12月2日 退院日

 ストレッチャーに乗せられた母と共に退院する時、見送ってくれた看護師さん達にお礼を言った。


「ありがとうございます、また来ます」


 ちょっとモテた。居酒屋ではないんだからまた来ますはないだろう。


 12月2日、水曜日。雨。冷たい雨が昼から降り出した。母の退院日である。今年何回目の退院かもう忘れた。確認するとなんと6回目の退院。


 退院時における待合室での手持ち無沙汰はなんと表現したらいいものか。暇だったので、「今回の入院費は10万程度かな」と予想し、財布から大雑把に取り出した現金を数えつつなんとなく前を見ると、主治医の後ろ姿が遠ざかって行くところだった。


 話しかけられないで良かったと思う。もし話しかけられていたら現金を手にしたまま挨拶していたに違いない。その際のセリフはこういうものになるだろう。


「生々しくてすんまへんな。銭っ子あらへんねん、ほんまに」


 世の中にこれほど品のない挨拶はまたとない。危うく貴重な体験をするところだった。


 コロナのせいで面会ができない。なので母と顔を合わせるのは2週間ぶりのこととなる。ストレッチャーに乗せられ待合室に来た母は、おれの顔を見て兄の名前を口にした。

 兄でないですよ、次男ですよと言っても通じない。また、話もかなりぶっ飛んでいる。


「広島のおばさんに電話がかかってきて」


 などと言っているが、広島に血縁者はいない。そういった突拍子もない内容の話が断片的に続く。「賢一か、賢一が迎えにきてくれたのか」とおれのペンネームを連呼し出したのは、家のベッドに寝転がせてから20分後のことだった。


 それから3時間後。訪問看護の女性二人が来てくれた。母は早速看護師さんの名前をバリバリに間違えている。向こうも事情は分かっているので笑って済ませてくれた。


 初日は誤飲が怖いので、おかゆ系を食べさせてあげてくださいとのこと。だがすでにシャバ飯として、兄が大トロのみのお寿司を買ってきていた。


「これ食べさせていいですかね。シャバ飯なんで」


 とそれを看護師さんたちに見せたところ、「何年も食べてないですね、こういうの」「これなら口の中で溶けるんじゃないですか」とリビングが変な盛り上がりに包まれる。


 ベッドサイドに腰掛ける練習をしてみた。かなり辛そうだ。初日ということもあり、ベッドの角度を変えて食事をしてもらうことにした。こうなるとこちらの腰が少し辛いがなんとかしなければ。

 ついでに、自分で歯磨きをするのも無理だった。市販の口腔洗浄剤でどうにかなるものだろうか。


 訪問看護、明日はお昼頃来てくれるそうだ。実際にどんなものを食べているか、どんなものなら飲み込みやすいかを判断してくれるのだが、かなり抵抗感がある。食事を介護する場面というのは、うんこ掃除と並んで最も湿度の高い場面である。勧進帳で言えば弁慶と富樫のぶったりわかっちゃったりするところであり、介護者の腕の見せ所かと思われる。早い話がお涙頂戴の世界。


 だがそれはあくまで文字面だけの話であって、実際に見られたりすると緊張する。介護者は小心者なのだ。手元を間違え、スプーンを歯茎に激突させてしまわないかといったことを恐れている。


 もしそれが一回の食事の中で何度も続くとどうなるか。「虐待発見! 110番!」である。一度意識し出したらもう緊張ノンストップ。

 けどそれも演出次第でどうにかなるかもしれない。部屋を暗くしておいて食事の場面にスポットライトを当てるのだ。BGMに拍子木を流しておく。こうすればスプーンが歯茎にぶつかった場合でも、看護師はなんか勝手に察したりわかってくれたりするはず。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る