第36話

 フェナンシェットの男たちは、バナナの皮でよく滑る。それはあの、勤勉で真面目なしっかり者の三男でさえそうなのだ。


 父と兄は、これまたよく滑り、それどころか滑走する。屋敷の部屋の端から端まで、一体どこまで滑ることができるのか。甥っ子達が興奮し、固唾を飲んで見守ったものだ。



 その代わりと言ってはいいものかわからないが、彼らはひどく、“鼻が利く”。いや、人を見る目がある、と言ってもいいのかもしれない。ただし普段が普段で、滑って転んで、自分どころか周囲にまで被害を出す上に、彼らのお人好しは過ぎるものだから、すっかり忘れられがちなことなのだが。――――記憶に新しいのは、クグロフ兄上の結婚だった。彼が選んだ女性に、周囲はそれはもう反対した。相手は貴族とは名ばかりの、ほぼほぼ平民のような家柄の女性だったのだ。



 ただでさえ貧乏なこの家が、さらに貧乏になってしまうと親戚そろって大騒動をしたものの、兄上は曲がらなかった。そうして、父上も彼を許した。こうしてどうなることかと思われた輿入れではあったのだが、トルテ義姉上はよく働き評判もよく、今となっては以前の騒ぎなど誰しも忘れて、それこそよく来てくれたものだ、とクグロフ兄上本人よりも重宝されている始末だ。



 そんな彼女を見て、兄上は悔しがるでもなく、ただ喜んだ。『ほら、俺の勘はよく当たるだろう』と、鼻の下をこすっていたわけなのだが、彼は長くトルテ義姉上に恋煩いをしていたらしく、フェナンシェットにとって禁断とも言える酒の力を借り、強行したというのが真相なわけなのだが。



 とにかく、彼ら二人はお人好しとおっちょこちょいの皮が邪魔をして忘れられがちなのだが、とにかくまあ、“人を見る目がある”のだ。


 投資先が、今すぐに支払わなければ破産寸前なのだと泣きついた、俺はよくある手法だとため息をついたそれは、文字通りのその通りで、彼らはひどく感謝されたらしい。そうして、恩に報いようと、必死で山を堀り数ヶ月。山のような、燃え上がるような石がざくざくとこぼれだした。まだまだ金持ちと言うには程遠いが、少なくともエヴァさんの持参金は、すっかりきっちり元通りになるほど程度には。



 出てきた石は炎色石だ。冬は間違いなく必需品だし、それ以外にも使いみちはたんまりある。それこそ、祭りにもかかせないほどだ。兄上からの話をきいて、なんとも言えないため息が出た。崩れ落ちた、と言えばいいのかもしれない。俺に報告を重ねて踊り狂っている兄上だけでは、どうにも信用ができなかったのだが、その後ろには三男のランダンがすっかり目の下に隈をこさえて、ぺこりと頭を下げている姿を見たときは、現実なのだと理解した。



 それからあまりの騒ぎに、恐る恐る顔を出したエヴァさんが、兄上の姿にびくつき、そのエヴァさんをかばうように、小さなソルに体当たりをされ、仰向けに倒れたときは呆然としたあとに、慌ててその手をひっぱった。










 こんな日が、来ることになるとは思わなかった。



 首元がどうにも窮屈なような気がして、ちょいちょいとネクタイをいじくる。これでいいのだろうか、と確認をしたいものの、駄目ですと言われたところで仕方がない。俺の体がでかすぎたから、すっかり特注品になってしまったのだから。部屋の中には椅子が二つ。今は彼女を待っている。そわそわとも体を揺すった。騎士団で初めての遠征のときだって、こんなに緊張はしなかった。膝をとんとんと指先で叩いて時間を計る。



 ガチャリと開いた扉に期待のあまりに立ち上がると、やって来た相手は想像よりもいかつい口ひげだった。強面、と言ってもいいのかもしれない。



「か、カルトロール伯爵」



 ――――いや、お義父さん、と呼んだほうがいいのか?



