第32話
*動物に対して残酷的な描写があります。苦手な方はご注意ください。
皮を剥ぐことを生業にして生きるものがいる。
それは狩猟をするものだったり、肉屋だったり。獣の皮を剥いで、つるっぱげにして、おいしくいただく。人々の生活に欠かせない職業だ。そうした職業は、昔は“皮を上手に剥ぐことができる”ギフトを持ったものが就くことが多かったらしいけれど、今ではギフトを持っているのは貴族ばかりで、平民からしてみれば、そんなギフトを持っているやつもいたんだっけか、というような認識だ。
そんな中、少年はいつも何やら不思議な違和感があった。ナイフを見るとむずむずする。母親が料理のために使っている様を見る度に、ああそうじゃない、こうじゃない、と胸をひっかかれるような、奇妙な痒さがあった。あるとき、母親は少年があまりにも物欲しそうに彼女の手元を見つめていたから、小さなナイフを貸してやった。それからりんごを握らせた。そんなに使いたいんなら、綺麗に切って皿の上に並べときな。そう告げて振り返ったとき、少年は見事な手つきでくるくるとりんごの皮を剥いでいた。
あんた、まあ、上手だねえ! と母親は手放しで褒めてやったが、少年はどうにもピンとこなかった。近いような、遠いようなわけもわからない気持ち悪さが体を襲った。それから今度は少年に魚をさばかせたとき、あまりにも綺麗に魚の“皮”だけを剥ぐものだから、彼のギフトが“生き物の皮を剥ぐこと”なのだと家族中が知ったとき、家族はみんな落胆した。なぜなら少年の家は狩猟をしているわけではなく、肉屋でもなく、ただの雑貨屋だったからだ。
どうせ平民には珍しいギフトを持っているんだったら、計算のギフトだとか、話術だとか、仕事に役立つものならよかったのに、とため息をつかれるようになったとき、彼はすっかり皮をはぐことに夢中になった。来る日も来る日も肉屋の前でじっと店主の手つきを眺めて真似して、果物の皮を剥いでと部屋の端で奇妙な作業を繰り返しているうちに、家族の中ではすっかりやっかいものになっていて、街に出ても気持ち悪いやつだと因縁をつけられるようになった。ときには殴られたこともある。殴られすぎた鼻は、すっかりと折れ曲がっていた。
少年はいつしかすっかり大人になった。でもいつも何か足りないような、気持ちの悪さを感じていた。そんなとき、目の前に犬が横切った。ナイフはいつも懐に忍ばせていた。気づいたら皮を剥いでいた。楽しかった。幸せだった。あくる日には猫を見つめて、鳥を見つめて、全部皮を引っ剥がした。初めての生き物でも、あんまりにも上手に剥ぐことができたから自分でも驚いた。さすが神様から頂いたギフトなのだと思った。俺は皮を剥ぐために生きていた。
今日はどんな皮を剥ごう。明日はどうやって皮を剥ごう。考えるだけで楽しかった。へらへらと街を歩いていたら、黒みたいな緑みたいな、綺麗な髪をした少女が、真っ青な瞳を見開いて、犬にすがって震えていた。可愛らしい服を着ていたから、きっといいところのお嬢さんだ。近くには大人もいない。腹が立ったからナイフをちらつかせて脅してやった。それから子どもを蹴り飛ばした。悲鳴をあげて、ぼろぼろと涙をこぼしている姿を見ると楽しくって笑っていたら、でかい犬に噛みつかれた。
だから皮を剥いでやった。
上手に上手に剥いでやった。
なあ嬢ちゃん。これは俺のギフトなんだ。神様からもらったギフトなんだ。
だから、使わなきゃ失礼だろう?
