3.金色の瞳の客員団員の登場
部室の扉を開けると赤い髪が視界に入ったので、彼女は思わずぽかんと口を開けた。音に反応してこちらを向いた相手と、思わず目線が合う。
金色の瞳。
そして彼女の口からとりあえず出たのは、こんな言葉だった。
「禁煙よここは」
ヴェラはそう言ってから大きく眉を寄せた。
「何処にもそんなこと書いてないがな?」
男は口の端から煙を漏らしながらくくく、と笑う。
この部室は、新校舎が立つ前は油絵専攻のアトリエだった場所だけに、入り込む陽の光の量は多い。この時間、東日に、男の髪はいっそう鮮やかに赤く見える。
「書いてあるわよ。それが読めない?」
そしてまた、こちらを向く相手の、見慣れない金色の瞳にも内心どぎまぎしながら、彼女は男の背後を指さす。
見慣れない。そんな瞳、彼女は今まで見たことがないのだ。猫のようだ、と一瞬思い、次の瞬間、猫は猫でも、絶対可愛らしい猫ではないわ、もっと馬鹿でかい猫だわ、と思い直す。
そんな彼女の思いはともかく、あらら、と男は自分の背中にある掲示物を振り返ると、次にふうん、という表情をし、肩をすくめた。
そして一度大きく煙を吸いこむと吸い殻を床に落とし、ぎゅ、と踵で潰す。男は顔と口元をひゅっと上げると、低くはない、微妙に響く声で彼女に話しかけた。
「悪かったねえ。てっきり俺はこいつは飾りかと思ったんだがなあ」
「飾りじゃないわよ」
彼女は腕を前で組むと、内心の動揺をその腕で押し隠して、つかつかと男の前まで歩み寄る。
男は手の甲で自分の背後の張り紙を叩く。そこにはラテン・アルファベットで
「だってここの公用語じゃないしねえ。だったら何か意匠科の奴が作ったロゴタイプかなとか思うけどな?」
う、と彼女は思う。確かにそれは言えてはいる。何故ならここの公用語はキリール・アルファベットで書かれているのだから。
形は似ていても、Aは
だが痛いところを点かれたからとて、素直にああそうですかと言えないのが彼女の性格である。
「かぶれている奴が多いって、そう言いたいの?」
外の文化に、とヴェラは含みを入れる。別に、と相手は興味なさそうにつぶやくと、腕を背もたれに放りだし、再び椅子に身体をどっぷりと沈めた。
「それはいいけど、あんた誰? 綺麗なおねーさん」
彼は手持ちぶさたの様に指を動かしながらヴェラに訊ねる。よほどヘヴィスモーカーなのだろう。確かに吸っている格好は実に様になっていたが。
彼女のまだ知らない、強い匂いがまだ部屋の中に残っている。
この匂いのせいだ、と彼女は思う。どうも初めっから気圧されている。調子が出ない。このあたしとしたことが!
「あたしはここの部員よ」
「ああ、女優さん」
「そういうあなたこそ何よ。見ない顔じゃない。部員の誰かに用なの? 全くの部外者だったら出て行ってよ」
「んー? あんた俺のこと聞いてないの?」
金色の瞳が、ひどく意外そうにゆらめいた。
「聞いていないって……」
「だって俺呼んだの、あんた達だろ? 今度の公演で人数が足りないって」
「あ」
ヴェラは反射的に声を立てていた。
「あなたまさか、今日来るっていう客員団員……」
「当たり」
ああ…… と、思わず彼女は手のひらで自分の額を打った。
確かに部外者が今日ここに居るなら、その可能性は大きかったのだ。なのに、どうして考えつかなかったんだろう。
ああそうだ、もう一つのことに気を取られていたからだ。彼女はため息をつく。
「まあおねーさん座らない? 何かずいぶんと疲れてるように見えるけどねえ?」
「余計なお世話よ!」
ヴェラはくくく、と含み笑いを立てる彼に背を向けて、部室内の簡易台所へと向かった。
別に今日彼女はお茶当番という訳ではなかったが、どうもあの男の近くで他の部員を待つ気にはならなかったのだ。
ああ全く、と内心ぼやきながら、彼女は落ちてくる長い前髪をかき上げた。
どうもさっきから調子が狂って仕方がない。妹にしたってそうだ。……いや妹の反応は予想ができた。予想通りだったから、苛立ってているのだ……
十分ほどして、部員が一人二人と入ってきて、やはり珍しい格好のこの客員団員に対して、どうしていいのか判らない、という表情を見せた。
「一体誰が彼を呼んだの? モゼスト?」
ヴェラはやや視線を上げると、部員の一人であるゾーヤに訊ねた。
彼女は鉄色の固そうな髪を襟よりやや長く伸ばした、灰青の瞳を持つ社会学群の一年先輩の女子だった。
「いや部長じゃない。呼んだのは部長だけど、紹介したのは、編集長だ。少なくとも私はそう聞いている」
「イリヤ?」
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