第27話

「ソル、いい? 今日はとっても大事な日なの。わかってる?」


「わふっ」


「大丈夫。わかってる。声は聞こえないけどそう言ってる。それじゃあ行くわよ!」


「わっふわふ」



 ソルの首輪に、紐の先端をむすんだ。ぴゃっと白い体を喜ばせて、あんなにも私が戸惑っていた屋敷の門を、ひょいと飛び跳ねながらくぐり抜ける。「待って、待って、待ってえー!!」 背中ではきらきらのオレンジの木がこちらを見守っている。



 小さな足の裏で地面を蹴り飛ばし、ソルは嬉しげに尻尾を振るものだから、ピンクのお尻の穴がふんすとこちらを向いている。ひゃっと視線をそらした。でも可愛い。



「う、嬉しいのね。わかった。わかってるから! すごい、聞こえなくっても気持ちってもわかるものね……!!?」



 声が聞こえない相手との対話でも、仕草でわかるものと知ると、なんだかとっても新鮮だった。私のスカートがひっくり返って、片手に持っているカゴまでどこかに飛んでいきそうだ。


 冷たい風から暖かい風に、少しずつ変わってくる。丸裸の街路樹が、ちらほらと小さな芽を抱え込み始めた。きっとお散歩日和だ。



「初めての、外でのお散歩だものね……!! とっても嬉しいのよね……!!?」




 ***




 ソルが家に来てからというもの、気づけばもう一ヶ月。短い期間だったけれど、子犬にしてみれば大きな時間だ。きっとずんずん大きくなるに違いない、とリオ様と共に見守っていたところ、特に変化のない体で、ぷきゅぷきゅボールをはみはみしていた。もしかして、あなた小さい種族なの? と屈んで聞いてみたところ、やっぱり声は聞こえなくて、代わりとばかりに、えいやあ、と首元のポプリに飛びつかれた。



(いいなあ!!)



 背後から聞こえた声が、一瞬聞き間違いかと振り返ると、リオ様が真面目な顔つきで私を見ていた。それからそそくさと消えていったので、それ以上の声は聞こえなかったのだけど、そんなにソルと仲良くしたいのだろうか。



 それはともかく、小さな犬だから散歩は必要ないらしいけど、それでもやっぱりあくまでも、という話だ。外に出て思いっきり走り回りたいという気持ちもあるんじゃないかしら、とふわふわの体を撫でながら決意して、私自身の準備の時間を含めると、一月が必要だった。



 もとは花屋で飼われていたから、初めての散歩、というと間違いだけど、私にとっては初めてなので、そういう心構えで脱兎した。



 この一月、訓練に訓練を重ねた。すでにどもりつつも買い物をすることができるレベルにまで達している。ならばあとは犬にはたまらない散歩コースの発掘だ、とできた道筋をソルに伝えた。へっへと舌を出していた。当たり前だ。通じるわけない。そうして目的とは違う道を、現在は疾走している。こうなるような気がしていた。



 一応リオ様には周囲の店で買い物をしていることと、今回の計画は伝えている。彼はびっくりと瞬いて、それから慌てて、今までの分として、「少ないだろうけど」と言いながら食費を握らせてくれた。でも私だってカルトロールからいくらかのお金を持ってきていたから、そんなのいりませんと突き返すと、「家の管理の金は俺がすべきだから、君が出すべきものじゃない」と怒ったような声で渡された。そのとき、ああよかった、と安堵する声と、心配するような二つのくちゃりとした声がきこえた。



 私が家にこもりきりで、自由にできないのではないかと心配していたらしい。でも、あんまり外に出ることも不安で、もしエヴァさんに何かあったら、と考えて、そんなことを言うにも、俺はただの他人だし、いや夫ではあるんだけど、と頭の中で唸っている。



 そんな彼の心配性が少しだけ嬉しかった。私を、ただのエヴァとして心配してくれている。くすぐったいような、恥ずかしいような気持ちで、伝えてもおかしくないような、そんな言葉を必死で捜した。



「近くに、行くだけですから」



 これくらいなら、きっと不自然ではない。買い物や、散歩に行くけど、遠出はしません。よし、普通だ。大丈夫、と自分の中で確認し直してそっと彼を見上げると、リオ様は困っていた。自分の気持ちを言葉にすることを困って、考えあぐねて、やっぱり、「危ないところには、行っちゃいけないよ」 そう言って、そっと私の手を握った。大きな手のひらだった。




 まるで家族みたいだった。必死に頷いて、約束した。なんであんなに優しい人なんだろう。本当に、心の底までぶっきらぼうで、冷たい人だったなら、きっと私も安らかな気持ちでいることができたのに。



 なんて考えている場合ではない。



「ソル、ちょっと、ま、待ってー!! リオ様との約束が!」



 遠いところには行かないと誓ったばかりなのに、一発目で約束破りになってしまう。小さな犬のくせに、ぎゅんぎゅん目当ての場所に走っていく。こちらも走らなければ、彼の首輪がひっぱられてしまう、と必死に合わせた。それがよくなかった。意外なことに自身の健脚が悪い。どんどん見知らぬ場所まで駆け抜けて行ってしまう。



「そーるー!!!」 



 悲鳴を上げているときだ。






(エヴァ夫人、なにしてんの?)



 聞き覚えのある声が、耳をかすめた。

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