27.《言葉は、それだけで大きな武器となる》
遅いな、とジナイーダはカーテンを少し持ち上げて、窓の外をのぞき込む。
彼女の部屋は五階建ての寮の三階にあった。高くもなく低くもない。その中の、一番出口の階段からは遠い部屋が、彼女達姉妹の部屋だった。
帰ってくれば、常夜灯の灯りの中に、姉の姿は見えるはずだ。だがその気配はない。もう門限が近いというのに。外泊するならするで、連絡をしてもいいのに。だけど電話番のアナウンスは聞こえてこない。
ぼんやりと、やがて彼女は視線を遠くに飛ばす。街の灯り。やや高台にあるこの学校の寮から見える夜景は美しい。
ぼそぼそと、アンテナを長く伸ばしたラジオからは、乱れた電波の中に時々やや変わったイントネーションが混じる。他州の放送だ。カシーリン教授が「放送の力」で紹介していた、「外の情報」。
彼女がカシーリン教授のことを知ったのは、まだバウナンの高級中学に居た頃だった。
学校は、六年間の小学校の上に、四年制の初級中学と、二年制の高級中学があった。
高級中学は中等教育機関というよりは、高等教育機関への予備教育機関としての役割が大きい。だからそこではスキップが可能だった。
その頃から、姉は学校では派手な存在だった。
そして自分は、確かに成績はいいが、それだけの存在のような気がしていた。
抜きん出ているのは、普通の学科一般と、多少の文章表現だけ。姉とは違う。ヴェラは当時から、演劇部に属し、いつもその場の中心的存在だった。
同級生も先輩も、姉を誉める。それは別に悪い気持ちはしない。それでも、いつもその言葉の脇には、その時期トップクラスに居た自分の席次のことも告げられるのだから。
ヴェラと自分は違うし、違う能力をもっているんだから、とジナイーダは思ってきた。ともすれば、それだけの存在、と思いがちな自分を何とか納得させてきた。
だが、無理矢理押さえつけている心には多少のひずみが生じる。ひずみはやがて不安というものに形を変える。
だが何の不安なのか、それがジナイーダには判らなかった。
ヴェラは自分を何かと守ろうとしていたような気はする。そんな態度は、見ていれば判る。例えば寄ってくる軽薄な男子学生、例えば怪しげな新入生狙いの勧誘、世間知らずの妹を常にかばってきたことは判る。
だけど。
彼女は思う。本当にそれだけだったのかしら?
高級中学で、一年スキップした時の表情は、なかなか忘れられないものがあった。
驚いたのか、焦ったのか、失望したのか? そのどれともとろうと思えばとれた。ただどれとも取りたくはない自分が居る。それは知っている。
そして進学の時、入学資格試験に二人して受かった時、姉は自分がこのシェンフンに来るのを反対した。
ヴェラは自分にそう言った訳じゃない。両親に言っただけだ。
姉さんはこう言っていたけど、あんたはどうする?
