最初のお話


 永く永く、一人きりで生きてきた。





 いつの頃からこうしているのかわからない。ただ地面に座り込んで、遠く空を見上げていた。ちりちりと囀る鳥の歌が聞こえる。いつもこの声をきいて、一日が過ぎたのだと気づく。随分長く足を動かさなかったものだから、すっかり苔が生えてしまって、動くことも億劫だ。けれどもどうせ動かないから丁度いい。かっちりと固くなってしまった体を瞳だけで見下ろした。今日も何も変わらない。



 一体いつからこんなところにいるのかもわからない。きっと覚えていても仕方がないから、忘れてしまったのだろう。生きていると、そう言ってもいいのかすらもわからない。おれは、おれが何者であるかどうかわからないのだ。ただ毎日鳥の歌をきいて、とまり木か何かと勘違いをしている小鳥達の数を数えて時を過ごした。


 なのにその日は違った。




 赤髪の女がいた。さくさくとこちらに歩を踏みしめてやってきたと思ったら、おれの姿に気がついたのか、わっと小さく悲鳴をあげた。抱えたカゴの中から、いくつかの薬草がこぼれ落ちた。一歩ひいたかと思えば、恐る恐る近づいてくる。おれの肩では鳥たちがちりちりと首を傾げていた。苔ばかりのこの体だが、瞳ばかりはよくよく動かしていたものだから、しっかりと女を見つめていた。女もそれに気づいていた。



「い、生きてるの……?」



 しかり。

 頷くことは面倒だったから、きょろりと瞳を動かして返事をした。ひゃあ、と女はまた跳ねた。



「ほ、ほんとに生きてるのね、やだ、うそ、でもこんな」



 何を考えているのか、困惑しているのか。さっさと逃げればいいものを、不思議なことにも彼女はぐるぐると周囲を回って、背中を向けたかと思えば、ちらりとこちらを振り返って、呟いたのだ。「もしかして、あなた……かみさま、なの?」





    ***






 その村には、古い古い言い伝えがあるらしい。

 何でも姿を変えることなく生き続ける、不思議なものがいるらしい、と。それは今もどこぞで眠っていて、人間たちを見下ろしている。そのものの怒りをかえば、大きな天罰が下るであろう。




 天罰など下した覚えなどないが、人間はおれを見ると誰もが血相を変えて逃げていくし、姿を変えることなく、いつまでも取り残されて生きているものと言えばおれのことだ。恐らく数えられないほど昔、足に苔がつくことなく動き回っていたその頃に、おれの姿を見かけた誰かが、そう伝え残したのだろう。そして、あの森には近づくなと言い残した。



 彼女はそんな言い伝えを理解していたものの、熱に苦しむ家族のために禁忌と呼ばれる森に足を踏み入れた。誰もが恐れて近づかないものだから、いくらでも薬草は生えていて、女は口元を押さえながらも、歓喜の声をあげていた。



「ねえ、かみさま。申し訳ないんだけど、この草、ほんの少しばかりわけてくれないかしら」



 そう懇願する女に、好きに持って帰れと伝えた。特に興味もなかったからなのだが、女はひどく喜んで、感謝の言葉を述べて消えていった。そうして、一生会うことはないのだろう、と思った。人間はすぐ消えてしまうのだから。なのに女はすぐにやってきて、「妹の熱が下がったの、ありがとう」と頭を下げた。



 それからと言うもの、女はときおりおれの元へとやってきた。きゃあきゃあと楽しげに村のことを話して、切り株に座って足を振った。おれはただ話をきいた。動く気すらもなかったから、ただ瞳をきょろつかせるだけだったのだが、「ねえかみさま、ここって夜はさむくない? 大丈夫? おなかも空いていない?」と余計なことばかりを心配して、おれにしてみれば小さすぎるひざ掛けを置いていくものだから、ひどく困った。



