死神と呼ばれた医者

諸星 永夢

死神

 桜の舞い散るさまを見下ろしながら、中年の男は病院の屋上の縁に立っていた。

遠くからかすかに、医者やら看護師やらが慌てている音が聞こえる。


―今更焦ったところで、もう遅いんだよ。


空虚な瞳でちらりと階下に繋がる扉を見やり、すぐに飽きたように視線を地上へと下ろした。


ギギッ、と古ぼけた扉の開く音がした。


扉からは40代くらいの、やや痩せたような医者が入ってきていた。

男は振り返らなかったが、誰が入ってきたのか、何故だかわかるような気がした。


「アンタか、俺の主治医の」


医者は少し近づいて、そうしてすぐ立ち止まって答えた。


「はい」


「俺を、連れ戻しに来たのか」


「いいえ」


男は怪訝な顔をした。


「じゃあアンタ、何しに来たんだ」


その問いには答えず、医者は尋ねた。


「あなたは、ここから飛び降りようとしているのですか」


男は少しの動揺も見せず返した。


「そうだ」


「それは何故ですか」


行動の意図のわからない医者を相手に疑問を感じながらも、胸の内を明かした。


「もう、わかってんだ。俺ぁもう死んでるのさ」


医者は淡々と返した。


「あなたの治療は順調で、事故等に遭わない限りすぐに死ぬようなことはないはずですが」


男は医者の的外れな答えを鼻で笑った。


「そうじゃあ、ねぇんだよ」


医者は黙って続きを促した。


「体の話じゃあない、心の話なのさ」


男は医者の方に振り返った。


「体が健康でも、心が死んでるんじゃあ、そいつは生きてるっちゃあ言わないのさ。アンタは腕の良い医者だ。おかげで俺もこの通り、こっそり病室を抜け出せるくらいになった」


そこで男は一度言葉を切った。

縁にあった一枚の葉が、風に吹かれて静かに落ちた。


「けどなあ、アンタは心を治す専門家じゃあねぇ」


医者は黙って聞いていた。


「だから俺ぁ、死神に会ってくるのさ。そいつぁ苦しみも悲しみも絶望も、心と命と一緒にばっさり切り捨ててくれる」


医者は男の話に違和感を覚えた。


「死神とは、死に導くものではないのですか」


男は苦い顔をして、誤魔化すように空を見上げた。


「ああ。そうだな」


流れる雲はその切れ間に陽を覗かせ、そうしてまた隠していった。


「少し、話をしてもいいですか」


医者が言ったが、男は答えなかった。医者もまた、返事のくることを期待していなかった。


「僕は、あなたのしようとしていることを止めるつもりはありません」


男は黙っていた。


「人はよく、自殺は良くないと、思いとどまれと、これから良いことがあると、まるで生きていることが絶対の正義であり、死は絶対の悪であるかのように言います」


灼熱の陽光は二人を照らし、その影を長く、暗く伸ばしていく。


「しかし、それは違うと思うのです。死を望む人に生きろと言うのは、生を望む人に死を突きつけることと同じだけの苦痛を、本人に与えることになるのですから」


「生は絶対の正義ではありません。そして死もまた、絶対の正義ではありません。本当に死にたいと願う人を無理に引き止め、生かすことほど残酷なことはありません」


「だから僕があなたに問うのは、一つだけです」


そうして改めて、医者は男の心に問いかけた。


「あなたは本当に、死を望むのですか」


「たった一度の、取り返しのつかない博打に望む覚悟が、あなたにあるのですか」


吹き抜けた風が、男の前髪をさらっていった。

そうしてそっと、目を閉じた。











 男はふと、自分の人生に思いを馳せた。


男は養子の身であった。

本人がそれを知ったのは十一歳の時だった。

自分が父母と思っていた存在が血の繋がらない人間だったことにひどく衝撃を受けたが、引き取られた家はあまり豊かではないものの不満はなく、そこまで悲嘆することはなかった。