 今回のことでエヴァさんを含めての会食なら行ったことはあるが、二人きりとなるとほとんど初めてのようなものだ。こちらの方がずっと背が高いはずなのに、妙な威圧感に一歩足が下がってしまう。なぜ、と感じる前に、当たり前かもしれない。なぜなら、彼の“娘の結婚式”だ。花婿の尻の一つでも叩きたくなったのかもしれない。エヴァさんには苦労をかけた。一発二発、殴られるべきに違いない。



 そっと頬を差し出すつもりで頭を下げた。けれどもいつまで経っても、何があるわけでもない。



「久しいな、小僧。しかし、想像よりもでかくなったものだな」



 頭を上げて、首をかしげた。カルトロール伯爵は、どこか面白げに口の端をあげて、茶色いステッキで床を叩いた。「まさか、忘れたのか?」「え、いえ、まさか」 久しい、とはこの間の会食のことではないだろう。それよりもずっと昔、俺が騎士団に入る前のことだ。カルトロールの屋敷には幼い頃に一度訪れたことがある。




 フェナンシェットの男は、必ず一度は酒で暴走すると言われている。兄上はトルテ義姉上へのプロポーズを。そして父上はこれまた過去に、山のような借金をこさえた。詐欺のような話に騙されたのだ。冷静になればよかったものの、どうしても断れなかったワインの一杯で、思考は踊って、ついでに舞って、恐ろしいほどに騙された。そのときは本家であるカルトロール伯爵家に泣きついた。そうして一度きりの援助を取り付け、なんとか返済できたのは記憶にも新しい。



 まだ俺は子供だったが、家族総出で憐れを演出してやろうとばかりに乗り出したとき、歩くことを覚えたばかりの四男のシューケルが気づけばすっかり消えていたのだ。まさかの幼すぎる冒険に、俺は慌てて弟を探した。そんなとき、はたりと伯爵と遭遇した。特徴的な口ひげを見て、すぐにそれが誰かわかった。なので挨拶をすべきと頭を下げたものの、周囲を見回して首を振って、顔を青くしてと忙しくする様を見て、伯爵は不憫にだか、情けなく思ったのか、こちらの事情を尋ねた。



 弟を探しています、という俺の言葉を聞いて、すぐさま伯爵は側仕えにそのことを告げて、まあすぐに見つかるだろう、となんてこともない口調で相変わらずのステッキで地面を叩きながら、ただの時間つぶしとばかりに、俺達は僅かばかりの会話をした。そのとき、自身も名乗った。



 その一度きりの出来事を、まさか伯爵が覚えているとは。




「あのときは、随分と気が多い小僧だと思ったものだ。弟を探して、こちらを気にして。家族の今後も心配してとな」


「そ、その節は……」



 昔から心配事があると気になって仕方がないのだ。さぞ集中力のない子供だと思ったのかもしれない。気づけば、伯爵とは、今後俺たち家族はどうするべきか、という話になっていた。賢くもない頭をひねっていたときに、すでにそこいらの子供よりもでかい図体をしていた俺に、「騎士になってはどうか」と告げた。「人には向き不向きがある。お前のように気がそぞろなやつが、がむしゃらにクワを振るったところで何にもならん。それならば、金を稼いで自立の一つでもしてみなさい」



 カルトロールの分家と言えば、試験の一つくらいはしてくれるだろう。あとはお前次第だと。



 伯爵からすれば、冗談の一つのような言葉だったのかもしれないが、そのとき、何かがひらめいたような気分になった。それから飛び込むように王都の門を叩いて乞いてみれば、クワをうまく振るうことができるギフトだと思っていた力は、恥ずかしいことにもただの勘違いで、人よりもうまく剣を振るうことができる力だった。幸運なギフトの持ち主として、多くの人間に絡まれた。なじられもした。けれどもがむしゃらになっているうちに、一人で立って生きていく程度には強くなれた。



(いや、今は、二人、いや二人と一匹でか)



 思わず自分の考えに苦笑をしていたところ、伯爵のため息に我に返った。そんな悠長に過去を思い出している場合ではない。息苦しいのは、首元の襟が締まりすぎているせいではないだろう。



