第34話

 目が覚めると、知らない女性が目の前にいた。




 びっくりして瞬いて、最初にしたことはリオ様を探したことだった。真っ白な部屋の中でベッドに埋もれながら、キョロキョロ周囲を探していると、「誰かを探しているの? もしかして、旦那様?」と、女性が優しげな声を出した。「本当に、夫婦仲がいいのね。フェナンシェット様は少し席を外しているけれど、ちゃんと戻って来てくれるわよ」 からからと笑っている。



 それよりも、診察を行いましょうね、とゆったりとした動作で私の首元を触り、私と同じく診療所に運び込まれたアイクさん――――リオ様の同僚の方のお名前を、そのとき初めて知った――――は、別室できちんと治療をされていて、経過にも問題ないとのことで、ほっと胸をなでおろした。




 気を使ったのか、誰も私に、あのリコスと言う名の“皮剥男”について尋ねることはしなかったけれど、彼らの考えで理解した。リコスが現在騎士団に捕らえられ、リオ様が再度、尋問を行った。私という身内が関わってしまったから、私情が混じることを防ぐため、あくまでも補佐という形らしく、彼は早々に私の元にやって来た。それから、家に帰ろう、と片手を差し出してくれた。もちろん、ソルも一緒だ。




 それからすぐさまベッドの中に閉じ込められて、どんどん甘くなるリオ様の言葉が染み込んで、どうしたものかと震え上がった。思い出すと、怖かった。なのにそれ以上に、思考の端々で、ぽんぽんとリオ様が爆弾を投げてくる。(好きだ)(かわいい)(いなくならないでくれ) 聞いてますから。聞こえてますから。もう勘弁してください、と何度シーツを握りしめたことか。





 私も好きです。





 そう言ったらどうなるだろう。喜んでくれるだろうか。彼の妻であることを認めてくれるだろうか。そうすれば、お酒が入っていなくても、抱きしめてくれるだろうか。


 リオ様に手を握りしめられながら、色んな想像をした。息を吸って、吐いて、やっぱりやめて、吸って。何度も繰り返して、どきどきしている心臓をなだめて、彼を見上げた。だから、(ああそうだ)と彼が思い出したとき、頭の上に冷水を被せられたような気分になった。





「事件の犯人が、供述していたことなんだが……自分の名前も住所も、捕まえた女性に全て言い当てられたと。もしよければ、そのことについて説明してもらっても構わないかな」






 お花畑なのは、私の頭の中だった。




 リオ様の言葉を聞いたとき、すっと指先が冷えて、感覚がなくなった。彼が好きと感じてくれているのは、私が普通の女だと勘違いしているからだ。こんなひどいギフトを持っていることを、彼が知るわけがない。


 ぞっとして、唇を噛み締めて、枕に顔をうずめた。そうすると、リオ様は何を勘違いしたのか、「あ、いや、悪い。怖い思いをしたのに、いきなりだった。君がもしかして、どこかであの男と会ったことがあるのかと、ただそれだけの確認のつもりだったんだ」 あの男が、勝手に言っているだけかもしれないし、と私の頭をゆっくりと撫でながら、リオ様が慌てたように説明した。



 もしかすると、ごまかせるような気もした。そんなの知りません、と突っぱねて、わかりませんと。アイク様は聞いていらっしゃったかもしれないけれど、彼の意識も混濁していた。この街には来てから半年と少しばかりだし、会ったことなんてあるはずもない。そう言い続ければ、リオ様自身も確認のため尋ねているだけで、大して重要なことでもないらしいから、なんとかなるかも。



 そう、きっとだいじょうぶ。やっぱり気分が悪くなりました。ごめんなさい。そう言えばいい。覚悟を決めているうちに無言になって、それだけでもリオ様の中から心配気な声がする。あとひと押しだ。大丈夫。残りは三ヶ月もないのだから。ソルと一緒に楽しく過ごして、ああ、あんな楽しいこともあったなと、年をとってから思い出にしたらいい。きっときらきらとして、素晴らしくて、幸せな10ヶ月になる。



 長年閉ざし続けていた私の口は、すっかりと堅くなっていて、ちょっとやそっとでは緩むはずもなかった。たとえいくらの恋心があったとしても、彼に全てを告げるわけにはいかない。絶対に、誰に言うこともなく生きていく。そう決めていたはずだったのに。





 窓の外から、ちらちらと緑の可愛らしい葉っぱが見えていた。あのおいしいオレンジの葉っぱだ。どうしても、あの果実を使ったお菓子を作りたかったのに、実がなっている場所が、私の背よりもずっと高くて、困っていたらリオ様が手を貸してくれた。できたてをもいで食べて、ああ、すっぱい、と二人で笑った。そんな日々が、ずっと続けばいいのにと心の底では願っていた。彼も、そう思ってくれていた。



「……エヴァさん?」



 勝手に涙がこぼれていた。顔は枕で隠れているはずなのに、ひくつく肩はごまかせない。思い出したくなんてなかった。リオ様のお嫁さんになりたい。そう願って、ヴァシュランマーチで、まるで蛍のような、あの道を歩いて帰った。



 ――――誰にも告げず生きていくということは、一人で生きていくということ。そんなことは、ずっと昔からわかっていた。





 覚悟はできているつもりだった。でも結局それは、少しばかり人差し指でつっつけば、そのまま崩れてしまうような、もろくて情けないものだった。エヴァさん、と困ったように差し出した彼の手のひらを握りしめた。枕からはゆっくりと卒業して、ベッドの上に座り込む。彼の困惑した気持ちはわかる。



「リオ様は、ギフトをお持ちですか?」



 想定外の質問だったのだろう。改まった顔をして、問いかけた内容がこれだ。彼は幾度か瞬いた程度で、答えはすぐに教えてくれた。



「ああ、持っているよ。剣を振るうことができるギフトだ。昔はクワを振るギフトだと勘違いしていたから、ずっと土いじりをしていた。その癖がどうにも今も抜けないんだ」



 ただそれだけのことのように彼は頭を引っ掻いたが、それは彼のギフトだからだ。通常なら、自分から言うのならばまだしも、他人にギフトを尋ねる行為はとても失礼なことだ。以前にシャルロッテさんが、慌てて口を閉ざしていた。



「私も、持っています」


「ああ、君も貴族だからね」



 名字持ちの人間はギフトを持っていることが多い。身に宿る魔力が多いせいなのだろう、というのが通説だが、実際のところはわからない。ここまで告げるだけでも、覚悟が必要だった。ばくばくと、心臓が嫌な音を立てている。そこから先のことは困った。ひどく怖かった。それでもリオ様には伝えたかった。たとえ嫌われたとしても、彼にだけは伝えたかった。



「わ、私の、ギフト、は……」



 声が震えた。それでも、やっとの思いでひねり出した。またボロボロと涙がこぼれてきた。リオ様は慌てて中腰になって、私の手を掴んだ。私も必死で彼の手を握りしめた。逃げないでと、きっとそう願っていた。



「人の心の声を、きくことが、できるんです」




 不思議なことに、言ってしまったと後悔する気持ちはなかった。ただただ、ほっとしている自分には、少しだけ驚いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る