 こうして、鳥の歌声よりも騒がしく、一日が過ぎていくことを教えてくれるものが増えた。女の名はスカーレット。燃えるような髪の色をしていたから、赤い色の名前なのだとおれに語った。本人はひどく不服そうだったが、似合いの名だと感じた。かみさまの名前はなあに、とスカーレットは尋ねたが、答えなかった。



 スカーレットに親はいない。ただ小さな兄弟達がたくさんいた。だからおれのもとに来るのは幾日か日が沈んで、昇ってを繰り返したあとで、いたとしてもほんの少しのひとときだ。いつもボロボロの手をしていて、頬も真っ赤に日に焼けていて、学も足らない女だったが、笑顔を絶やさない女だった。弟や妹たちの話をして、大口をあけて笑うものだから、気づけばひどく騒がしくなっていた。





 奇妙な感覚だった。


 スカーレットを待つ間、鳥や、動物たちの姿を目で追って、時折空を眺めた。まだ青い。早く赤くなればいいのに。そう考えているのもつかの間、いつもよりも長くスカーレットが来ることがないと思えば、彼女はその頭に似合わず、真っ青な顔をしておれの前に駆け込んだ。「かみさま、もう一度だけでいいから、薬草をわけてくれないかしら」 そう早口で告げた。



 今度は隣人が体調を崩してしまったらしい。草はいくらでもあったし、もともとおれのものではない。好きにしろと瞳をむけると、スカーレットはほっと息をついて、カゴ一杯に草をつんで消えていった。それを何度も繰り返した。



 薬草は根こそぎ村人に使われた。そうして、最後に彼女がやってきたときには、何もなくなってしまったのだ。スカーレットは息を押し殺して泣いた。村に流行り病が襲ったのだ。過去には彼女の両親も奪った病だった。次から次に熱を出して、彼女以外は倒れ込み、動くことすらもままならない。



 スカーレットには、おれがこっそりと力を分け与えていたのだ。なぜ自分だけ、と彼女は嗚咽を繰り返した。スカーレットが、どうしてそんなに悲しむのかわからなかった。いや、悲しんでいると気づいた自身に驚いた。人間とはおれよりも弱い。見かけも心もすぐに変化して、簡単に死んでしまう。そんなものたちと関わることも面倒で、億劫だった。なので森の中に引きこもった。



 なぜなら、彼らはおれの爪が少し触れた程度で、傷を負ってしまう。おれの姿を見て、恐れて逃げてしまう。恐れて、怖がって、恐怖して、それをごまかそうと勝手に崇めて、近寄るまいとする勝手な生き物なのに。



 げらげら笑うスカーレットの声が懐かしかった。久しく、足を動かした。きっと動かし方も忘れてしまった。そう思っていたのに、おれはおれの体を忘れてはいなかった。鱗ばかりのこの体を懐かしく見下ろして、とてもゆっくりと、彼女に近づいた。



「かみさま……?」



 涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔を、ぬぐってやりたかったが、それもできない。うまく触ってやれる自信もない。こんな醜い姿を見て、神であると信じる女が不思議だった。出した声はしわがれていた。



『死なないようにしてやろうか』



 スカーレットが泣いているのは、死の恐怖なのだと思ったのだ。誰しもが倒れて、消えていく。おれがこっそりと、彼女に力をやっていることをスカーレットは知らないから、きっと恐怖しているのだと。死なない体にしてやろうかと、そう告げたつもりだった。スカーレットは、大きく瞳を見開いた。「かみさま、助けてくれるの!?」 歓喜の声だと気づいた。だから、さらに力を分け与えた。おれが持つ全てを与えた。これでもう彼女が死ぬことはない。老いることもない。そう考えるとホッとした。



 僅かに光る自身の手のひらを、不思議そうにスカーレットは見つめていた。「とても、あったかい」 彼女は小さく息をついた。ああよかった。そう思ったのだ。「それじゃあ、すぐに村のみんなにもあげてくるね」 なのに彼女は笑った。くしゃくしゃの顔を必死で汚れた服の袖でこすったからさらに汚して、ぴかぴかした、太陽みたいな顔で笑った。何を言われているのかわからなかった。