「あのときの小僧が、ちゃっかり王都で働いていると聞いたときは驚いた。その上、こちらの提案を、まさか素直に行動した、ということを知って、さらにだがな」



 昔からお前達フェナンシェット家は、マヌケな行いをしなければ実直な人間だということは知っている、とつぶやかれた声に、褒められているのか、それとも分家として情けなく思われているのか分からず、頭をひっかいた。定期的にマヌケなことをする一族で申し訳がない。



「だからこそ、エヴァの婿に頭をひねらせていたとき、お前のことを一番に思い浮かんだ」


「は、はあ……?」



 なぜ、カルトロールのご令嬢が、わざわざ俺に? と思っていた疑問の一つだ。先程の言葉では、どうにも答えに結びつかない。年頃の子供がいるとは思えないほど、活力に溢れる姿で、伯爵はニヤリと笑った。



「エヴァはどうにも、“わかりすぎる”ようだからな。お前のような気がそぞろなやつのほうが、どうにも一緒にいやすいようだ。ただの馬鹿に、娘をやるわけにもいかんだろう?」




 息を飲んだ。


 エヴァさんは、自身のギフトを、誰にも告げたことがないと言っていた。そのことを、まさか伯爵は。



「エヴァはわかり易すぎる。確証はない。それに大して興味もない。だからこそ、あえてギフトについて“考えたこと”はない」



 エヴァさんは、自分のギフトで、人の様々な考えを理解することができるけれども、それはあくまでも表層のことだと言っていた。その人の奥に隠れている気持ちやら、すべてのことを理解できるわけではないし、ある程度の距離があると、聞こえなくなってしまう。それに人によっても変わってくるとも。だからこそ、伯爵がエヴァさんの力を認識していることを知らなかったのだろうか。




「あの、しかし伯爵、それならば……」



 実のところを言うと、カルトロール伯爵が、エヴァさんの力を知らなくてよかったと、俺は安心していた節があったのだ。なぜならば、社交界と言えば考えの探り合い、腹の読み合いのような場所で、笑いながらも口先を武器に、ワインを片手に戦う、いわば戦場のような場所だ。そんな場所ならば、エヴァさんのギフトは、さぞかし力強い武器になる。だから本来なら、俺なんかよりも、もっとカルトロール家にとって有意義な縁談があったはずだ。



 ただし、彼女の実の父親にこんな言葉を言うには躊躇われた。そんな俺の考えすらも全て見通しているらしく、伯爵は大声で笑った。伯爵こそが、エヴァさんのようなギフトを持っているのではないか、と疑ったとき、「私はギフトになど興味はない。なぜなら私は、ギフトを持ってなどいないからだ。そんなことは興味がないし、信用もしていない」



 ぽかん、と口をあけてしまった。





「ぎ、ギフトを信用していないって」


「お前たちのように技能を持っている人間には理解のできない感情だろうがな」



 基本的に、貴族であれば、そして爵位が高くなるほどにギフトを保有していることが多い。だからこそ、国はギフトを中心に回っているわけだが、例外というものはある。家族であっても、お互いのギフトを知らないことは多いから、エヴァさんが知らないことも無理はないのかもしれない。しかし、それでも。



 ぱくぱく、と口を開けても、驚きのあまり声が出ない。そんな俺を見て、ひどく楽しげに伯爵は笑った。ついでに手を伸ばして、ぽんと俺の肩を叩いて、「娘をよろしく頼む」 その一言だけ告げて消えていく。つまり、つまりはだ。



 次に扉が開いたときには、すっかり緊張は消えていた。可愛らしい彼女の長いドレスの裾を、侍女達が引っ張っている。ちなみにソルは暴れないようにと使用人に確保され、お気に入りのボールをぷきゅぷきゅと口元で鳴らしていた。




