第35話

「あなたのことが好きよ」


(嘘よだいっきらい。どこかに行ってちょうだいな)




「これおいしいな」


(まずいまずい。こんなものがおいしいだなんて、頭がおかしいんじゃないか)






 私の隣には、いつも小さな犬がいた。それがあっという間に大きくなって、ジョンという名がつけられて、お揃いのぬいぐるみを抱きしめながら使用人たちの言葉をこっそりと聞いていた。ぼとっと腕の中から落ちたぬいぐるみは土だらけで、ジョンが困った顔をしてどうぞとくわえて渡してくれたけど、そのときの私はどうにも受け取る気分になれなくて、彼らの会話を右から左にきいていた。幼い頃から、人が嘘をつくということを覚えた。ただそれは仕方のないことだと知ったのも、そのすぐあとだ。




 ただ、いつも口がむずむずしていた。それは嘘だよ。あれも嘘。教えたらどうなるかな。知ったらどうなるかな。言いたい気持ちを抑え込んでもぞもぞしている間に、私は離れに引きこもって、そんな葛藤からも逃げ出した。それでもときおり子供時代はむずむずした。気づけばにっこり聞き流すことが得意になっていたけれど。



 本当は、いつか誰かに言ってみたかった。それで、あっとびっくりする姿を見たかった。





 でもその相手が、初めて好きになった相手になるだなんて、誰が想像しただろう。しかも一応は両想い、と言える状況なのだけれど、きっと私のこの言葉で全てが終わる。なのに自分の考えはと言えば、ああ、すっきりした、とそれだけで、そんな自分に驚きつつも、幼い頃からの夢がかなったみたいな気分だった。もう、嘘をついたり、誤魔化したり、そんなことをする必要がなくなったのだ。




 リオ様はぱちぱちと瞬いて、私の言葉を飲み込もうと、首を傾げた。そうして、じわじわと言葉の意味を理解している。初めての経験だった。固唾を呑んで、彼の“思考”を待っている。そうやって待っている間に、なるべく悪い結果を想像してみた。そうすれば、せめて覚悟をすることができる。リオ様が私のギフトを信じない、その可能性は考えなかった。なんて言ったって、リオ様もギフトを持っているから。“そういうものなのだ”と、ギフトを持っている人間は、無意識に、当たり前のように信じようとする。そういう仕組みになっているのだ。なんて言ったって、神様からの贈り物なのだから。



 私のギフトが呪いであると荒唐無稽な言い分にも、皮剥男が躊躇していた理由はそこにある。だからこそ、ギフトを偽ることは大罪とされている。



 とは言え、さすが騎士として王都を守っているからなのか、リオ様は思考の中で一つ一つ、精査を始めた。偽りのギフトを口にして、罪を逃れようとする人間も多いのだろう。とんとんと指先でこめかみを叩いて、考える。それから思い出す。少しずつ認識する。



(嘘だろ?)



 弾け飛ぶように聞こえた声はそれだった。一体なんのこと? と思いながらも、「本当です」としっかりと、自分で意識して伝えてみた。今まで無意識に、思考の声に反応してしまったことはあるけれど、わざとそうしたのは初めてだ。少しだけ勇気が必要だったけれど、必要なことだ。私の言葉を聞いて、リオ様は正しく認識した。それから、驚くべき勢いで顔を真っ赤にさせて、そうした自身に気づいたらしく、顔面を片手で押さえ込んだ。




 一体なぜ? と首をかしげると、「き、聞かないでくれ!」 リオ様は転げるような勢いで後ずさって、案の定、足を滑らせてお尻を床の上に、強かに叩きつけた。大きな体が、どすりと屋敷の中を揺らした。私の膝の上に眠っていたソルがびっくりと顔を上げて周囲を見回して、そのまますんすんと鼻を鳴らした。それから、まあいいかとぽすりと顎を私の膝の上に再度乗せて眠ってしまった。彼の言葉に傷つく前に、リオ様の思考が流れ込んでいる。



(それじゃあ、俺が浮気をしているふりをしていたこともバレていたのか!)



「そ、そうですね……?」



 返答に困った。(初夜を困っていたこともか! 未だに過ぎた初夜をどうすべきか悩んでいたこともか!?) 初夜初夜言うのはやめていただけませんかね。言いづらくて顔をそむけると、その態度で理解できてしまったらしい。リオ様は立ち上がった。そして叫んだ。



「俺が君を好きなこともか!?」



 もうやめて。


 ひいっ、と喉から変な息が出そうになる。どうしても誤魔化したくて、再度、反対の方向に視線をそむけた。なのに彼からは、(答えてくれ)と必死な声が聞こえてくる。だから頷いた。それからこっちも負けじと叫んだ。「し、知ってます!!」 気づけば握った拳が震えている。怒涛のように押し寄せる思考の波が、唐突に静かになったから、不思議に思って彼をこっそり覗いてみると、人はこれほどまでに顔の色を変えることができるのかと言うほど、リオ様はその色合いを、真っ赤から、真っ青に変えていた。どうしたの。



(じゃあ、俺が君と別れようとしていたことも?)