 確かに力を分けることはできるが、そうするとどんどん薄まってしまう。そう必死で説明すると、スカーレットはひどく不思議そうな顔をした。それから、「病気が治らなくなってしまうの?」と悲しげに呟いた。たかが人の病程度なら問題がないことを告げると、それならよかった、とすぐさま彼女は村に向かった。そうして多くの人々に力を分け与えた。力はどんどん枝葉のように別れていったから、彼女はただの人に戻り、いつもの通りに、おれのもとにやってきた。



「みんな病気が治ったよ。ありがとう。暖かくなれば、病になることもないから、もう少し待ってから、かみさまに力をお返しするからね」



 なんてこともないように言うから、ため息が出た。そんなことをするのも久しぶりだった。おれにも持て余していた力だ。返さなくてもいいから、好きに使えとそっぽを向いた。人は弱いのだろうと。その力があれば、もう少しばかり長く生きることができる。欲しければいくらでも水を湧かせることができるし、飢えることもなくなる。あまりにも簡単に死ぬ人間に、嫌気がさしているのだと説明すると、スカーレットは困って、眉を寄せた。



「わかったよ、でもやっぱり、ちょっとの間借りるだけだよ。これはかみさまのものなんだから。きちんと、大丈夫だと思ったら、ゆっくりとあなたに返していくからね」





 ***







 小さな家の中で、長い影が伸びていた。テーブルの上にはランプが一つ。燃える石をつめたランプだ。ローブを羽織った男がなんてこともない木の椅子に腰掛けて、「ふうん」と頷いた。その正面にも椅子が一つ。「そんなことがあったのか」 まるで話しているように男は頷いたが、向かいの椅子には誰もいない。ただ不思議なことにも、影がばかりがゆらゆらと揺れていた。そうして姿がないくせに、しわがれた声ばかりが響いていた。声は続けた。


『おれのもとに、少しずつ力が戻ってきている』



 彼がスカーレットに与えた力は、それからさらに薄まった。それらは多くの人間たちに分け与えられ、様々な形に変様し、長い年月が経つうちに、ギフトと呼ばれるようになった。ただの人であるスカーレットはとっくの昔に消えてしまったが、国ができた。長い、長い時間をかけて、人々の暮らしは豊かになった。人はギフトに頼らずとも、少しずつ、自身の足で歩くことができるようになった。


 大丈夫だと思ったら、少しずつ返していくとスカーレットが彼に約束したように、ギフトを持たないものさえも増えた。それが、どうにも彼には我慢がならなかった。



 どうせ簡単に死んでしまうものたちなのだ。よちよちといつまでも四つん這いで歩けばいいものを。自分の姿さえも、もうはっきりと思い出すことはできないくらいに長い時間、彼らの歩みを見つめてきた。そうして、強いギフトを持つものに惹かれた。それは、もとは彼の力であったからだ。



 今生で、一番の力を持つこのローブの男は、様々なものを発明した。そのおかげで、人々は豊かになったものの、それに反比例するように、生まれる子供たちからギフトは薄まり、持たないものすらも増えていく。



「つまり俺の発明が、ギフトを消す要因になっていたわけか。血の交わりで薄くなっていっているものだとばかりと思っていたが、たしかにそれだけでは説明ができないとも考えてもいたんだ」



 皮肉に笑った。ギフトを持たないものを、悪魔の子と呼ばれ恐れられたのはすでに過去だが、彼も勘違いから親に捨てられた子供の一人だった。『確かに、血の交わりも、理由の一つだろう。ただ、おおもとは違う。気の毒だと思わないか。ギフトを持てば、苦労もなく生きていくことができる。そのまま、変化もなく、ゆっくりと生きていけばいいと、そうおれは思うのだ』 ゆらゆらと影が揺れた。気づけばそれは猫の姿になっていた。そう思えば鳥となって、大人に見えるときもあれば、小さな子どもにも見える。姿が定まらないほどに、彼は長く生きすぎた。


