第23話

 ――――エヴァさん




 聞こえるはずがないのに、彼の声が聞こえた。周囲を見渡そうにも、カボチャの頭が邪魔をする。リオ様がいたらいいのに。そう願ったのかもしれない。だってリオ様に会いたい。リオ様と一緒に、お祭りを回りたかった。


 とってもとっても、楽しみにしていた。



「リオ様!」




 叫んだ声は涙まじりで、情けない小娘の声だ。何を言っているんだ、と酔っぱらいの男は呆れたような心の声を出しながら、「はあ?」と首を傾げた。それから相変わらずぱこぱこ私の頭を叩き直して、「まあいいや」と両手で持って、すぽんとカボチャの頭を持ち上げた。と思った。



「すみません、俺の妻が何か」



 力強い手のひらで、リオ様が男性の腕を掴んでいる。見間違いかと思った。けれども間違いなわけもなく、リオ様は肩で息を繰り返して、お祭りだというにも関わらず、お面もなく翠の瞳でじぃっと相手を睨んでいた。



 彼の性根はとても優しくって本当は小型のわんこのようだけど、見かけは巨人で迫力がある。相手の人も一瞬酔いが覚めたような顔をして、リオ様を見上げながら、ひゅっと息を飲み込んだ。それから空になった自分のコップを見て、「……あ、ああそうだ! されたんだ!」 ハッと思い出したらしい。



「あんたの……嫁? カボチャ? がいきなりぶつかってきたんだよ。見てみろ、俺の大事な酒が地面にべしょべしょだ」


「エヴァさん?」



 確認のため、こちらに声をかけられたことが分かったので、慌てて急いで頷いた。もとを辿れば、圧倒的に私が悪い。そうでしたか、とリオ様は顎をひっかいて、ゆっくりと頭を下げた。「ご不快な思いをさせ、大変申し訳ありませんでした。酒はもちろん弁償します。すみません、瓶をひとつ」 息をする間もなく、リオ様は露天の店主に目配せすると、あちらも機会を窺っていたらしく、「あいよ!」と男の前に差し出した。



 お代を払って、それじゃあ、と私の肩に手を回した。呆気にとられていた男が、「ま、待てよ!」 叫んだ。落とした酒よりも、いい酒を手に入れたものの、あっという間の流れに次第と腹が立ってきてしまったらしい。



「弁償しろとか、そういう問題じゃねえんだ。こっちは祭りを楽しんでいたってのに、そこのカボチャに水をさされたんだぞ。金の問題じゃねえよ」



 じゃあどうすれば、とリオ様と私の困惑が伝わったらしいけれど、もらった酒を手放したいわけではない。一拍の間の後で、「ほら、あんた!」 自分のコップに、なみなみとお酒をついでいく。「あんたも飲め! こりゃもう俺の酒だ。俺のもんだぞ。だから好きに使わせてもらう。せっかくのヴァシュランマーチだ。落ちた酒は、あんたが飲んだんだと思ってすっきりさせらあ」



 わかるような、わからないような。ただ抜いた鞘の収めどころを捜しているらしいけれど、お酒を目の前に出された瞬間、動かない表情の向こうで、リオ様がぎくりと肩を震わせた。そうだ、リオ様はお酒が飲めない。「なんだ、これくらいで終わらそうってんだ。いい話だろ、さっさと飲めよ」 ほら、と男がコップを持ち上げる度に、水面が揺れている。「飲まねぇってんなら、俺は叫ぶぞ。暴れてやるぞ。言っておくが、俺は酔っ払いだ、怖いもんなんて何もねえ。騎士団が来るまで暴れ狂って叫んでやる」 いえ、目の前の彼がそうです、なんてことも言えない。



 どうしよう、と両手を合わせて、違う違う、と首を振った。お酒はまだ飲んだことはないけれど、私だって、もう18の成人だ。もとはと言えば私が馬鹿なことをしたからだ。「い、いただきますっ!」 跳ねながら彼らの間にあるコップをかっぱらった。素早い動きをするカボチャだなという周囲の心の声を聞きながらもほんの少し重たい頭を持ち上げて、隙間から流し込む。おいしくない! という感想の準備をしていたはずが、さらに手元を奪われた。ごきゅりとリオ様が喉を鳴らす音が響く。


 ぷはっと彼が口元を手の甲で拭った。



「ごちそうさまです」



 いただきました、ありがとうございます、と長い体を折りたたんで頭を下げた。男の人はそんなリオ様を見て、満足げに笑いながら彼の肩をぺしぺし叩いた。「良い飲みっぷりだ! それじゃあ、よい夜を!」 カボチャの嫁さんもな! と手を振りながら、戦利品の酒瓶を抱えて人混みの中に消えていく。なんだったんだ、という周囲の視線も次第に消えて、マーチの道が動き始める。


 けぷっとリオ様が赤い顔で、肘で口元を覆った。



「あ、あの、リオ様……」


「はい」



 彼は鼻をすすりながら返事をしたけれど、案外焦点はしっかりしている。一杯こっきりとは言えど、酒に慣れないはずの彼だ。心配になるのは仕方ない。



「り、リオ様、お酒は飲めないんじゃ……」


「飲めないことはない。でもあんまりよくないんだ。気が大きくなってしまうから。フェナンシェットの男はみんなそうなんだ」



 うん、よくはないんだ、と言葉を繰り返して、顔を手のひらでこすっている。少なくとも、平常の状態ではないのかもしれない。すっかり一人称が俺に変わって、元のリオ様に変わっている。上っ面の愛想の悪い彼はすっかりどこかに消えていた。うん、うん、とリオ様は一人で何度か頷いて、うん? と首を傾げた。彼の疑問の心の声をきいて、しまった、と自分の口元を押さえた。そうして、リオ様は私を見下ろした。




「――――俺、酒が飲めないって、エヴァさんに言ったっけ?」


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