気づくと、涙をこぼしていた。腕を縛られて、どこぞに寝転ばされている。頬が冷たく、硬い床の上だ。窓は塞がれていて、かすかに明かりが漏れる程度だった。ジョンは死んだ。私を守って死んだ。いつもは声が聞こえないはずなのに、あの恐ろしい大人に噛み付いて、ジョンは逃げろと唸って、叫んでいた。必死で逃げて、誰に言えばいいのかもわからなくて、恐ろしくて布団をかぶって震えていた。それから屋敷には、一本のナイフが届いた。あの男は、私の服を見て貴族だと分かっていたのだ。そのナイフを触った瞬間、全てを理解した。私をかばった彼の“最期”を理解して、意識を失った。そうして、ジョンが死んだことは、気づけば屋敷の誰もが知っていた。
それからしばらくすると、皮剥男と呼ばれる青年が捕まったのだとメイドたちは噂していた。それでも何をするにも指先が震えて、人前では体を動かすことすらままならなかった。
私はギフトを持っているから、何か悪いことがあっても大丈夫だと、幼い頃は本気でそう考えていた。だから安心してジョンを連れて、町中を冒険していた。ギフトを恐ろしいことに使う人がいるだなんて、考えもしなかった。次第に周囲が怖くて誰に会うこともできなくなっていたときに、お父様が離れに住むことを許可してくれた。弱い私はこれ幸いにと逃げ出して、何もかも忘れるようにと、必死に努めた。それがずっと昔のことだ。
(ひどい話だ……)
何もかも逃げ出してしまえばいいだなんて、なんて平和な頭をしていたんだろう。自分自身を殴ってやりたくなった。でも両手をくくられている今、できることは情けなく地面に額を押し付けることぐらいだ。
あの包帯を顔にぐるぐる巻きにしていた男も、あのとき出会った男と同じような生き方をたどっていたらしい。マルロ様が言っていた事件の犯人も彼だ。いろいろなところから小型の動物を盗んでは解体していた。中身に興味はあるけれど、流れた血はどうでもよかったから、その場に捨てた。そうして、求めるものがどんどん大きくなっていった。
けほり、と息を吐き出した。喉が苦しい。私のことを最後まで絞め殺さなかったのは皮を剥ぐため。人間の皮を剥いでみたいと、ずっとそう思っていたらしい。瞳を瞑って、深く呼吸を繰り返した。落ち着け。近くにもたれかかるようにいる男性は、あのときの男性だ。ヴァシュランマーチで、リオ様の伝言を届けてくれた彼だ。声をかけてみると、わずかに唇が動いた。言葉は話せないようだが、思考はしっかりしているから事情は飲み込めた。
リオ様がマーチに遅れた原因の乱闘騒ぎの被害者は“皮剥男”で、あまりにも一方的に殴られていたものだから、念の為、しばらく騎士団で巡回を行っていたらしい。この男性がマーチのとき伝言してくれたのはリオ様の屋敷の比較的近くに住んでいて、今回の場所もそうだった。だから帰宅ついでに顔を出すようにと言われていて、“皮剥男”は相変わらずもごもごしていたけれど、まあ元気なようでよかったと背中を向けたときに襲われた。気を抜いていた、とひどく彼は悔いている。そうして申し訳がないと。
「気にしないでください、大丈夫ですから」
そう言って、言葉をかけることが精一杯だった。それから彼の真っ赤に染まる指先や腕を見た。目もそむけたくなるような光景だった。ひどく痛むのだろう。私には聞かすまいと口は必死に閉ざしているものの、心の中では呻くような声で溢れている。「本当に、大丈夫ですから、ね」 こんな言葉に、意味があるのだろうか。そう不安に思っていたけれど、彼の中の何かが、わずかに安らいだことに気づいて、ほっとした。
(ソルは、大丈夫なのかしら……)
“皮剥男”は、犬に対して異常なほどの興味を向けていた。なぜなら彼が最初に剥いだものは犬だから。犬を見るとうずうずして、たまらなくって、私が逃さなければ、きっと大変なことになっていた。屋敷まで逃げて、どうにか助けを呼んでくれたらいいのだけれど、そんなにうまくいくわけがない。周辺には人の声も、気配もない。逃げ出そうと立ち上がって、扉に体当たりをしたところで、わずかにきしむ音がするくらいだ。