「気の毒だって? さっききいた話よりも、随分人らしくなったものだな」



 発明家は笑った。そんな彼の姿を見て、“かみさま”は僅かばかりに気分を害したようで、猫の姿のまま毛を逆立てた。「いや、馬鹿にしているわけじゃないんだ。それだけ俺たちを見守ってきたということだろう」 けどな、と発明家は言葉を続けた。



「悪いがあんたの提案には乗れないな。確かにギフトは便利だ。俺が様々なものを生み出すことができるのは、発明のギフトがあってこそだ。否定はできない。けどな、あいつは喜んだんだ」



 首を傾げた“かみさま”を見て、発明家は苦笑した。



「俺が発見した、いや、発明した温かい石を、あいつは飛び上がって喜んだ。これさえあれば、誰もが平等に、暖かく冬を越えることができると」



 彼が、そう言って喜んだ姿は覚えているのに、もう顔さえも覚えていないのだが。「……ギフトとは、呪いだ。力があれば、当たり前にくっついてくるものがある。裏と、表なんだ。あいつは、きっと人よりも悩んだ。でも、その力がなければきっとただの凡庸な男として終わっていただろうと思うし、そもそも生き残ってもいないのかもしれない」



 独り言のような言葉だった。けれどもそれは、彼がふとしたときに考えるものでもあった。



「あいつは、この国を幸せにしたいと言った。その想いを、俺は引き継ぐ。そう決めている。あんたの言う通りに、ギフトを持っていることで、苦労もなく、幸せに生きていくものもいるだろうよ。でも、苦しむものもいるだろう。それに……」



 ギフトを犯罪のため使用するものさえいる、という言葉は、さすがに飲み込んだ。



「だからって、ギフトをなくせばいいと言いたいわけでもない。強いギフトも、弱いギフトも、ギフトがあっても、なくても。それを含めて、俺たちだ。自分たちで選んで、みんな生きている。確かに、俺の発明で、少しばかり独り立ちの時間が早まったかもしれない。でも、それはいつかはやってくることだ」



 いつまでも、親に甘えているわけにはいかないだろう、と苦笑した発明家に、納得がいかないように唸り続ける猫を見下ろして、「ああ、そうか、なるほど」 彼はすこしばかりニヤついた。「かみさま、あんた、寂しいんだろう」



 スカーレットと色の名がついた少女は、人よりもゆっくりとだが、老いて死んだ。さようなら、ありがとうと最後まで女は笑ったが、かみさまは息ができないほどに泣いた。なぜ彼女が、他の人と同じように彼を恐れなかったのかはわからなかったが、村の言い伝えとしてのかみさまを純粋に信じたのか、それともただ無謀なだけの女だったのかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。スカーレットが消えてしまったことが苦しかった。悲しみで一緒に死んでしまうかと思った。でも当たり前にも死ねなかった。彼はいつの間にか、本当にかみさまになっていたからだ。

 そうして今度は彼女の子供に、孫に、彼女の姿を探した。




 発明家の言葉に、猫は苛立った。そうして話にならないと家から飛び出してしまおうとしたとき、「まあ、待った待った」と声をかけられた。「幸せな国にしたいって言ったろ。だからな、かみさま」 ランプが一つある程度の、埃だらけで真っ暗な家だというのに、奇妙に明るく、彼の表情はよく見えた。楽しげに笑っていた。



「俺が、あんたを幸せにしてやろう。なあに、これでも稀代の発明家だ。あんたを寂しがらせないような発明品の一つや二つ、簡単に作ってやろう。もちろん、嫌ってんならどこぞに消えてくれてもいいが、ここは一つ、自分の子供を信じてみないか?」








 いくらかの年月がたったとき、発明家はとある祭りを知った。年が越えるそのときに、白い息を吐き出しながら幾人もの人間が車座になって楽しくおしゃべりをする。様々な想いを忘れないように、そう祈って。その姿があんまりにも寒そうで、楽しそうで、せっかくの機会だと温かい石を与えてやると、彼らにひどく喜ばれた。発明家の隣には一匹の猫がいた。尻尾が長くて、態度のでかいその猫を街の人間たちは不思議に見つめたが、それ以上は気にも止めなかった。