母親が、そう自分に告げた。
何故だ、と思った。その、それまでぼんやりとしていた姉に対する疑問が、形を持ち始めた。
守っているのか、隠しているのか。それとも。
聞きたい。
だけど聞けない。彼女は怖かった。
その頃、カシーリン教授の本を手にした。本当に偶然に手にしたのだ。
「言葉の力」というタイトルの堅さに似合わない程、少女の向けのエッセイ集にしか見えないそれは、彼女の欲しかった言葉をくれた。
《言葉は、それだけで大きな武器となる》
目に見える鮮やかな姿でなくても。直接触れることのできないものでも。
それは、使いようによっては、それらよりも、効果的に、物事の芯を捕らえ、そして目的を達することができるだろう。
抑えて書かれた文章は、その中に危険なものを感じさせた。 と。
かつん、と窓に軽く何かが当たる音がした。ジナイーダは何ごと、とそれまで夜景を眺めていた視線を下界に落とした。
ひらひら、と誰かが手を振っている。一階の部屋の灯りが、その人の表情はともかく、一目見たら忘れられない程の長い髪を映し出した。
あ、と彼女は慌てて部屋を飛び出し、三階分の階段を駆け下りた。勢いよく駆け下りていく彼女に、珍しい、と寮生達は不思議そうに眺める。
息せき切って出口へと向かい、慌てて外へ飛び出すと、いつもの笑いを浮かべて、キムが一人、立っていた。
「こんばんわジーナ」
「ど、どうしたの? キム君…… こんな時間に」
「こないだの、もう大丈夫?」
彼はジナイーダの問いには答えずに、あいさつとも何とも取れる言葉を彼女に投げる。ふと彼女は彼の胸元に目を止める。きらきら、と銀色にペンダントが光っている。それが時々何かの拍子で揺れる。
「ええ…… もう大丈夫だけど…… あ」
そういえば、と先日のことを思い出して、彼女は一気に自分の頬が赤くなるのをおぼえる。気がつかなかったのが良かったのか悪かったのか。
「この間は、ありがとう」
「いえいえ」
彼はまたひらひら、と手を振る。
にこやかな笑顔。何とも思っていなければいいけど、とジナイーダはやや不安になる。そして先ほど聞いたのに答えてもらえなかった質問を繰り返す。
「今日は…… どうしたの? こんな時間に……」
「ん? 今暇かな?」
「暇は暇だけど、もう門限よ。ヴェラを待っているの。まだ帰ってこないのよ?」
「でも演劇部にはよくそういうことはあるよね?」
「あるわ。だけどそういう時はいつも、彼女、ちゃんと連絡をよこしたから……」
「うんうん」
彼はそうだろう、と言いたげにうなづく。その拍子に、ペンダントが揺れた。銀色が、彼女のまぶたの中にゆるい軌跡を描く。
何となく、彼女の中に、ひらりと裏返るものがあった。
「心配?」
キムはそんな彼女の一瞬の戸惑いなど気付かないかのように訊ねた。
「心配…… はしていないけど…… ヴェラのことだから、そうそう馬鹿なことはしないだろうし……」
「ねーさんは、あなたのこと心配していたよ。ジーナ」
はっ、と彼女は顔を上げた。目の前の相手の顔には、変わらない笑みがある。
「聞いたの? 彼女から」
「聞いたよ」
「いつ? 何を?」
急かされるような気持ちで彼女は言葉を飛ばす自分に気付く。
それが何故なのか、彼女にはよく判らなかった。自分のことを勝手に話されたことになのか、ヴェラと彼が会話していたことになのか、それとも。
「さっき」
「さっき?」
彼女は自分の背中がすっと寒くなるのを感じた。いや背中だけではない。腕が、首が、急に何かざわり、とする感覚に満たされる。
「……ちょっと待って」
瞬き。首を軽く振ってよく考える。目にちらちら、とペンダントの光が、うるさい。
「……ヴェラとさっきまで、居たの?」
「居たよ。俺と、俺の友達と、それと」
そしてジナイーダは耳を疑った。
「カシーリン教授と」
え? と彼女は問い返す。目を見開く。
その時、彼は胸元のペンダントを持ち上げると、ぱっと彼女の目の前で開いた。
きらきら、と一階の光が、銀色に反射して、彼女の視界を奪う。揺れる、揺れる、揺れる……
ぐらり、と頭の芯がゆがむ。
「言っておいで。自分とねーさんは、外泊するから、と」
ジナイーダは口を開けられない自分に気付いていた。頭はうまりにも自然に、うなづきを返していた。
ふらり、とその足は入り口の寮管室へと向かう。当番に、口は、勝手なことを言っている。急すぎる、と渋い顔をする「今日の当番」に、平気な顔で、何とかしてよ、とその口は喋る……
……あたし、じゃ、ない……
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