12月4日 無防備の極みへ
両手がふさがっている状態は怖い。体の中で最も器用に動く部位が使えないという時点で、勝ち負けで言えば負けの状態に近い。
武器類は拳の延長線上にあるものなので、それで両手が使えなくなっていたとしてもふさがっているとは言えない。むしろ強化されている為、勝ち負けで言えば勝ちである。
12月4日、金曜日。明日は父がショートステイから帰ってくる。どんよりとした曇り空がおれの心境を表しているようだ。
14時、近所の薬局に頼んでいた母の座薬が仕上がった。てんかんの発作が起きた時に使うものである。調剤薬局は家から徒歩5分の距離。母の発作さえ気にしなければいつでも行けるが、なかなか目を離すタイミングがない。トイレに行くのもかなり神経を使う。
母は日中、大半の時間熟睡している。起きているのは食事の時くらいだ。就寝前に服用するてんかん防止の薬が効きすぎているのかもしれないが、発作を起こすよりは眠っていた方がいい。
リハビリ後に昼食。食べながらポロポロとこぼす。ほぼ眠っているようだ。それでも薬を飲ませなければならないので、必死に食べさせる。
2時間後、熟睡しているのを確認し調剤薬局へ。座薬の使い方の説明をされそうになったので「大丈夫ですできます問題ありません」の一点張りで乗り切る。家に母しかいない今、早く帰らないと不安なのだ。
調剤薬局の向かいにサンドイッチ屋がある。ここのソフトクリームは母の好物なので買って帰ることにする。
左手に薬の袋、右手にソフトクリーム。いい歳こいたおっさんがソフトクリームを手に歩いているだけで通報案件ともいえるが、なんて無防備なのだろう。なんでこんなに不安になるのだろう。この不安は利き手がふさがっていることの心理的な抵抗が発露しているように思われる。原始の時代から受け継がれてきた狩猟者としての血が危機を知らせているのだ! たぶん勘違い。
もしここでヤカラなり恐竜なりが突っかかってきたら退けるなり退くなりしなければならないが、いずれにせよ右手に持ったソフトクリームがそれを許さない。緊張感に欠けることこの上ない絵面であるし、421円の白くて冷たい武器はふわふわなので敵にダメージを与えることはない。ダメにも程がある。
そもそも自分が何と戦っているか分からない。恐竜に出会うこともなく家に着いた。起きていた母にソフトクリームを見せる。さぞかし喜んでくれるだろうと思っていたが、眠そうにしているだけだ。もしかしたらソフトクリームが好きだったことも忘れているのかもしれない。
実際に口にしても、ほぼ眠りながら飲み込んでいる。3分の1も食べることなく再び眠りについた。かなりがっくりだが、全ては病気が悪いのだ。母のせいではない。
保存もできないので、余った分を食べることにした。冷たいが美味しい。美味しいが冷たい。どちらかというと後者の印象だ。せめて喜んで食べてくれれば良かったのにな。
それにしても薬の効きすぎというのは恐ろしい。ついには食事の時も起きないようになった。仕方なく無理やり起こして少しだけ食べさせ、なんとかして薬を飲ませている。
また、水分の摂取が全く足りなくなった。起きていないのだから当然と言える。これにより、喉に痰が絡むようになってしまった。これがひどくなると死因になりうる。
夜中の3時に乾いた呼吸音がしたので慌てて起きたが、こちらの「吐き出せ!」という指示に従わない。起こしたところで脳は眠っているので言うことを聞いていないのだろう。
往診に来てくれた医者の話では「一週間くらい経てば体が薬に慣れる可能性がある」と言っていたが、あくまで可能性。もちろんそれを飲まなければ発作の起きる確率は格段に高くなってしまう。迷いどころだ。それでも今は薬を飲んでもらうしかないのだろう。
で、現在18時。13時の訪問入浴を終えてから一度も目を覚ますことなく眠っている。血糖値を測り、医者に報告。最悪薬さえ飲ませることができればなんとかなるかなと思ったが、「誤嚥の可能性が高い」とのことで薬も飲ませず。
痰で呼吸が苦しそうだったので、口を無理やり開けて手で取った。今晩は眠ってはいけないのかもしれない。今は安らかな寝息を立てている。起きる気配はまだない。これも無防備と言えば無防備、おれが見守らなくてはならない。
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