 理解した。ああー……、と口元をひっかく。答えないわけにはいかなかった。というか、リオ様もとっくにわかっている。「そ、そう、です、ね……?」 リオ様は死んだ。墓に入った。もちろんそれは比喩表現なのだけれど、彼の中の心象風景は、スコップを握りしめて、自身が埋まる穴をゆっくりと堀り進めている。言葉を使うのならば、絶望という単語が一番近い。



 これは、あまりにもフェアじゃなかった。私は始めから全部知っていたのだ。だからそういうものなのだと思っていたし、残念に思うことはあったけれど、彼を恨むわけがない。それどころか、素敵な人だと考えていた。でも今はそういうことを言いたいわけではなくって、本当に、一番伝えたいことを言うべきだと思った。この言葉を伝えないと、私はひどい嘘つきになってしまう。



「リオ様」



 だから、ベッドの上に座りながら、ゆっくりと彼に手を伸ばした。すやすやと眠っているソルの可愛らしいいびきが聞こえる。大きな彼の手を掴むと、ぽすりとまた彼は顔を赤くした。それを必死で隠そうとして、意味のないことに気づいて、首を振った。硬くて、大きくって、安心できる手のひらだ。隠し事は、もうなしにしよう。




「私も、リオ様のことが好きです」






 ***






 聞き間違いかと思った。


 エヴァさんのギフトを聞いて、まさかそんなギフトがあるものなのか、と考えたとき、時折見せていた彼女の不審な動きに合点がいった。そんな中で、自身の恥やら、男として、いや人としてどうかと思っていたような、そんな所業を実のところ、全て彼女が理解していたのだという、あまりにも辛すぎる現実に、頭を打ち付けて死にたくなった。そんなときの彼女の言葉だ。聞き間違いだと思うには無理がありすぎるはず。



「嘘じゃありません。私は、リオ様の本当のお嫁さんになりたいって、ずっと思っていました」



 いや、そんな現実があってたまるか。「ありえます!」 そしてさっきから、エヴァさんの俺の思考に対するツッコミが激しくて、わけがわからなくなってくる。「だって、リオ様が、ずっと何もおっしゃらないから……」 その通りだ。彼女が反応してくれるものだから、すっかり口を閉ざしていた。これではいけないに決まっている。兄上には、俺の図体がでかすぎるから、見ようによっては恐ろしい、と思わないことはない、と言われていたのだから。



 彼女が俺の考えがわかるとか、わからない、とか、そんな問題じゃないだろう。気づくと握られていたはずの手のひらを、反対に握り返していた。ぎくりと逃げようとした彼女を、必死に掴んで逃さなかった。



「本当に、申し訳なかった!」



 そうして、勢いよく頭を下げると、エヴァさんは大きく瞳を見開いて、かと思えばきょときょとと瞬いた。今は不思議気な彼女の顔つきだが、すぐに俺の思考を理解したらしい。けれどもいけない、と彼女が口にするよりも、素早く声を上げた。



「俺は、君と別れるつもりだった。あまりにも不誠実な考えだった。それを、きみは、始めから、知って……」



 声が震えた。さぞ、傷ついたことだろう。なんせ初めて出会った旦那が、気のいい男であるどころか、始めから別れる算段をしていたのだから。「そんなことは」と困ったように笑う彼女の手を、さらにきつく握りしめた。そうすると、余りにも折れてしまいそうで、びっくりして力を緩めて、それからやんわりと包み込んだ。



 彼女がこうして、全てを告げてくれたのだ。それならば、俺もそうすべきだ。いや、隠したところで、全てわかってしまうのだから、仕方がない。現に、今この場でも、俺の考えが分かったのか、彼女は顔を赤らめて、いかにも逃げ出したそうに、口元をもごつかせていた。けれども知らない。隠したところで、意味などない。気づかないふりをしようとしていた、そのつもりだった。酒の力なんていらない。「俺は!」 叫んだ。



「君と、結婚したい!」


「もうしてますが!?」


「きゃうん!?」



 さすがの勢いに驚いたのか、エヴァさんの膝の上でもふもふと眠っていたソルが飛び起き、こちらに牙を向いている。すまない、と謝って、続けて叫んだ。「好きだ!」「し、知ってます!?」 めげてたまるか。なら我慢なんてする必要は、始めからなかったんじゃないか。




「エヴァさん、ご存知の通りだが、俺はただの子爵家の次男で、特技は畑を耕すことぐらいで、金もない。君には不釣り合いなこと、この上ない。わかってる。それに馬鹿な兄と父もいる。身内の不始末は、俺の責任でもある。いや、金がないことを分かって婚姻した時点で当たり前だ。だから、君とは結婚できない、そう思って」



