第13話

 今日も今日とて、パンからいい匂いがする。


 朝起きて、窓を開ける。日に日に冷たくなる空気を頬で感じて、ううん、と伸びをした。さて、本日もパンを焼かないと。




 初めてリオ様に朝食を作ったとき、彼は心の中でこっそりと、もっと焼いて欲しい、と思っていらっしゃったから、少しずつ量を増やして、どうしたものかと色々と模索した。一ヶ月半も経過した今、そろそろリオ様がご満足いただける具合になったのではないかと我ながら満足の出来栄えだ。




 屋敷の離れで一人きりで食べる朝食よりも、今の方がずっと楽しい。リオ様も、心の底ではそう思っていただけているようで、互いに残りの日数を指折り数えて、たまのため息をついていた。(いち、にい、さん……) リオ様の声だ。うんうん、と頷く。(あっ。もう少しか) なんのことだろう、と思わず視線が上がりそうになったけれど、気にしてはいけない。ナプキンでそっと口元をふいてごまかす。




(配達屋が)


 はいたつや?


 こっそり彼を見ると、うん、と一人でうなずいてリオ様は顎をひっかいた。「すまないが」 私に対しての言葉だ。ここでやっと、きちんと彼を見ることができる。「なんでしょうか?」


「近日中に訪問者が来る。もともと2ヶ月に一度の契約で、日持ちのするものをこの場で作ってくれるんだが、悪いがその対応を――――」


「えっ。嫌です」



 最後まで言い切らずに首を振ってしまった。




 さすがのリオ様も緑色の瞳をぱちくりしている。とてもびっくりしている声も伝わる。けれどもここだけは譲れない。「見ず知らずのお方とお会いするのはできません。申し訳ありませんが、お断りさせていただきますっ!!!」 思いっきり叫んだ。





 これでも長く引きこもり生活を続けていない。


 この間のマルロさんのように唐突にやって来たのならばともかく、確認されたからには首を振らねばならぬという奇妙なプライドがここにあった。なんでもかんでもいいですよ、と返答して生きてきたけれども、これだけは譲れない。



 これでお父様のように有無を言わさぬ迫力やら、強い心があればリオ様は私に勝つことができたのだろうけれど、彼は想定外の私の反応に、無表情のままにぴしりと顔を固まらせて、心の中では小さな犬がしっぽを垂らしてふらついた。ついでに滑り込むようにおなかを見せていた。びっくりするほどの敗北宣言だった。




 そもそも、リオ様のお心を読んだところ、配達屋とは騎士団と契約している、良心的なお値段で食事を提供するお仕事らしく、家の中に妙に保存食が多かったことと、お屋敷の至るところが埃だらけになるほどお忙しいリオ様が今まで食をないがしろにせず生きてくることができた疑問がとけた。ついでに、初めからキッチンだけは綺麗な理由もなんとなく見えてきた。食材を持ち込んで、その場で相手に合った料理を作ることができる、スペシャリストなのだそうだ。



 とは言っても、今は私がいるのだから、別に食事を作ってもらう必要はない。食材ならリオ様が作ってくださったお野菜だとか、こちらも定期的に運ばれるお肉やらの宅配で事足りる。宅配屋なら扉越しにお金を渡すだけでも済むのでそこまで負担はないし。


 家の中に入ってきて、そこでお話するとなると別問題。私の心が砕けてしまう。ノーセンキュー、です! と目の前にばってんを作った。まあ確かに、リオ様自身も契約の解除をすっかり忘れていただけだったようで、その場は平和にお話が終わった、と思った。


 けれども数日後、ドアベルがちりちりと屋敷の中に鳴り響いたのだ。宅配にしては時間がおかしいし、誰だろうと恐る恐ると小窓越しに窺ってみると、小さな影がぴこぴこと背伸びをして踊っている。迷子だろうか。



「あ、あの……?」



 彼女ははやく開けて欲しい、としきりに考えている様子で、困っているなら大変だ。そっと扉を押すと、まるで鬼のような早さで少女はその小さな足をドアの隙間にねじ込ませた。「ひ、ヒイッ!」 ピンクの靴がこんなに恐ろしく思う日が来るだなんて。ついでにににょきりと手が生えた。怖い。くるくるした大きな瞳が瞬間的にこちらを捉えた。



「あなた、リオ・フェナンシェット様の奥方様ですの……? わたくし、シャルロッテ、と申しますわ。配達屋を行っております。貴重なお得意様は、決して逃しませんことよ……!!」



 バンッと扉を開きながらこちらを見下ろす金髪の少女を、私はひいい、とへたり込みながら見上げた。はたはたと、彼女の短いツインテールがはためいている。私を見て、シャルロッテはにかりと笑った。尖った八重歯が覗いている。








 ――――それはまるで、恐怖の来襲だった。

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