せめて後ろ手に組まされたロープだけでもほどこうと両手をもぞつかせていたとき、足音が聞こえた。助けではないことは“声”をきけばわかる。きいたところ、彼はわくわくとして、ナイフを片手に持っているらしい。扉が開いた。嬉しげにスキップして、持っていたナイフはすべりがよくなるように綺麗に洗っている。お楽しみを待つことは苦手だ、と彼はにんまり笑って私に近づいた。
「ひっ……」
逃げてもあるものは壁だけだ。転がされていた怪我をしている男の人が、もごもごと必死に叫ぼうとして苦しんでいる。君だけでも逃げてくれと言っている。できるだろうか。わからない。でも私は彼らの声が聞こえる。今なら男は油断している。何もできない令嬢だと思っているらしいが、そこいらの女性よりも体力はあるつもりだ。力いっぱい体当たりして、開いている扉の向こうに逃げ切れば。きっとできる。息を吸い込んだ。――――でもそんなことできなかった。
逃げてくれと叫んでいる足元の騎士は、本当に、本気でそう思っている。そんな真っ直ぐな声をきいて、背中を向けて逃げるには私は弱すぎた。ジョンもそう言っていた。そうして殺された。そうやって同じことを繰り返せるほど、私は強くなんてない。
こぼれた涙は恐怖だったのかもしれない。皮剥男は何も言わない。けれども心の中で、何度も私の皮を剥いで、楽しんで笑っていた。ぞっとした。「リオ様……」 言葉が勝手に漏れていた。けれどもヴァシュランマーチのときのように、彼が駆けつけてくれることはない。分かっている。「リオ様……!」
――――今の私に、何ができるだろう
あの、幼い頃の私は、本当は何ができただろう。ただ人の心の中を読む、そんなギフトで、どう抵抗できただろう。(きっと、あった) 本当なら、たくさんの方法があった。今の状況だってそうだ。こんなところに連れて来られる前に、いくらでも逃げ道があったはず。ジョンの死から逃げて、離れに引きこもっている間も、考える時間なんていくらでもあった。でもそんなこともせずに、ただ足踏みを繰り返して目をそむけていただけだった。(汚い手段でもいい、何をしたっていい) ただ、生き残る。それだけが目的だ。逃げなんてしない。諦めなんてしない。
「……あんたの」
気づけば、口から自分でも驚くほど低い声が溢れていた。おどろおどろしい。ぞっとするような声だ。覚悟は決めていた。「あんたの、名前を知っているわ」 ぴくりと“皮剥男”は震えた。「あんたの名前は、リコス。年は26ね?」 確認するように男の瞳を見つめたが、間違いなんてあるわけない。
「それから家族は? へえ、6人。大家族ね。それともこんなものなのかしら。妹が一人、あとは兄が二人と弟が一人。家族仲はよくないのね。おうちは何をしているの? そう。パン屋さんなの」
自分でもすらすらと声が出てくる。実際は彼が考えていることをそのまま口に乗せているだけだ。疑問を向けると、勝手に彼の頭が答えてくれる。男は困惑したように眉根を寄せた。それから家の場所から、今日食べたご飯を言い当てて、ナイフを手に入れた場所まで告げる。「家で使う食卓用のナイフなの? ぞっとするわね」 それからわざと挑発的な声を出した。「これ、全部私のギフトよ」
とにかく、時間を稼ぎたかった。逃げるタイミングを掴むことができたらいいけれど、そんなに都合よくはいかないはず。だからこうして時間を稼いで、万一外で他人の声が聞こえれば大声を出す。それくらいしか思いつかなかった。男は奇妙なものを見る目で私を見た。
「あのね、私のギフトは呪いなの。相手のことは何でもわかるし、わかった相手には、いくらでも悪さができてしまうわ。恨みが強くなればなるほどすごいわよ。試してみる?」
冷や汗ばかりが流れていく。けれども少しくらいの脅しにはなったらしい。なぜなら彼もギフトを持っているから。ギフトとは理屈ではない。それを持っている人間は誰しもが理解して、ときには恐怖を感じている。
じりじりと互いに距離をとった。吐き出した息が妙に冷たい。一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。時間の感覚すらもわからなくなったとき、ひどく男の息が荒くなった。剥ぎたい。剥ぎたい。とにかく剥ぎたい。ナイフを持っている両手が小刻みに震える。我慢なんてできない。なんていったって、俺は皮剥のギフトを持っているんだから。そうしろと神様から言われているんだから!
