしゃろうともそう安々と――!」


 職人としてのプライドを持つ彼女である。以前マルロ様の心無い言葉をうっかり聞いてしまってから、隙を見つけては技力を磨き叩きつける。そしてその度にこてんぱんにされていた。この場でかじれとばかりに睨むシャルロッテさんの眼力に押され、マルロさんはそっと包み紙をとって、チョコをかじった。そして製法の端から端までを言い当てて、じゃんと両手を開いている。シャルロッテさんは怒りの悲鳴を上げていた。火花がぶつかり合っている。

 なぜ彼らはいつも戦い合うのだろうか……。


「そもそも、マルロが相手をしなきゃいい話なんだがな……」


 リオ様が静かに呟いた言葉に、そっと同意の頷きをした。

 片方はギフトの力なので、大人げないと言えば大人気ない。いや、シャルロッテさんは見かけはお嬢様でも、実際の年齢は異なるのだけど。

 実のところ彼らの感情を紐解いてみると、マルロ様もいがみ合いたいわけではないけれど、自身のギフトに嘘をつくこともできないのだ。不要と感じる力に、なんとも不思議なプライドを持ってしまう感覚はなんとなくわかる。


 けれどその関係を盗み見て言い当てるのもおかしは話なので、はは、と力なく笑った。そして本日もマルロ様が勝利を収めたというのに、八つ当たりのように罵られて疲れ切った顔で帰っていく青年を見送った。


 賑やかな時間は過ぎ、いつもよりも早く帰ってきてくださった彼に、温かな紅茶を入れた。お花の香りがふんわりと漂っている。


 少しばかり遅くなってしまったけれど、作っていたチョコをお茶請けとして取り出した。彼の目の前にことりといて、そのまま素知らぬ顔で隣のソファーに座り込む。照れくさくて、何も言うことができなかった。と、考えるのは私の都合だ。リオ様は、しっかりと言葉にしてくださった。だから私だって、きちんと言わなければいけない。


「あ、あの……」


 ごくん、とリオ様が唾を飲み込む音がする。ふるりと首を振って、「バレンタイン、です……」 私の旦那様への、と言葉を落としたところで、限界がやってきた。喉の奥がかっかとして、瞳を瞑って両手は膝の上でカチンコチンになってしまった。ゆっくりと瞳を開けると、数秒ののち、たくさんのお花が咲き乱れた。もちろん、本当に咲いているわけではなくて、リオ様の感情が伝わってくるのだ。周囲から、ぽこぽこと次々咲き乱れて、それに負けないくらいに嬉しそうに、彼はとろけるみたいに笑っている。


 どっちを食べるのを先にしよう、と考えた彼の言葉の、どっちとは、と疑問に思う前にわかってしまった。大きな彼の体が、ずっしりとこちらを見下ろしている。いつもはぱたついている彼の尻尾が、妙に落ち着いているように見えた。季節を巡るうちに、彼にだって余裕が生まれてきたのだ。


「ありがとう、すごく嬉しい」


 ホワイトデーが楽しみだと考える彼の言葉に、また新しいイベントが? と首を傾げたとき、くっついた唇はひどく慣れない。何度だってしているのに。


 大きな手のひらが、ゆっくりと私の頬をなでた。口元があんまりにも甘くて、心臓の音ばかりが体の中で響いている。彼とはくっつているから、とてもよく“声”も聞こえる。でもそれが心地よくてたまらない。


「大好きですよ」


 思わず呟いてしまった言葉は、彼の心の声に返事をしてしまったのだ。しまった、と思ったものの、リオ様は緑の瞳を大きく見開かせた。でもすぐに彼は口元を緩めた。そして、「俺の方が、もっとだ」


 あんまりにも温かい言葉ばかりで、指の先まで照れた彼の熱が伝わってくる。笑い合って、頬を寄せた。きっと、これから先もたくさんの時間と季節を、彼とともに過ごしていくのだろう。

 それはとても、とても。幸せなことだ。

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