エピローグ
見上げれば、ひどく優雅に幾羽もの鳥が空を飛んでいる。青々とした空は雲ひとつなくて、周囲では子どもたちが楽しげに遊んでいた。ぴちゃぴちゃと涼しげな噴水の音が聞こえる。足元では、先程まで水遊びに乗じていたソルが、ぷるぷる体を振ってくしゃん、と一つくしゃみをした。
持っていたカゴの中からタオルを出して体を拭いてやると、嬉しげに舌を出したものだから、私も思わず笑ってしまう。気がついたら、10ヶ月なんてとっくの昔に過ぎていた。
外に出る覚悟なんてもういらない。そんな暇もないくらい、散歩をしよう、と白い綿毛のような体をもふもふとさせて、ソルがこちらを引っ張っていく毎日だ。「変わったなあ……」 周囲はなんにも変わらない。なのに、私は勝手に呟いていた。こんな日々が来るだなんて、離れの屋敷に引っ込んでいたときは、思いもよらなかったことだ。作ったクッキーをカゴにつめて、散歩をして、お行儀悪く外でかじる。それが楽しい。
目の前には小高い丘だ。いつもよりも、少しばかり遠くに行ってみよう、と足を伸ばした。暖かい日差しが頬を撫でることが幸せで、バスケットの中からすっかり移ってしまったオレンジの香りが、ふと鼻先をくすぐった。そのときだ。
『ああ、おいしいなあ』
跳ね上がった。ぽりぽり、とクッキーのかじる音がすぐ耳元で聞こえたから、思わず自分のカゴを確認した。でもクッキーの枚数が減っているわけでもなく、首を傾げた。すると、中肉中背の、どこか古めかしい服を着た青年が、丘の上の木にもたれかかりながら、ぼりぼりと美味しそうにお菓子を味わっている。距離が遠いはずなのに、ひどくしっかりと聞こえる声をきいて、ああなるほど、と頷いた。彼はとっくに、この場所にはいない人なのだろう。
『やっぱりお菓子はいいな。食べるとすぐになくなって消えてしまうくせに、甘い味は口の中に残っているんだ。幸せだよ』
そっと近づいてみると、どうにも覚えづらい顔をしていた。これといった特徴がないのだ。どんな顔、と言えばいいのかわからない。あえて言うのであれば、リオ様よりも、少し若いくらいの青年だろうか。ソルがくんくんと鼻をひくつかせて、私を見上げている。大丈夫、と少しかがんで背中を撫でた。これは、誰かが残した想いだ。
ずっと忘れていたことだけれど、子供の頃の私のギフトは、もっと強いものだった。人の考え以外にも、強い想いにも敏感で、ジョンを切り裂いたナイフが屋敷に送られて、指に触れたその瞬間、やってきたそのあまりの衝撃に恐怖して、全てを忘れようと努めていた。シャルロッテさんは、ギフトをより練度を重ねたと言っていたが、つまり私はその反対のことをしてのけていたのだ。それならば、努力すれば、よりギフトを鈍くさせることができるのではないだろうか、と日々練習をしているものの、中々難しいのが現状だった。
とにかくあれから、誰かが残した強い想いを時折感じるようになった。とは言っても、そこまで頻繁な話でもないのだけれど。
『それにしたって、随分イケメンに作り過ぎだよ!』
こう叫んでいる彼は、きっと誰かが残した想いなのだろう。
クッキーを片手に叫んでいる青年の目の前は、あの“おかしな王様”の像だ。精悍で、立派な体つきをした像なのだが、どうにも彼には不満があるらしい。『いくら俺の顔を覚えられないからって、あれはないだろう、やりすぎだ!!』 むっきい! と叫んだ彼の言葉を聞いて、しばらく時間が止まった。俺の顔。つまり、つまりこれは。
「お、おかしな王様……?」
ご本人様? と向こうからわからないと思っているから、まじまじと見てしまう。それにしたって、像とは随分顔が違う。いや、そもそも顔が覚えられない、とは一体。
――――彼はとってもシャイで恥ずかしがりやで、誰にも顔を見せなかった。だから、その日はみんなで王様のマネをする。仮面やら、帽子やらで顔を隠して、誰でもないふりをする。
ヴァシュランマーチの説明をマルロ様がしてくださったときに、そう彼は言っていた。恥ずかしがり屋、という割には立派な像があるのだな、と思ったけれど、一体、どういうこと? と考えてみた。特徴がなさすぎる顔に、人々に愛されているくせに、名前すらも覚えられていない。分かっている名前は、おかしな王様、とだけ。そうして、顔が覚えられない、とは。考えて、あっ、と理解した。つまり王様は。
「人に覚えてもらえない、そんなギフトを持っていたの?」
そんな強いギフトなんてあるんだろうか。いや、彼は私が生まれる、ずっとずっと昔の王様だ。昔は今よりも、ずっと強力なギフトがあったというじゃないか。ポリポリとやけ食いのようにクッキーを食べ続けている彼は、まるで“お菓子な王様”だ。彼はひどく革命的な政治を行ったときく。貴族だけではなく、平民にも目を向けて、様々な改革を行った。なのに結婚だけは不思議とおせっかいで、10ヶ月の法律だとか、婚姻届を恐ろしい量にしてしまった。
そんな彼の奇妙なおせっかいの理由が、わかったような気がした。どんな偉業を残しても、誰からも覚えられることがない。人と人とのつながりを、彼だけは持つことができない。だから、うらやましくて、悲しくて、それでもみんなが愛しくて。
口先では文句を言いながらも、彼の嬉しさが伝わってくる。どれだけ顔を覚えることができなくても、王様の像を作りたいと、そう言う彼らの気持ちが嬉しかった。涙が零れそうになった。人と人との繋がりは曖昧で、すぐになくなってしまうものだと彼はとてもよく知っていて、それをどうにか大切にしようと、ずっと考えて、泣きながらクッキーを食べて、気づいたら顔もぐしゃぐしゃになっていた。でも涙と鼻水に濡れたそんな顔だって、誰にも気づいてもらえなかった。
そんな彼の声をきいて、私も自然と涙がこぼれた。名前も顔も、何も伝わっていないけど、それでも彼の子どもたちは、彼を愛した。顔を隠して、年に一度は王様のことを忘れないようにとみんなで手を繋いで年を越すのだ。伝えるすべもないけれど、ずっと未来のこの先のことを、彼に教えてあげたかった。
――――おせっかいだって、知ってるけど
もう王様の姿は見えない。けれども声だけが聞こえてくる。
――――人の絆は、とっても壊れやすいものだから
だから、どうか大切に。いつかお菓子のような、俺になれますようにと。呟いた声がきこえた。
消えてしまった彼の代わりに、とても立派な像があった。相変わらず精悍な顔つきで、どこか遠くを指差している。
「あなたが、10ヶ月の法律なんて、作ってくれたおかげなんですよ」
なんて、言っても伝わるわけもないけれど。もしそれがなければ、私はリオ様と結婚することはなかったかもしれないし、もしくはすぐに別れてしまっていたかもしれない。本当におせっかいで、立派すぎる王様だ。
とても、とてもリオ様に会いたくなった。最近彼は、前以上に気持ちを声に出すようになって、互いに照れて仕方ないけれど。それからとっくに済ました初夜を思い出して、また一人で赤くなった。ぺちん、と勢いよく頬を叩く。
「ソル、帰ろっか!」
「わふっ!」
オレンジがなっている、あの可愛らしい茶色い屋根のお家へと。たくさんのきらきら星をかきわけて。
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