 言葉を飲み込んだ。これは全て、過去のことだ。だから。「金は稼ぐ!!」 別れるつもりもないのに、稼ぐというのも妙な話だが。何年かかったとしても、必ず。「だから、10ヶ月を過ぎたとしても、その先も、君といさせてくれ!!!」




 ずっと飲み込んでいた言葉だ。いや、考えることすらしてはいけないことなのだと、表層に溢れれば、飲み込んで、消し去ってきた思いだ。虫の良すぎる話だろうか。俺の妻になりたいと、そう彼女は言っていた。好きだと言ってくれた。けれども、俺は一応は全てを隠していたつもりなわけで、あまりにも夫として不誠実だった。別れようと、そう考えていた人間を、果たして信じてくれるものなのだろうか。



 全ては身からでた錆とは言え、あまりにも情けなかった。だから握りしめていた彼女の指先が震えていると知ったとき、呆然とした。ぽろぽろとエヴァさんは涙をこぼしていた。「えっ」 そんなに。「い、嫌なわけではなくて!」 俺の考えにかぶせるようにエヴァさんが喉を震わせる。うん、と口を閉じた。



「そ、そういう反応は予想していなくて、だ、だって、こんなギフトがあるって知ったら」



 ぽろぽろとエヴァさんの涙が止まらない。喉をしゃくりあげて、口元が可愛らしくとんがっている。わけがわからなくなった。エヴァさんのギフトが?



「き、きみが、そのギフトをたまたま持っていてくれたから、馬鹿な俺の行動に、思い違いをせずにすんだんだろ……? いや、始めから知っていたからこそ辛い思いをさせてしまったんだよな、うん? よくわからなくなってきた」



 こういうときはクワを握るに限るんだが、まさかそうするわけにはいかない。「君が、その力を持っていてくれて、よかったよ」 だから本当に、思っていたことを伝えた。うるさいぞ、と唸っているソルの声は聞こえないふりをする。しかしこぼれ続ける彼女の涙には困った。けれども、俺は彼女のような力は持っていないけれど、悲しんでいるわけじゃないことぐらいならわかる。そっと彼女の涙をぬぐった。それから抱きしめた。



 彼女の肩口から、いつもいい匂いがするから、ずっとこうしてかいでみたかった。互いに身長差があるものだから、必死に屈んで、その差を埋めた。そうすると、俺の中にエヴァさんがすっぽりと入ってしまった。間にソルがいることは残念だが、三人家族だ。丁度いい。それから、もう少しばかり近づいて、彼女の顎を持ち上げて、――――ちりりん、ちりりん、ちりりん、ちりりん



 無視をするにも、けたたましいベルの音が響いている。



「あ、あの」


「俺が出てくるよ」



 来訪者がベルを鳴らせば、屋敷中に響くように多くの部屋にベルが設置されているわけだが、大して来訪客も来ない屋敷であるというのに、なんというタイミングだ。自身としては珍しく舌を打ってやりたい衝動に駆られたが、まさかそんな姿を見せるわけにもいかない。いや、理解はされているのか。そう考えると若干の恥ずかしさやら、申し訳なさやらを誤魔化すように、さっさと玄関に移動した。その間にも、ベルの音は止まらない。



「はいはい」



 聞こえるはずもない相手に返事をして、扉を開けた。すると、相手もドアを叩こうとしていたところだったのか、強かに額を打ち付けて、細い体をひょろひょろと飛ばして転がっていく。



「は、申し訳な……!? 兄上!?」


「お、おう、久しいな……」



 相変わらず小さな背で、ちろりとこちらに腕を上げて、片方の手で鼻を押さえている。申し訳ありませんでした、と頭を下げつつも、なぜ兄上がここに? と溢れる疑問が止まらない。前回はと言うと、帰りの馬車代すらも足りずに一張羅の背広をびしゃびしゃにして、哀れな子犬のような瞳をしていたというのに。





 気の所為だろうか。


 今の彼はと言うと、相変わらずの細い枯れ木のような体だが、ぴかぴかしている。端的に言えば、質のいい服を着て、いやまるで服に着られているような、そんなような。



「リオ、聞いてくれ!」



 真っ赤になった鼻もおざなりにして、兄上は勢いよく立ち上がった。それでも俺の背よりもぐっと小さい。もしかすると、エヴァさんよりも小柄なんじゃないだろうか、と最近はなんでも彼女を基準にして考えている自分が悪い。



「はい? なんでしょうか。また金が足りなくなりましたか?」


「違う、そうではなくて!」





 ぶんぶんと勢いよく頭を振る。まるで空でも飛びそうな勢いだ。





「山のような、金が手に入ったぞ!!! 文字通りな!」






 一体、何の世迷い言を?

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