④ 夜の言葉 その2

 ああ、と彼は至近距離にある相手に向かってうなづいた。言葉は読み違えてはいけない。


『すぐに判ったのかい?』


 彼も彼で、同じように、音の無い声を発する。口の動きだけが、その内容をお互いに伝えるのだ。そしてその口調は、上官に対するものではない。対等な相手に対するものが、その中には含まれている。


『わざと負けたな? 俺に手を出させるために』

『わざとじゃないさ。あんたは強い。俺なんかよりずっと。タフだね、あんたは』


 は、と中佐は口の端で笑う。

 そしてようやく、手から手が放される。途端、それまでその皮膚を通して干渉しあっていた識別信号が途切れた。彼らの正体を示す唯一のものである。


「何をするつもりですか」


 音声で、彼は中佐に訊ねる。


「何をって? 無論、想像の通りのことだろう?」


 やはり音声で中佐は答える。これは聞かれてもいい部分。なるほどね、と彼は首を傾ける。それまでどっぶりと枕の中に浸かっていたような中佐の上半身が、急に跳ね上がる。


「そういう意味で来たんだろう?」

「上官の命令でしたら」


 くくく、と中佐の口からそんな笑いが漏れる。この場所において、言葉は二重に存在する。聞かれてもいい言葉と、聞かれないための言葉。

 くるり、と中佐は身体を反転させる。彼の身体もまた、その動きにつられるように、その位置を換えた。ぶつ、と軍服の襟のボタンが外されるのを感じる。

 さすがにいい腕だ、とやはりそれでも冷静に彼は考えていた。目の前の相手の瞳の色が、ライトの光を反射して、昼間の光の下よりも、もっと金色に、メタリックに、つくりものめいて見える。

 それもそのはずだ、と彼は思った。彼は中佐が何であるのか知っていた。

 そして中佐もまた、この自分の組み敷いている下士官の正体を知っていた。


 彼らは、反帝国組織「MM」の幹部構成員だった。



 その昔一つの惑星の上で小競り合いを繰り返していた人類が、母なる惑星を捨ててから、その歴史の上では、大した時間は経っていない。

 少なくとも、まだ五世紀程度しか経っていないのだ。そして進歩もない。

 遠くへ遠くへ、と植民地を広げ、そこでそこなりに定住し、できる範囲の文化を広げ、そしてそれに一段落つくと、今度は隣の惑星に手を出す。

 そんなことが長く続いた果てに起きた戦争は、人類が真空の海に線を引っ張った中の権力構造を一気に変えた。


 すなわち、「帝国」の成立である。


 正確に言えば、「帝都政府」が人類生存圏全てを統括する状態である。

 それを文明上の後退と言ってしまうのはたやすい。だが、果たして、その「帝国」の「皇帝」が他の名前に変わっただけで、中身は大して変わらない、何とやらの主義を奉じた国が過去どれだけあっただろう?

 そんなものさ、と中佐はシガレットをふかしながら思う。

 そして「帝国」が存在する時には、必ずと言っていい程「反帝国組織」というものが存在する。

 彼らが所属していたのは、その中で最も巨大で、かつ、その正体が知れない集団だった。名称にした所で、実際に使われているかなど、正しい所は誰も知らないのだ。

 真空の海を飛ぶ無数の電波の中、組織の地下放送から、暗号名「MM」と言うことだけが、その盟主である「M」の口から発せられた。それだけは、確実だった。

 そして相応の意味が、各地に散らばる構成員によって想像され――― 口伝えに広がった中で「本当の名前」のように語られている。

 実際のところは、本当の名など、やはり誰も知らないのだ。

 そもそも組織は未だ、のヴェールに包まれまくりなのだ。幹部構成員の一人である彼も、今の今まで、こんな奴が、自分の同僚だとは全く知らなかった訳だ。

 そう、未だに中佐は、幹部構成員が実際には何人居るのか、知らない。直接知っているのは、盟主一人だった。彼を拾い、その命と引き替えに、銃になることを使命づけた、盟主ただ一人だった。

 少なくとも、今のところは直接その盟主の指令を受けて、任務を果たしていたのだ。

 だがどうやら、その体制は何やら変わりつつあるらしい。


 横では、つい二時間ほど前まで、その長い髪の毛を自分に絡み付かせていた相手が眠っていた。

 全く、と彼は思う。「キム・ルマ少尉」は、事が終わったと思うや否や、電池が切れたように眠りに落ちてしまった。

 倒れ込んだと思うと、次の瞬間には、軽い寝息を立てていた。

 さすがに中佐もそれには呆れた。無防備にも程があるというものだ。

 本当に幹部構成員なのか、と疑問すら抱きそうになる。

 だが無論、これは本物なのだ。

 手から伝わった識別信号は、その存在すら知られていない。一般の構成員にも。一般には一般のものがあるのだが、それとはまた別のものとは。

 ―――思考がとりとめもなくなっているのが判る。煙草をふかしながら、彼は読みかけの本に手を伸ばしていた。

 格別この挿し絵画家が気に入っているという訳ではない。手にとったのは、その中に描かれている風景に、ふと心が揺れたからだった。秋の風景だった。


 一面の紅葉。

 真っ青な空。

 祭りの風景。

 ―――彼の嫌いな光景だった。

 戻ることの出来ない光景だった。


 戻ることができないからと言って、彼はそれを追い求めるような性格ではない。過ぎてしまったことはどうあがいても戻って来ない。

 かよわい女のように泣き叫んで何かに許しを乞えば失ったものが戻ってくるというなら、そうしてもいい。そうすることが恥であるとは彼は思ってはいない。

 だがあいにく、そんな都合の良いことなど、この世界にはあり得ないのだ。

 失われたものは、二度と戻ってこない。こぼれたミルクは戻らない。泣き叫ぼうがあがこうが、それは過ぎてしまった時間であり、死んだ者は戻ってこないし、失われた名前は、口にされることはないのだ。


 現在の帝都政府を牛耳る天使種の中でも古参の者には、特有の能力の中に、ごくごく希に、時間をも越える者が居るらしい、とは聞いたことがある。だがそれにしたところで、ごくごく希であるなら、少なくとも自分には意味の無いことだった。


 ぱら、とページを繰る。

 そこには秋の光景秋の光景秋の光景。

 強烈な程、綺麗な青の空。

 そこに飛び散った血。襲いかかった炎。

 銃殺の広場。

 最期の景色。

 決して良い記憶ではない。だが別に忘れたいとは思わない。それは起こってしまったことなのだ。



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