気づいて、先輩

キナコ

気づいて、先輩


 加藤カズヒコがクリーンルームからそのまま出てきたようなツナギを着た女に気づいたのは、本格的な暑さを予感させる初夏の朝、勤務先のクォンタムテクノロジー社開発ラボへ出勤する途中だった。

 誰かを探しているのか、女は勤め先に向かって急ぐ人の列を熱心に見つめていた。官民取り混ぜさまざまな研究機関がひしめくこの界隈で、クリーンウェアのまま出歩くような非常識な人間を雇っているのはいったいどこなのかと、加藤はツナギの肩や胸や背中に目を走らせたが、組織を表すマークも社名も見つからない。顔立ちからすると東洋人らしいが、髪はブルーブロンドとでも呼べそうな奇妙な淡い色をしていて、どういう製法なのかどこにも継ぎ目の見当たらないツナギは、異星人かと思うほどに銀色に光っている。その妙に艶やかな光沢が地味なスーツの群れのなかでひときわ目立っていた。

 昼にラボの食堂で鯖味噌定食を食べながら、加藤はふと、朝に見た女を思い出した。どうせ素材メーカーが面白半分に作ったサンプルを学生気分の抜けない若い社員がふざけて着ていたのだろうとひとり納得して、仕事に追われているうちに、帰るころにはすっかり忘れていた。

 それでも翌日に、そしてその翌日にも、同じ場所でツナギの女を見かけるに至り、加藤は不穏なものがモヤモヤと胸に湧きあがるのを抑えられなかった。すぐにそらせたとはいえ、うっかり目を合わせてしまったことが悔やまれた。

 翌朝、女は駅前の歩道に座り込み、どこで拾ってきたのか薄汚れたキャリーバッグをデスク代わりに、型落ちのノートパソコンを開いていた。ブツブツとつぶやきながら一心不乱にキーボードを叩くその形相は鬼気迫り、いかにもいわくありげなその風情が、いつもの通勤の列に不自然な蛇行を生んでいた。その人流の中から、足早に通り過ぎようとする加藤を目ざとく見つけると、女はまるで古い映画でも観るような潤んだ瞳で加藤をじっと見つめた。その熱い視線が、女にまったく見覚えのない加藤の不安をいっそう掻きたてた。


「どこかの研究所でキャリアを潰されたメンヘルだろ」

「上司とデキて捨てられたらしいじゃない」

「彼女まだ新卒くらいじゃない? かわいそうに」

「うろついてるルートからするとクォンテク社あたりが怪しいな」

「加藤さんのことじっと見てたらしいよ、あの人イケメンだもんねえ」

「どうやら加藤氏のことを入り待ちでフォローしてるようですね」

「怖いなあ、リケジョ」

「カズヒコちゃん、やばい研究してるらしいからひょっとして産業スパイかも」

「画期的な研究らしいけど行き詰まってるって聞いたよ」

「あいつチームプレイが苦手だからなあ」


 自分がどんな仕事をしているかとか、どんな研究をしているかとか、そんなことを口外しようものならそれこそ未来を失うことになりかねない反動から、この界隈ではやたらと噂やデマが広がるのが早い。そして今まさにその最先端のトレンドが銀色のツナギ女だった。

 もちろんそれは加藤の耳にも入っている。どこから漏れたのか、噂は加藤の研究についても痛いところを突いていて、足踏みしていることへの焦りがいよいよ募っていた。見えているのに掴めないところがもどかしい。あと少し。しかし、その少しが遠かった。


 ツナギ女が現れて五日目の朝。

「加藤カズヒコ先生ですね、お時間は取らせません、少しだけ話を聞いてください」

 本社での早朝会議を終えていつもより遅くラボに向かっていた加藤の前に、銀の塊が立ちはだかった。風呂に入っていないのかブルーブロンドの髪が頭に貼りつき、唇は乾いてひび割れ、全身からすえたような匂いが漂っていた。

「わたし、ミカ・サディスと言います。遭難してるんです」

 幸い通勤時間を外れていて、あたりに人影は少ない。何も見ず、何も聞かなかったことにしようと、下を向いて通り過ぎようとしたとき、女がその場に力なくへたり込んだ。加藤はイケメンで臆病ではあるが、決して優しくないわけではない。

「きみ、大丈夫かい」

 しかたなく声をかけると、女が膝を擦りながらにじり寄ってきて、腕にすがりついた。

「お願いです。少しだけ話を聞いてください。損はさせません」

 いかにも怪しいが、潤んだ瞳で見上げる女の真剣さに嘘はないような気がする。フェミニストを自認し、周囲にも常々そう公言している加藤としては、頼ってくるホームレスの女を放ってはおけない。

「きみ、ひょっとして腹減ってるんじゃない?」と聞くと、みるみる女の目に涙が溢れた。


 いちばん近い喫茶店に入り、金を持っていないという女にスパゲティを注文してやる。

 コップの水を加藤の分まで一気に飲み干して「これを見れば先生の研究は完成するはずなんです」と言いながら女はキャリーバックからノートパソコンを引っ張り出して起動させた。使いづらそうにいくつかのキーを押し、無遠慮に加藤の腕時計で時間を確認すると、それを打ち込んでディスプレイを加藤の方に向けて差し出した。