流れ込む思考の渦に溺れそうになった。もう止めることなんてできやしない。そう感じたとき、ふと、自分の腹が立っていることに気づいた。ギフトに振り回された人生だった、とマルロ様は考えていらっしゃった。私からすれば、とても素敵なギフトなのに彼は悩んで、これさえなければもっと別の人生があったのかもしれない、と思っていた。私だってそうだ。離れに引きこもって、ずっとずっと逃げていた。
でも、そうしようと選んだのも私だった。
「……なんでもかんでも、ギフトのせいにしないでよ」
耳が痛い。自分の言葉に苦しくなる。けれども、言葉は止まらない。
「なんでもかんでも、神様のせいになんてしないで! あなたがそうなったのは、あなたのせいよ!」
家でおかしなやつだとやっかいものにされているのなら、飛び出せばよかったのだ。店先を見つめていないで、肉屋の扉を叩いたらよかった。そうして彼のギフトを告げれば、きっと重宝されただろう。そうすることを選ばなかったのは、この男自身の問題だ。あまりの思考の声に、頭が狂いそうになった。彼は口を閉ざすことばかりがいつの間にか得意になっていて、内にばかりに溜め込むようになった。だから殴られた被害者のくせに自分の名前すらも言うのが億劫で沈黙を貫いた。
誰もかれもが自分よりも楽しげで、幸せそうに見えた。特に犬を見ると腹が立った。尻尾を振っているだけで可愛がられて、飯をもらって生きている。だから端から皮を剥いでやりたかった。この女も騎士もそうだ。可愛らしい顔をして、なんと生きやすそうな人生なんだろう。まっとうな職について、まっとうに人のために働いて、俺に比べて、なんとまあ――――
殺してやろう、と聞こえる声は、耳を塞いでも止まらない。だから私は気づかなかった。自分が気づけば必死に悲鳴をあげていて、そのすぐ近くに、誰かが駆けつけていたことを。木でできた扉は幾度かの衝撃で、あっと言う間に砕けてしまった。真っ茶色の犬の毛並みのような髪が見える。皮剥男はすぐに異変に気づいた。そうして、彼にもナイフを振りかぶった。あっという間に弾き落とされたのもつかの間。私は叫んだ。
「リオ様、もう一本、懐に隠しています!」
彼の声から分かったことだ。男はとても素早くリオの皮を剥ごうとした。男はギフトを持っている。いくらリオが、プレートを仕込んでいようと関係ない。なぜなら、皮を剥ぐために、彼は産まれたのだから。
――――にも関わらず、男の足元には砕けたナイフが散っている。
先程まで、皮剥男が隠し持っていたナイフだ。リオが短く息を吐き出したその瞬間、またたく間にナイフが崩れ落ちた。私の目では何も捉えることができなかった。それは皮剥男も同じだ。リオ様のギフトが、剣を振るうことであることを、そのとき彼の思考で初めて知った。
それからあとは簡単だ。あっという間にリオ様は皮剥男の自由を奪ってくくりあげた。そうしてエヴァさん、とこちらに駆けつける姿を見て、瞬きを繰り返して、ぽすりと彼に頭をもたれさせた。それがすっかり最後の記憶だ。緊張の糸が、ぷつりと切れる音がした。それと同時に、意識も暗くなってきた。だから彼が何を思っていたかなんて、そのときは何も聞こえもしなかった。
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