しかし十三歳になったある日、ふと実の親というものに会ってみたくなった。

それを義母に伝えたところ、少し戸惑いつつも父母のことを教えてくれた。


その話によると、どうやら自分の父はもう他界しているらしい。

しかし、母はまだ存命で、起業家でありかなりの資産家とのことだった。


教えられた住所を頼りにおよそ十キロ離れた町へと足を運んだ。


はたして、そこに母の家はそこにあった。


真夏の太陽に肌を焼かれる中、滴る汗は陽光に照らされ輝いていた。

今にも破裂しそうな鼓動を抑え、インターホンを押した。


三秒、五秒、返事がない。


九秒、十秒、物音がしない。


炎天下だというのにも関わらず、背筋を伝う汗はひどく冷たく感じた。


そっと、震える手で扉に手をかける。


何故自分はこんなにも強ばっているのか、自分でもわからないことが恐ろしい。


ガチャリ、と、何の変哲もない音を立てて扉は開いた。

しかし自分には、それが本来ありえない音のように、虎が人の言葉を発したかのように不快に感じられた。


扉が開いている。何故か、開いている。


無意識の内に足音をひそめ、部屋の奥へと進んでいく。


一歩、さらに一歩。


居間へと続く扉を開けた時、はたして、母と思わしき人物はそこにいた。


長く手入れのされた黒髪、大きく見開かれた瞳、透き通るような白い肌。


見れば見るほど自然と血の繋がりというものを感じてくる。

この人が、自分の母親だったのか。


長く手入れのされた黒髪は紅い血に濡れ、大きく見開かれた瞳に光はなく、透き通るような白い肌に血は通っていない。


この人は、死んでいる。


自分が初めて会った実の母は、死んでいた。


何故、どうして。

そんな疑問よりも先に、心を暗闇が覆っていった。


何も考えられなかった。


瞳はただ、胸にナイフを刺された母を無意味に映し続けていた。






 あの日から自分は、ただただ母を殺した相手を探し続けていた。

友の一人も作らず、何の手掛かりもなく、亡霊が彷徨うかのように生きてきた。






 三十歳頃のある日、犯人を探す中、親戚でまだ生きている人がいることを知った。


それは自分の従姉妹だった。


彼女と連絡をとり、会えた時の喜びというのは、言葉にしようのないものだった。


実の母の死後を目の当たりにし、その犯人を探し、友もなく、誰も信用できなかった中、初めて会えた生きた親戚。


血が繋がっている、ただそれだけのことでこんなにも安心し、信頼できるものなのか。

初対面にも関わらず、決して他人とは思えなかった。


それ以降、この従姉妹だけが信用できる人となった。


十年、十五年と共に暮らし、事件の真相を追い続けた。


時に折れそうになる心を支えられ、真実を明かすことを夢見た。


従姉妹だけが理解者であり、たった一人の大切な家族だった。





―はずだった。






 丁度一年前だったか、自分は真相に辿り着いた。


疲れが溜まっていたにも関わらず、午前ニ時に目が覚めた。

寝惚け眼を擦り、ようやく焦点の合った瞳が映したのは。


―ナイフを持ち、今にも自分を殺さんとする従姉妹の姿だった。


咄嗟にベッドから転がり落ち、電気をつけた。


目の前にいるのは間違いなく、長年連れ添ってきた従姉妹だった。


命の危機を感じ、無我夢中でナイフを取り上げ、従姉妹を床に抑えつけた。


何故こんなことを、と訊いた。


従姉妹は当たり前のように言った、

「真相に辿り着きそうだったから」と。


従姉妹曰く、共に事件を追ったのは俺を真相から遠ざけ、誤魔化し、自分が犯人であると知られないようにするためだったという。


そうして今になってようやく気付きそうになったから、殺すことにしたのだと。


すぐに殺さなかったのは従姉妹としてのせめてもの気持ちだよ、と彼女は言った。


母を殺した理由は、ただ資産家である母の金が欲しかったからだということも。


その時、自分は人の悲しさを悟った。


我欲のために、人はここまで醜くなれるのだと。


実の母を殺したのは、実の従姉妹であった。


そうして自分も、その実の従姉妹に殺されかけた。


心の奥深くに穴が空いてしまって、そうしてそこに手が届かないような虚しさ。


自分がいる場所さえもわからず、意識は虚空を漂った。






 その後、従姉妹は自首をしたが、自分の心は何も満たされなかった。

自分は長年の疲労と絶望によってか喀血を引き起こし、町の道端で倒れた。

そうして病院に運ばれ一命を取り留めたが、もはや自分の居場所はこの世界のどこにもなかった。


―あの夜、何も知らないまま従姉妹に殺されていれば。


そんな思いばかりが、この胸を満たしていた。











 男は静かに目を開いた。

正面の医者と目が合った。

彼の問いにはもう、答える必要はなかった。


「そうか、アンタが―」


男は満足したように、吐息のごとく呟いた。


屋上から影がひとつ消えた。


舞い散る桜はどこまでも紅く、綺麗だった。

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死神と呼ばれた医者 諸星 永夢 @Ars-Ivel

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