「り、リオ様? 先程お父様が」


「ああ、いらっしゃったよ」



 去っていく彼の背中を見たのだろうか。そのとき俺は伯爵の目的は理解した。一体何の用があったんでしょうか、と首を傾げていた彼女も、俺の考えをきいて、ピンクの頬が、さらに赤くなった。ぺち、と自分の頬を叩く様を見て、新婦が照れているのだろう、と周囲では柔らかな笑みが起こったが、実のところは少し違う。(照れ隠しにも、ほどがあるだろう) 彼は、娘の力を正しく理解している。つまり、先程のセリフが、間違いなく、彼女の元に届くことも知っている。




「……きみは、随分伯爵様に可愛がられていたんだね」



 こっそりと呟くと、彼女は困ったように、口元を尖らせて、なんとも言えない顔つきをしていた。困惑しているのだろう。一筋縄ではいかない、とはこのことだ。「次から、どんな顔をしてお父様に会えばいいんですか?」「普通に、笑ってだよ。きっと隠さず祝ってくださる」 それは口では言わず、頭の中だけかもしれないが。



(それにしたって、今日の君もかわいいな)


「エヴァさん、君は何を着てもかわいいな」



 隠さず伝える、ということを意識しているわけではないが、そのまま思ったことを伝えてみた。ドレスは伯爵から贈られたものだ。メイドたちは空気を読んだのか、そっと姿を消してくれた。窓辺からきらきら光る彼女の純白な姿がひどく眩しくて勝手に片手でつまんでしまった。隠さなくていいとは、これまた素晴らしいことだ。眉間に皺を寄せるのは、とっくの昔に疲れてしまったし、なんにしろ俺は下手くそで不似合いだ。



 照れるように口元をもごつかせていたエヴァさんも、「リオ様も」と小さく呟いた。「いや、君に比べると、俺なんて」「そんなことを言うなら私なんて」 互いに首を振っている。本番まであと少しだ。ちなみに、今回のことについてはさすがにカルトロールの伯爵の耳には入れてはいなかったが、エヴァさんが知っている、ということは、兄上にも父上にも伝えてある。情けないほどにも土下座を繰り返していた彼らだ。伯爵を前にして、子鹿のように足を震わせるのではないかと心配である。



「……見せたく、ないな」



 あんまりにも彼女が可愛らしかったから、こんな彼女を誰にも見せたくないな、と思わず考えてしまった。なので口にも出してみた。それがどういう意図か、エヴァさんはとても正しく理解してくれるから、こちらとしては助かる。嘘の言葉がないと説明する必要がないのだ。



「で、でも今から結婚式ですし」


「そうなんだよな、わかってはいる」



 仕方ないよな、と呟いて、彼女の肩に手を置いた。身長差があるものだから、顔を近づけるにはひどくかがまないといけない。「でも、こちらの初めてまで見せるのは、ちょっとどうかと思うんだ」 なんにしろ、俺達はもう何ヶ月も経っているのに、真っ白なままの夫婦なんだから。



「万一、離婚となっていたら、婚姻届でも大変だったのに、その何倍もある書類を書かなければいけなかったんですよね。そんなの大変ですよね」


「うん」


「それが嫌で、離婚しない、なんて人もいるらしいですよ。シャルロッテさんが言ってました」


「うん、そうだな」


「だから、その、リオ様」


「うん、エヴァさん、ちょっと静かに」



 こっちも、緊張してるんだ、と小さな声で呟いた。ひう、と彼女が小さな声をもらした。小刻みに震える顎に手を伸ばして、ゆっくりと口元を合わせる。甘い味がした。と、いうのは気のせいかもしれないけれど、互いに口を離したときは、これまた心臓がひどい音をあげていて驚いた。この先が本番だというのに、俺は大丈夫なんだろうか、と思えば、恐らくエヴァさんも俺と同じような顔をしている。人前での口づけというのが、結婚式のセオリーなのだから。




「え、エヴァさん……」


「はい……」


「なあ、もう、聞こえているかもしれないんだが」


「聞こえてます……なので、言わないでください」


「今日が初夜ってことでいいだろうか?」


「言わないでって言ったのに!?」



 ばか、と呟かれる言葉を無視して、彼女の肩に額をのせた。

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