第28話
「ま、ままま、マルロさまーーーーー!」
思いっきり叫んだ。
どこにいるだかまったくもって分からなかったが、声が聞こえたということは、間違いなく周囲にいるはず。「ソルを止めてくださーい!!」 とりあえず、現状を短く告げると、「ま、まかされた!?」とどこからともなくマルロ様が飛び出した。想像以上な身のこなしで、さらりとソルを抱き上げると小脇に抱えてこっちを仁王立ちして見ている。ソルの首輪からぷらりと垂れた紐が私の手に続いている。
はっはっはっは。
ソルはとても嬉しげに舌を出して、両手両足をばたつかせているけれど、悲しいことに手足が短く地面につかない。可哀想に。とりあえず、白いもふもふを受け取りながら、ありがとうございます、と頭を下げると、どういたしまして、と相変わらず明るい顔で、マルロ様は笑った。相変わらず、とっても楽しそうな、ぴかぴかとした笑みだった。
***
「僕がいるってよくわかったね。全然目が合わないから気づかないものだと思ってたよ」
と、感心したようなマルロ様の言葉に、にっこりと笑って誤魔化した。本当はまったくもってわからなかった。私とマルロ様は、互いにお久しぶりですと頭を下げた。最後にマルロ様にお会いしたのは、ヴァシュランマーチの少し前、お塩をくれたときのことだ。
足元ではソルがころころと駆け回ってはいるものの、さすがの反省をしたのか、時折ちらりとこちらを窺いながらお尻を振っている。
「マルロ様は一体どうしてここに? お仕事ですか?」
ソルの鼻先で指先を回しながら、問いかけた。一瞬、マルロ様は表情を硬くした。しまった、と思ったときにはもう遅い。本来なら隠すべきはずであることが、彼の思考と共に流れ込んでくる。「ああ、まあ……」 彼が言葉を濁した理由がわかる。近頃、事件とは呼べないまでも、少々ぞっとする出来事があるらしい。
なんでも、そこかしこに、血が撒き散らされている、ということだった。かなり以前から、たちの悪いいたずらとして騎士団に報告されていたものの、ヴァシュランマーチが終わってからというもの、それがさらに顕著になって、とうとうマルロ様が調査のためと駆り出されることとなったらしい。
先程、店の路地裏にて大量に血痕を発見し、辟易したそうだ。真っ赤なワインは好きだが、覚えのある臭いが広がり鼻が曲がった、と彼は考えていた。そうして不思議にも思った。本当に、ただの痕跡もなく壁やら地面に塗りたくっているだけだ。店の人間が掃除が面倒だと悲鳴を上げていること以外、被害は出ていないが、それも今だけの話なのかもしれない。
だから、いつまた何かあるかわからない――――と、言う内容をマルロ様は頭の中で噛み砕き、「ちょっと危ないかもしれないから、日が沈む前に帰ったほうがいいかもね」とオブラートに包み込んだ。いたずらに不安を煽りたくはないという彼の思いやりすらも暴く自分のギフトが嫌になるけれど、今更だ。
「わかりました。お買い物をして帰る気だったんですが、遠くまで来てしまいましたから諦めることにします」
「そうした方がいい」
作ったカゴが、やっとこさ活躍できるかもしれないと思ったけれど、丁度いい。相変わらずソルはくるくると自分の尻尾を追いかけて、まるでドーナツのようになってしまっている。目前には小高い丘があった。その上には、おせっかいで、おかしな王様が、ぴしりとどこかを指して男前な顔つきだ。かっこいいと言えばかっこいいけど、私はリオ様の方がずっと素敵だと思うな、なんて自然に考えていた自分のほっぺを思いっきり叩いてしまいたくなった。
まあとにかく、ヴァシュランマーチであんなに時間をかけて練り歩いた距離を、いつの間にやら駆け抜けてしまっていた。リオ様に約束したというのに、すっかりだ。はあ、とため息が出た。ソルはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、尻尾の追いかけっこは終了したらしく、かしかしとスカートの裾を引っ掻いている。ゆっくりと抱き上げた。そうして、マルロ様にお会いしたときに、伝えねばと思っていたことを思い出した。
「そうでした、マルロ様、リオ様からソルの首輪を頂いたとききました。ありがとうございます、とっても可愛らしいです」
「そう? 会ったことはないけど、白い犬ってきいたから。よかった。ちゃんと似合ってるね」
こしこし、とソルの首元をひっかくと、くすぐったそうにソルが身じろぎする。「ちゃんと、オーダーメイドにしたから、安心してね」「あ、安心って……」 つまりとっても高いのでは、と一瞬の彼の思考を読み取り、そっと聞こえなかったフリをした。なるべく丁寧に扱おう。
今日はシャルロッテさんがいらっしゃると聞いていたから、あんまりゆっくりしている時間はない。もともと、近所を散歩して買い物をして、さっさと帰ろうと思っていたのだ。「それでは失礼します」とソルと一緒に頭を下げたときに、「ねえ、エヴァ夫人」と、マルロ様は、ゆっくりと笑った。
「ヴァシュランマーチは、楽しめたかな?」
彼が、マーチのことを教えてくれた。リオ様と、瓶の中で小さな星のように輝いて、道を照らしていた石達を思い出した。「ええ、とっても」 自然と嬉しくって、笑みが溢れた。ああよかった。心の中でそう告げる彼は、やっぱりいい人だ。
それからカゴの中に入れていた、マーチで作ってからというもの、すっかりハマってしまったクッキーをマルロ様に渡して、帰り道を歩いた。送ってくださるというマルロ様に、さすがにお仕事中は申し訳がないと断り、今度こそはとソルの紐をしっかりと引っ張った。逃すまいぞ。
子犬のくせに賢いこの子は、仕方がないと鼻を鳴らして、短い足を大げさに開きながら、ふんふんと進んでいく。帰り道はバッチリらしい。くすりと笑いを落としたとき、ふと、奇妙な声が耳についた。かすかな、消えてしまいそうな、眠りに落ちていくような声だ。
不思議に感じて、何の気なしに視線を動かした。家と家の、僅かな隙間の真っ暗闇の中で、かしゃりと、音が聞こえた。鉄がこすれるような音。誰かが何かを落としてしまったのだろうか。人がいるにしても、少し遠くて、わからない。瞬きを繰り返して、そっと近づく。ごろりと、何かが落ちていた。人の腕だ。
ひゃっと体を飛び跳ねさせたところで、腕がおちているわけではなく、人が転がっているだけなことに気がついた。先程の声はこの人のものだったんだろうか。
よくよく見ると、それは知っている人だった。こんな昼間にこの人が、まさか酔っ払ったわけでもないだろう。声をかけようとしたとき、ぬるぬるとした何かが足元を濡らしていく。
「え……」
血だ。
ぞっとした声が聞こえて、振り返った。男がいた。
それはひどく、鼻が曲がった男だった。
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