5.学生達は「文学」というヴェールをかぶって自由を語り、「演劇」という仮面をつけて事実を口にする。

「あれとグラーシュコは、ここの公用語とキリールを簡単に使えるからな。あまりそういう奴がいないってのは人材も不足したもんだ」

「まあ俺もそういうふれ込みで異動させられたことになっているからねえ」


 キムは中佐のベッドの前まで、勉強机の椅子を引きずり出し、反対向きに座る。背もたれに両腕を乗せ、にんまりと笑ってみせた。


「それで、あんたの方はどうだったの?」

「ふふん。実際の舞台を踏む訳にはいかないがな。あそこへ通う理由は充分ってことだ」

「道化師の役だっけ?」

「まあな。お前こそ、とっかかりが何とかなったようだな?」


 そう言って中佐は、それまでキムが読んでいた本を指す。


「まあね。カシーリン教授の授業を受けてるって言ったら、結構簡単に」

「カシーリンか」


 ずず、と中佐はトマトジュースの最後の一滴まで吸い込み、そのままゴミ箱へと放った。空になったパックは、ぱこ、と気の抜けるような音を立てる。


「エラ州内で、現在反体制側と見られている奴らの先頭に立っていると思われるのは三人」


 中佐はつぶやく。


「中央大学の文学部のカシーリン教授、附属病院のシミョーン医師、それに数年前司政官から、一方的に退職勧告を受けたブラーヴィン司法委員」

「ブラーヴィンは今キア州よりのコソンに居るんだろ?」

「ああ。だからそっちには別の連中を行かせている。歳のいった奴でも大丈夫だからな。全くもう、この年齢って奴には参ったもんだ」


 キムはそれを聞いて苦笑する。


「そもそもあんたがその役をできるあたりが不思議だけどね。不審がられたことないの? その地位のわりに若く見えるって」

「さあどうだかね。まあ俺が純粋な生身じゃないことくらい、軍内の誰だって知ってるだろ?」


 そう言って中佐は、灰皿に置いた煙草に手を出した。既に半分燃え尽きている。灰を落としてくわえると、彼は大きくそれを吸った。

 それを見ながらそうだね、とキムもうなづいた。戦歴が華々しいと言ったところで、無傷で帰ってきてる訳じゃない。そのたびに失ったところを埋めている、と言えば、それは疑われることはまずない。

 尤も、彼が軍にその名前で入ってきた時、既に殆どを失っていたことについては、誰も知らないのだが。


「ソングスペイとグラーシュコは上手くシミョーン寄りの人間に近づけたかな」

「近づけなくては意味がないだろう?それに奴は絶対近づくはずだ」


 中佐は煙を吐き出す。そうだね、とキムはうなづいた。


「奴は、コンタクトするはずだよな。マジで参加するためにさ」

「全く」


 コルネル中佐はそう言って、キムを手招きする。

 彼はその手のまま、ベッドに寝転がる中佐の脇に腰掛けた。中佐は煙草を灰皿に押しつけると、その手をキムの腰に伸ばした。彼もまた体勢を変える。栗色の編んだ髪が極彩色の上にざらりと落ちた。

 その髪の毛の間に手を差し入れて梳こうとしたら、彼は自分の手が止められるのを感じた。

 キムは笑みを浮かべると黙って首を振り、自分で止めていたゴムを抜き取った。さらさらとした長い髪は、重力に従う。

 乾いているな、と中佐は思う。時々キムの笑顔は、貼り付いたようなものになる。彼は何となく引っかかるものを感じたが、その正体が何やら掴めないので、とりあえずそれは保留としている。本当に判るべきものなら、その時はいつかやって来る。少なくとも自分が気にしているのなら。

 接近する唇がつぶやく。


「あんたさあ、どっちかが逆スパイだって踏んでる?」


 ああ、と中佐もまたつぶやく。

 各家庭の電話に盗聴器が取り付けられていることは、学生の間で当たり前のように語られているから、彼らも知ってはいる。

 本当の言葉は、直接会って、相手の顔を確かめながらというのが、彼らの常識だった。

 情報の統制と、発言の不自由という空気がこの州内には漂っていた。

 学生達は「文学」というヴェールをかぶって自由を語り、「演劇」という仮面をつけて事実を口にする。

 学生達は寮内にそれぞれラジオを持ち込み、外の情報を得ようとする。周波数を合わせ、外の声に耳を傾ける。この部屋にも無論あった。

 最も綺麗に電波が入るのは、この州内の放送であるが、近隣の州の電波も捨てたものではない。乱れるノイズの中、学生達はヘッドフォンをぎゅっと耳に押し当て、本当の情報を手に入れようとする。

 ―――何せこの州で現在流れているものと言えば。 

 そして接近して確かめ合う言葉が、一番確実なのは皆判っていることである。学生のフリをしている者にとっても、それは有効だった。


「で、どっちだと思う?」

「お前は?」


 相手との位置を器用に変えながらも、中佐の言葉はあくまで冷静だった。そしてその受け手も。


「7:3でソングスペイかな」


 キムは答える。


「何で」


 中佐は短く問い返す。目線を天井に飛ばしながら、キムは端からはぶつぶつと言ってる程度にしか聞こえない声を出す。ゆっくりと手が相手の背中に回る。


「上手すぎるからね。言葉が。と言うか、宿舎でぶつかった時、ここの言葉で『すみません(Извините)』が出た」

「なるほど。実はここの出身、ということもあるか」


 キムはうなづく。


「俺耳いいのよ。それに結構判断力もね」

「自分で言う奴の言葉は信用ならんがな」

「あれあんた、信用してたの?」


 中佐はその言葉に肩をすくめ、片手でぷつぷつとボタンを外していく。

 負けじと相手もまた、極彩色のシャツに手を伸ばしている。中佐は面倒は嫌いだったので、それはそれとして動きには逆らわない。


「それであんたはどうなのよ。どっちがそうだと思ってる? 軍に居ながら我らが組織に加入してなおかつその顔をしながら、ここに起こるべくして起こる反乱を阻止しようなんて奴」


 彼はにやりと笑った。言い回しがこの連絡員の、今回の仕事の目標に対する呆れ返りを物語っている。


「だったら最初から軍の仕事だけを素直にやっていりゃいいものをな。労力の無駄だ」

「全くだよね…… っと」


 連絡員は目を細めた。


「それに…… してもさ、あの時のソングスペイとグラーシュコの顔ったら、笑いをかみ殺すのに大変だったよ」

「いやに仏頂面をしてると思ったら」

「……我慢してたんだよ。笑っちゃ可哀相だと思ってね」


 ふうん、と中佐は両眉を上げると、相手の髪を手に巻き付けた。

 表情からして、引っ張られる感触は嫌いじゃないらしい。

 不思議なものだ、と彼は思う。そうされるのは嫌いじゃないくせに、それをかき上げられるのは嫌う。

 最初からそうだった。中佐はこういう時の相手が嫌がって見せることをするのは大好きだったが、本当に嫌だと思われることはしなかった。そのくらいの見極めはついていた。

 まあいいさ、とそのたび彼は思う。


「何かすげえ、気の毒に、と言いたそうでさ。あんたそれ知ってたでしょ」


 中佐はそれには黙って、口を塞ぐことで答えた。

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