「パソコンは差し上げます。私のことはこれ以降すっかり忘れてください。いえ、忘れていただかないと困るんです。研究が完成したらそれは先生おひとりの成果です」

 研究者なのか、どこに属しているのか、なぜこの辺りをうろうろしているのか、聞きたいことは色々あったが、注文したスパゲティが運ばれてきて、女の思考がストップするのがわかった。「絶対、完成させてください。お願いします」と言うが早いか、掃除機のような猛烈な音を立ててスパゲティを啜りだした。


「せんせぃ…究が……ぅま……いけば……三十分後……助……くる…です」

 

 口いっぱに頬張りながら喋るので、なにを言っているのかさっぱりわからない。食べ終わる前に、女が勝手にもう一皿追加した。

 パソコンのディスプレイには加藤が取り組んでいる馴染みの数式が表示されていた。興味深いのは、それにいくつかの変更が加えられているのと、新しい項が導入されていることだった。加藤は魅入られたように数式から目が離せなくなった。やがて女の立てる激しい咀嚼音が、あたかも輝かしい未来をノックする運命の音のように聞こえてきた。

「詳細についてはファイルにまとめてあります。先生なら理解でき ゲプ るはずです」一皿目を食べ終ると女はそれだけ言って、すぐに二皿目に取りかかった。ようやく食べ方が人間らしくなっている。

 おかわりのスパゲティも食い終わった女は満足げに喉を鳴らして水を飲んだ。それからひと息ついて「あらぬ噂を立てられる前に先生はもう行ってください」と、今度は用が済んだとばかりに加藤をせき立てた。そして「そのパソコンは盗品ですからファイルをコピーしたら処分しちゃってください」と付け加えた。

 奢りでメシを食っておいてあらぬ噂もないもんだ、しかもあれほど目立っておきながら、誰の注意も引いていないと思っているフシがあることに呆れる、おまけに盗品ときた。

 とはいえ、そんなことは加藤にはもうどうでもよかった。数式を眺めているうちにわかってきた。行き詰まっていた研究の解決の糸口がそこにあった。今までぼんやりしていたものが隅々まではっきり見えてきて、加藤の体は興奮で震えた。

 しかし、と科学者らしく冷静さを取り戻して考える。この式を使うとなると、女を共同研究者にするべきではないのか、と頭の片隅で小さく囁く声がする。一方で、こんな見ず知らずのホームレスは忘れろ、パソコンを持ってさっさと席を立つんだ、という叫びが頭の中に響き渡る。この女も自分のことは忘れろと、そう言ったではないか、余計なことは知らなくていい、ここまで研究を進めたのが誰であれ、早いもの勝ちだ。

 テーブルに一万円札を置くと「お釣りは取っておきなさい」と言い残し、加藤はパソコンを大事そうに抱えてそそくさと店を出た。イケメンで臆病で優しいが、加藤はなにより名誉欲と独占欲が強かった。


 ミカは大きなげっぷをひとつして、加藤の後からゆっくり店を出た。

 急ぎ足で逃げるように遠ざかっていく加藤と入れ違いに、銀色のツナギを着た背の高い男が近づいてくる。その姿を見つけたミカが全身に乙女を爆発させて「センパーイ!」と叫んで駆けだした。

「ミカ! 無事でよかった。二〇二一年六月十五日十時三十二分、喫茶黒船。ぴったりだ」

「さすがです、先輩」ミカの頬が紅潮する。

「疫病禍の二〇二一年オリンピック見物が目的だったから、迷子になるとしたらここ半年前後だろうって考えててピンときたんだ、加藤のテレポート理論が二〇二一年の発表だったって」うんうんとミカが嬉しそうに大きく頷く。

「量子テレポーテーションは空間では加藤の理論でうまくいくんだけど、空間から時間に拡張するとどうしてだか無意味な定数項が出てくるのは知ってたんだろ。それを無視すればうまくいくことがわかってるから最近はその定数項を抜いた形で教わるんだけど、クサイと思って調べてみたら、案の定、無意味な定数項ってのは時間座標と位置座標だったってわけだ。おまえが加藤カズヒコに直接会って紛れ込ませたんだろ」

「まったくビンゴです。先輩ならきっと気づいてくれると思ってました。でも、これって、過去変でまずいことになるでしょうか」

「心配するな。世界なんてタイムパラドクスが起こるたびに分岐してどんどん重なっていくだけなんだから。時空ってのは想像以上に柔軟なんだ。それにしても、量子化してないコンピュータでよくあれを計算できたなあ」

「そりゃもう必死でした。先輩が来てくれなかったら帰還ルートがわかんなくてオーパーツになっちゃうとこでした」

「バディを遭難させたとあっては伝統ある歴史探検部にあるまじき失態だから俺も焦ったよ。とにかく無事でよかった。さあ、帰ろう」そう言って先輩がミカに歩み寄ろうとしたとき「あっ、ダメです。それ以上近づいてはダメです」ミカが慌てて手を振った。

「なんだ? やばいウイルスでも拾ったのか?」

「違います。そういうのとは違います」

「ならいいけど。それより……おまえ、匂うな」

「そんなことには、気づかなくて、いいです、先輩」


 銀色の二人は、ちょっと離れて、仲良く未来へと消えましたとさ。

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