 そうして、この祭りの名がまだ決まっていないのだと発明家に相談した。そうだなあ、と彼は癖のように顎をひっかき、「ヴァシュラン、なんてどうだ?」と、提案した。そのとき、猫の尻尾が膨れ上がった。



 名字にお菓子の名前をつけることは、ずっと昔に王様が禁止した。だから彼らはほんの少しひねった名字にするようになった。けれども名前や、ものは相変わらず甘いものが溢れたその街だったので、ふむ、と頷いた彼らは「候補の一つにしてみましょう」と右手を出した。代わりに発明家は深くシワが刻まれた手を出した。




 かみさまに、名前はなかった。なぜならずっとかみさまだったからだ。だからスカーレットに尋ねられたとき、答えることができなかった。名がないと不便だという発明家に、仕方ないなと名付けの権利を与えてやった。甘ったるい、菓子の名前だったが、響きがよかったので納得したが、いつの間にか、そのかみさまの名前で、毎年賑やかな祭りが開催されるようになってしまった。騒々しいことこの上なかった。






 発明家はもういない。


 人とは、彼がひとつ、ふたつ瞬く間に消えていく。発明家は、彼にいくつかの発明と、名前を残して消えてしまった。発明家と暮らしているうちに、彼は、自身がスカーレットと出会うそれよりもずっと以前は、よく空を飛んでいたことを思い出した。あの醜い体は、どんなものだったかすっかり忘れてしまったが、人よりもずっと大きくて、鱗だらけで、背中には立派な翼があったような気がする。そう発明家に言ったところ、『おとぎ話のようだな』となぜだか笑っていた。



 ずっと昔、自分は空を飛ぶことが好きだった。だから今も彼は空を飛んで、街を見下ろしている。ときおり仲間だと勘違いをしたのか、似たような鳩たちが寄ってくるが、まああまり気にしないことにしている。



 一人の少女がいた。スカーレットとはまったく似ていないし、どちらかと言えば気の弱そうな顔をしているのに妙に気になったのは、スカーレットと同じようなカゴを片手に抱えているからだろう。小さくてまんまるな白い犬にひっぱられて何かを叫んで困っていた。それから犬を止めることに成功したのか、ゆっくりと散歩をしていた。小高い丘に辿り着いて、ぼんやりと何かを見ていると、ひとつ、ふたつ、涙をこぼした。まるで彼女にしか見えていない、何かを見ているようだった。



 彼が瞬くと、いっぺんに景色が変わってしまった。青々とした木々は茜の色になり、ほたほたと雪が降った。そうしてまた春がきた。少女の隣にはひどく背の高い男がいて、彼女を気遣うように隣を歩いている。もう少女ではない彼女は腹が邪魔をして、歩きづらいのかもしれない。足元に躓いて、血相を変えた男に抱きとめられてたと思えば、小さな何かが増えていた。その何かは柔らかそうで、ふにふにしていて、抱き抱えられていたはずなのに、今度は二本の足を元気に動かしながら彼らの真ん中で手のひらを繋いで歌っている。そうして、どんどん大きくなる。








 ――――自分がしたことは、意味のないことだったのだろうか、とヴァシュランは発明家に問いかけたことがある。ただ一人の少女に、隣にいてほしかっただけだった。なのに彼女は満足そうに老いて、彼を残して消えてしまった。意味もなく、人々を翻弄しただけだったのではないかと。



 そう呟く彼に、何をいっているんだ、と発明家は呆れて、猫であった彼の耳をひっぱった。いいか、その耳、かっぽじって聞け。お前がいたから、こうして人は発展した。お前がいなけりゃ、悩みもしなかっただろうが、そもそも最初にみんな死んでしまって、誰も生まれてもこなかったんだ。





 あの子供もそうなのだろうか。そう考えると、不思議と、温かな気持ちになった。今は鳥である彼は、涙などこぼれないはずなのに、どうにも嬉しく、はたはたと翼を動かした。

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