第29話



 エヴァ夫人から、クッキーをもらってしまった。

 マルロはぼんやりと手の中のそれを見て、苦笑した。




(食べ物には、興味がないはずなのにな)



 マルロは飲み物ならなんでも好きだ。けれども食べ物はあんまり。いつも適当に、酒に合うつまみを口に入れて適当に腹をふくらませるだけだ。なぜなら、彼のギフトが食べ物に関わるものだから。食べたものだったら、なんでも分かる。それが彼のギフトだった。ただし、飲み物は除く。おやつでも、今から食べる遅めの昼食だとか、そんなことは関係なしに舌の上に乗せてしまうと、その作り方から材料まで、一度に頭の中に流れ込んでくる。



 だから昔から、食べることがつまらなかった。どんなシェフが手をかけて作った自慢のソースも端の端まで作り方がわかるからつまらない。スープだってそうだ。ようは、マルロが“食べ物”だと認識したもの全てがそうなるから、それがひどく厄介で、たちが悪い。考えてみれば、ギフトに振り回される人生だった。マルロの親は商人だ。万一、父にこの舌のギフトを悟られでもしたら、即座に全てが商売に結びつく。つまらない食事がつまらない仕事になることは目に見えていた。だから死ぬ気で逃げ出した。



 金儲けには興味がないと、そう思っていた。だから、実家を追い出されたときは、せいせいした。騎士だなんて、こんなところ、自分のギフトは役に立ちそうもない。だから、安心して、ああ自由だ、と両手を叩いた。けれども学校に入ってみれば、由緒正しき貴族の子息達から、金に卑しい商人の子供が、馬鹿のような金をつんでやってきたと鼻で笑われ、それはそれで腹が立った。金がなきゃ、生きてもいけないくせに。



 商人だって、国を回している一員だ。そんなこと、とっくの昔に知っている。このギフトさえなければきっとマルロだって自由に生きて、父の元で才覚を発揮していたのかもしれない。でも仕方がないじゃないか。食べれば全部分かってしまうんだから。



 だから、酒はよかった。いや、酒でなくても、子供が飲むような甘ったるい果実の汁でも、それこそ水でも。わからないことがいい。何も考えなくても良い。作り方も、何もわからないから夢があった。いつの間にやらへらへらと変わり者のように生きていたとき、自分とは違い幸運なギフトを持っていたから、騎士学校すらも卒業せずに王宮に仕えることになった、子爵家の次男の噂を聞いた。妬ましかった。



 だからやっかみ半分、絡んでやったところ、そいつはただの良いやつで、いつの間にか唯一の友人として、一方的に酒を酌み交わす仲になってしまった。マルロは金さえなければいいのに、と願うときがある。でも金は重要だ。仕方のないことだ。リオと関わることで、よくよく家族の心配をしている彼を見ていると、子供じみた自分が嫌になった。だから今では適度な距離をとって、実家とはうまい具合に付き合っている。




 手に持つ可愛らしい包みの中からは、甘いオレンジの匂いがする。どうぞ、と彼女から渡されたとき、反射的に断った。食べ物に興味はない。甘くても辛くても、すっぱくても苦くても、そんなのどうだっていい。だからいらないと言ってしまった。そうしたあとに、ごめんなさいと頭を下げたエヴァを見ると、唐突に申し訳なくなって、言い訳を重ねていた。



「いや、ちょっといらないギフトを持っていて。食べることは苦手なんだ」



 どんな言い訳だと思われたかもしれない。エヴァはきょとりと瞬いて、青い、まるで空のような瞳をくるりとさせた。「そうでしたか、それじゃあ仕方がありませんね」 本当に分かってくれたんだろうか。あまりにもあっさりした反応が不思議で、気づくと下手な言い訳を重ねていた。「いや、本当にいらないギフトで。振り回されて生きてたよ。リオが羨ましい」 なければよかったのにな、と無意味な言葉を続けてしまった。様々な気持ちが、頭の中で揺らいで消えた。こんなことを言われても、彼女は困るに決まっている。



 それなのに、エヴァはただゆっくりとこちらを見上げていた。まるで全てが分かっているような、そんな瞳でマルロを見ていた。



「あなたのギフトは、素敵ですよ」



 わかりもしないくせに。


 意外なことにも、そうは思わなかった。しばらくじっと彼女を見ているうちに、足元では子犬がくるくると回っている。彼女はハッとして自分の口元を押さえて、「勝手なことをすみません!」ともう一度頭を下げた。いやそんなこと、と首を振って、断ったはずなのに、もう一度、やっぱりクッキーをもらえるかと問いかけている自分に驚いた。エヴァはぱちりと瞬きをして、もちろん、と肘にかけていたカゴを噴水の縁に置いて、中からオレンジの匂いのするクッキーを渡してくれた。





 そんな彼女の背中を見送ったあと、マルロはそっと袋をあけた。想像の通りに、甘い味のクッキーだ。かじってみると、作り方から材料まで、なにからなにまで頭の中になだれ込んでくる。おちおち味を楽しむ暇もない。ああ、つまらない。



(材料は、庭になっていたオレンジなのか)



 なのにそのことに気づくと、勝手に口から笑みがこぼれてしまった。エヴァが手を伸ばすには高すぎるから、きっとリオも手伝ったんだろう。その姿を想像して、楽しくなってしまう。



(リオも馬鹿なことを言うもんだ。いや、元はリオの兄が発端だったか)



 自分とは対照に、リオは金がないと嘆いている。もちろん、口ではそうは言わないが、金さえあれば、彼らは幸せになれるのだ。それなら僕が、と考えたとき、さすがにそのことは、リオが望むわけがないと気づいてはいた。でも、いざというときには、きっと手助けをしてやろう、そう胸の中で呟いた。せっかく自由になったんだから、唯一の友人の幸せを祈ることぐらい、自由にさせてくれ。




 それじゃあ、とポリポリとオレンジのクッキーを口にふくみつつ、ふと視線の端に気がついて首を傾げた。エヴァが持っていたはずのカゴが、ひっそりと持ち主を置き去りにして佇んでいる。うーん、と唸りながら、粉がついた指先をなめた。



「……忘れるかな? 普通」



 うっかりしすぎだろう、と思いながらも、屋敷に持っていくことにした。同じ道を通って帰るとも限らない。自分の方が、エヴァと一匹の犬と比べれば、足が速い。もしかすると追い越してしまうかもしれない。



 それならそれで仕方ない。可愛らしいカゴを片手に持って、何度も来た覚えのある屋敷の前にたどり着きドアベルを鳴らしたのだが、やはりというか、返事がなく気配もない。けれどもここまで来たわけだし、カゴを外に置いて去るのも気が引けた。ただ周囲に血を塗りたくるだけ、というたちの悪いいたずらに振り回されて、少しばかりの休憩だ。明日になればまた馬車馬のように働かされるんだろう。



 そうしてしばらく待ち人を求めていると、小さな影が門扉にたどり着いた。やっとこさ、と顔を上げると、金髪のくるくるツインテールがこちらを見ている。「げぇっ」 どちらともなく、苦い顔で舌を出した。

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