第31話
マルロとシャルロッテが出会う、その少し前のこと。
振り返ると、見知らぬ男が立っていた。比喩でなく、ひどく鼻が曲がっていた。正直少しばかり驚いて、失礼なことにも飛び上がってしまったかもしれない。慌てて口元を押さえた。生まれつきというよりは、つい最近怪我でもしたのだろうか。顔にはぐるぐると痛々しく包帯が巻かれている。「…………」 奇妙な沈黙に、後ずさった。そうして、足元にこつりと当たった衝撃に慌てて視線を下げた。倒れているこの人はリオ様の同僚だ。ヴァシュランマーチの際に、わざわざ伝言を届けに来てくれた男性である。
鎧がべっとりと血で汚れていた。恐らく、彼自身の血なのだろう。
「あの、この方、怪我をしているようですので、早く、騎士団に――――」
そう伝えたところで、目の前に立つ男が、ナイフを持っていることに気がついた。べっとりと血で汚れている。長く、息を吐き出した。この男が誰かはわからないが、リオ様の同僚に手をかけた。ごちゃごちゃとした思考は読み取りづらく言葉にもなっていない。恐怖とともに、何か、ふつふつと奇妙な気持ちが湧き上がった。そうだ。ナイフだ。私はあのナイフが怖い。昔から。
今はそんなことはどうだっていい。逃げなければ。でも逃げ道はすっかり男に閉ざされている。表の道からの明かりが、ぼんやりとこちらに筋を作っていた。
逃げればその分男が近づく。どうしよう、と指先が震えた瞬間、「きゃうんっ!」 ソルが叫んだ。短い犬歯を必死に開いて、鼻に筋を作りながら叫んでいる。(――――犬) 声が聞こえた。男の声だ。彼はひどく、ソルに執着していた。わかる、あれはいけない。
「逃げなさい!」
ソルの首輪につながる紐を投げ捨てた。その瞬間、男はナイフを振りかぶった。私の首筋をかすめて、破けた布に入っていたポプリの花があたりに散らばる。きゃう、とソルが丸い体を跳ね上がらせた。「いいから、逃げなさい!」 お尻を引っ叩いた。ぱふっと柔らかいお尻を跳ね上がらせて、ソルは男の足元を縫うように消えていく。ほっとした。私では無理でも、ソルなら通り抜けられると思ったのだ。
「あ、う、あ!」
そんなソルに驚いて、男はぴょこんと跳ね上がった。そうして、すっ転んで、頭を打ったらしく呻いている。なんともマヌケな姿だ。慌ててナイフを取り上げた。包丁よりも、なによりも、こんな小さなナイフの方がずっと怖い。それでも、今がチャンスに違いない。「あの、あなた、大丈夫ですか!」 揺さぶって良いのかどうかもわからなくって、倒れている青年に必死に声をかけた。短く呻く声が聞こえる。よかった。「肩をかしますから、一緒に」 逃げましょう、と伝える前に、背後からゴツゴツとした手のひらがぬっと伸びた。その手のひらにも、真っ赤な血がついている。
「ひぐっ……!」
悲鳴を上げるまえに、首もとを押さえつけられた。じわじわと彼の思考が流れ込む。より強烈に、ダイレクトに。息が苦しい。これは賢い行いではなかった、と後悔した。大声で、悲鳴を上げて、誰かの助けを呼んだらよかった。それとも、騎士を見捨てて逃げればよかったのか。
幼い頃から何も変わらない。だから外に出ることが怖かった。嫌だった。からりと響く音は、私の手からナイフが滑り落ちる音だ。
――――お父様は、引きこもる私に、外に出るようにと強要することは一度もなかった
不思議に思っていたことだ。昔はちゃんと覚えていたのに。
――――あら、立派な包丁が! これは奥様のものですの? 以前はありませんでしたから
――――あ、はい。ナイフは何だか怖くて持てないので、それならなんとか
――――普通反対ではありません!?
シャルロッテさんが、そう驚いていた。小さなナイフが怖くて、いつも見ないふりをしていた。
ジョンと一緒にいることが好きだった。人間以外の心の声は聞こえない。だからほっとして、彼の大きくって硬い毛皮に顔をうずめて笑っていた。小さな頃はお屋敷を抜け出していた。そんなことすらも、私の中から消えていた。
本当に、なんで忘れていたんだろう。
考えるまでもなかった。私が弱かったからだ。あのとき私は鼻水を垂らして、必死で逃げて、布団の中に隠れた。どうしようもなく怖かった。人が恐ろしいことを知った。幼かったと言う言葉はただの言い訳だ。「けほっ」 だんだんと、息が苦しくなる。薄暗くなる視界の中で、男の感情を辿っていく。ああ、そうだ、間違いない。
この男は、皮剥男だ。
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