第26話

 リオ様のもとに輿入れして、気づけば半年が過ぎた。



「ソル、持っておいで!」



 ぽん、と投げたボールを、ソルは必死にジャンプした。もふもふな体を必死でひねって、あと一歩のところで間に合わず、庭の合間にころんと転げた。悲しげに鼻を鳴らしている暇もなく、すぐさま飛び跳ね、木の幹にぶつかったボールをキャッチする。はぐはぐ噛んでみると楽しくなってきたらしい。ボールごと転がって、どんどん遠くなっていく。ふくっと吹き出したように笑ったのは私じゃない。



 振り向くとリオ様が口元を押さえていた。そうして気まずげに視線をそらす。ヴァシュランマーチが終わってからというもの、気づくとリオ様は以前よりも言葉が優しく、というか、無理をすることをやめたらしい。でもときおり、金がないと嘆いていて、そう思うことにも恥じているらしく、苦しげな心の声が聞こえた。でもそんなそぶりをこちらに見せることはなく、いつも自分の中で飲み込もうと必死になっていらっしゃった。



 だから本人としてみればケジメをつけたいらしいけれど、気づけば普段の調子で言葉が出ていて最近はすっかり諦め気味だ。本当のリオ様は、垂れた眉が可愛らしいのだ。ソルのふるふるしたお耳みたいな。





 ソルは、リオ様がもらってきた子犬だ。


 午後からのお休みをもらった際、もう少しばかり庭を明るくしようと思いながら、以前に花を買ったおばあさんのところに向かってみると、すっかり露店はなくなっていて、子犬と一緒にぼんやり途方にくれていたらしい。不思議に思い、リオ様が話をきいてみると、年齢のことを考えて、そろそろ店じまいをして娘の元へ行こうという話になったものの、子犬を連れて旅はできない。だからお別れを考えていたけれど、親犬との思い出もあり、中々踏ん切りがつかなかったところを、リオ様が名乗り出たのだ。



 ソルと一緒に帰ってきたその日、リオ様の心の中は腕の中の子犬以上に縮こまっていて、そのくせそんな事情は口にしないで、(エヴァさんは犬が好きだと言っていたけど、さすがに相談もなしにはまずかったよな。いやでもこいつも困ってたし、まずはひとまずうちに置いてもいいだろうか) と必死に頭の中をぐるぐるさせながら固まっていたので、笑ってしまった。


 なので、教えてあげることにした。



「私、犬はとっても好きです。男の子ですか? 女の子ですか?」



 私の言葉に、彼は大きく目を見開いた。それから、ぱあっとリオ様は表も裏も明るくなって、「オスだよ」と笑った。いつもは無理をして眉を顰めている彼が、屈託もなく、今までで一番の笑顔を向けたから、さすがに、とてもくらっとした。「わ、私、い、犬は、好きなんです……」 思わず二度目に呟いてしまった私のセリフに、リオ様は首を傾げていらっしゃったけれど、言葉を変えさせていただくなら、犬(リオ様)が好きなんです。



 まだ子犬だったからか、ソルはリオ様の腕の中でお行儀よく待っていて、そっと下ろすと人懐っこい様子でこちらの周囲をくるくる回った。真っ白でもふもふな、綿毛みたいなその子はとっても可愛くて、今では庭の端っこに立派な犬小屋が建っている。リオ様の手作りだ。彼の意外な特技だった。



 名前をつけるには苦労したけど、今では肌身離さず持っている、リオ様からいただいたお花を塩につけこんだポプリがとても好きで、ふんふん嬉しげに尻尾を振っていたから、この名前になった。ソルトとしてしまうと、とってもしょっぱそうだったので、少しだけ省いたのだ。




「ソル、ボールを持ってきて」



 あれからしばらく経って、初めは以前の飼い主を思い出してか時折、寂しげな顔を見せることもあったものの、今ではすっかり慣れてしまった。私の声に、ソルは垂れた耳の代わりに短い尻尾をぴんと立てて、慌ててこちらに戻ってきた。ボールをはみはみしているから、ぷきゅぷきゅ可愛い音が聞こえている。



 ちなみにソルの首輪はマルロ様からの贈り物だ。私にはお塩をくれたから、リオ様へのお祝い品になるらしい。10ヶ月の法律を待っているリオ様からしてみれば、複雑な心の声をしていたけれど、若草色の首輪はとてもソルに似合っていて可愛らしかったから、素敵ですねと告げたところ、まあいいか、とソルに首輪をつけてみた。そうするとまるでふわふわのぬいぐるみが動いているようで、二人して笑ってしまった。




(……あと、半年)



 本当は、半年を切っている。楽しい思い出ばかりが膨らんで、ふと、悲しくなった。そうしていると、ソルが思いっきりこちらにかけつけて、私の上に飛び乗った。



「ふわっ!?」


「エヴァさん!?」



 目の前が真っ白に覆われた。慌ててリオ様がソルを持ち上げて、「だ、大丈夫か!?」「は、はい……」 ソルは何の反省もなく、へっへと舌を出して、リオ様に尻尾を振っている。それからうんうん唸りながら両手をばたつかせるから、リオ様が困って彼を放すと、さらにソルは私の上に飛び乗った。目当てはポプリだ。最近は、いつも首元から布の袋の中に入れて吊り下げている。



「だ、だめだめ!」



 いつもの流れに、必死で体を遠ざける。リオ様からもらった大事な花ということもあるけれど、塩は犬にはよくないはずだ。ソルに届かないようにと立ち上がると、彼はとっても悲しそうな顔をしていた。もとは花屋で飼われていた犬だから、お花の匂いが好きなのかもしれない。それも、彼の元の飼い主から買った花だ。



「本当にソルは鼻がいいわね……犬にもギフトなんてあるんですか?」


「ど、どうかな。きいたことはないけどな?」



 後半はリオ様に問いかけてみると、彼は苦笑しながら首を傾げた。どれだけ隠してもわかるのだから、困ってしまう。もう、とふわふわの体を掴んで持ち上げた。そうすると、わふわふ、と嬉しげに尻尾を振っているけど、この子の声はきこえない。当たり前だ。ジョンだってそうだった。ソルよりも大きな体で、立派な、リオ様みたいな毛並みをした犬だった。小さなころは、彼が私の遊び相手だった。



 ―――動物の心の声はきこえない



 なんで忘れていたんだろう。いつもジョンといるとホッとした。時折一緒に屋敷を抜け出して、お父様に怒られた。(あれ……?)



「エヴァさん?」


「あ、いえ、はい!」


「どうかしたのかい?」



 ソルを抱きしめたまま、ぴたりと動きを止めてしまったから、リオ様から心配げな声が、心の中から漏れている。なんでもありません、と慌てて首を傾げた。それからもう一度ソルの柔らかい毛をほっぺたに味わって、何か大事なことを忘れているような、そんな気がした。でもそれもただの気のせいかもしれない。きっと、そうに違いない。

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