Kアラート鳴り響く時

 ご存知のようにKアラートというのは桑原家の警報である。

 Kには複数の意味が盛り込まれている。クソ、こんもり、賢一やれがんばれ、こんな時にいい加減にしろ、カクヨムのPV上がらねえな等だ。


 11月10日、火曜日。晴れ。少し寒いが乾燥しているので洗濯物がよく乾きそうだ。それだけで少し嬉しくなる。


 朝7時、母の食事を行い、洗濯機を回す。やはり晴れている日の洗濯は気分がいい。2階のベランダで洗濯物を干している時にKアラートが鳴った。階下のボタンを押すとピンポンと鳴るシステムを以後Kアラートと呼称する。


 どうしたどうしたと階段をバタバタ降りると、兄が母のベッドの前で突っ立っていた。


「クソが出たらしい」


 アラートやむなし。よし任せろと腕をまくり、アップルウォッチ様を放り投げる。左腕の痛みはまだあるが今はそんなことを言ってられない。


 ズボンのチャックを下ろし確認すると、それはもうこんもりと。背中の方までこんもりと。酸化マグネシウム服用時に大量の水を飲んだのが功を奏したのかもしれない。功を奏したというのは、これで座薬を打つ必要がなくなったからである。前日の日記の次次回予告はガセ予告でした。


 普通、こんもりとしたブツはパッドに収まるようになっている。パッドに収まり切らないものは紙おむつでカバーする。安全安心の2段階バリアーをたやすく破って背中にまで到達している場合、こういう時はどこから手をつけたものか。


「何か手伝うか」


 兄が声をかけてきた。おれの「こっ、こいつはやべえぜ」というゴキゲンな独り言が聞こえたのかもしれない。


「応援だけでいい」


 まず、背中を拭く。汚れが少ないところから綺麗にし、いざ紙おむつご開帳。


 ダム、すでに完全決壊。土砂大量噴出。お近くの避難所へ避難してください。アラート、アラート。不要不急の外出はお控えください。


 助けを呼ぶか。誰にだ。おれの頭の中で会議が始まった。


「至急、自衛隊に救援要請を!」


 市長が青い顔で叫んだ。そうか、自衛隊という手があった。


「自衛隊は暴力装置だ」

「市民の賛成が得られませんぞ」

「そんなこと言ってる場合か」

「市民の命が最優先に決まっているだろう」


 議場が騒がしくなってきている。市長は固く青い顔のまま力強く宣言した。


「いや。無理。呼ぶ。誰か104番に電話して自衛隊の電話番号聞いておいて」


 このようにして市長の独断により、自衛隊への救援要請が決定したのである。




 呼べるか。こんなことで自衛隊呼べるか。うんこが出ないならともかく、うんこが出たのだから良しとして、あと必要なのは介護する側の気合と技術と覚悟とポリ手袋とビニール袋と替えのおむつ類とお尻拭きとトイレットペーパーとペットボトルのお湯と着替えのみである。多いな。


 まずは古新聞を広げ、おむつの下に滑り込ませる。この時母には右側に寝返りを打ってもらっているので、体の左半分に楽に新聞を敷くことができた。あとは左側に寝返りを打ってもらい逆方向から新聞を引っ張るだけなのだが、ここで常軌を逸した邪魔が入る。


「その新聞まだ読んでない。いつのだそれ」


 父が訳のわからないことをほざき始めた。彼氏、まだ読んでないと断言しつつ日付は把握していない。母がしんどい思いをしているとか息子が修羅場であることは、自分の娯楽以下のことであると表明したわけだ。

 何の感情も沸かない。ただこれが終わったら殴るか蹴るかするだろうなと自分でわかってしまった。今は母のことに集中しているからいいが、その後のことを考え、腹の底が冷えた。


 ここからは慎重に。幾重にも敷いた新聞紙の上三枚ほどを丸めてポイ作戦だ。母に寝返りを打ってもらい、慎重に、丸めて、ポイ、で破れた。絶妙なタイミングで新聞紙が裏切った。使えねえな東京新聞。多分こいつらのアカい主張に反して自衛隊を呼ぼうとしたから裏切りやがったのだろう。三重にしていた意味、全くなし。

 だが運よく広げていたビニール袋の中に土砂はごっそりと落下。思わずガッツポーズ。この時点で8割がたの土砂撤去は完了。

 その後隠部洗浄、パッドと紙おむつを装着。新しいズボンに履き替える。今日は訪問入浴があるのでそこまで汚れは気にしない。


 一通りの作業を終え、壁の時計を見上げる。8時35分。だいたい30分ほど作業していたことになる。母には大変な思いをさせてしまった。もっと上手に掃除できるようにならなければ。緊張感からの解放か、左腕に痛みが戻ってきた。忘れる前に、ゴミを入れたビニール袋を父に放り投げる。


「読みたければ勝手に読めハゲ」


 暴力に比べれば、これくらいは許されるだろう。デイサービスに送り出すから今日はしばらく顔を見ないで済む。


 出勤前の兄が、いきなり最上級の言葉を放ってきた。


「おまえ、すげえな。尊敬するわ」


 おれとしては責任を果たしただけであり、ことさら感謝される筋合いはない。東日本大震災後の岩手県へボランティアに向かったのと同じ心持ちだ。お酒美味しかったし。牛タン美味しかったし。岩手のパチスロで16万ほど勝ってしまったし。


 落ち込んでいる母に、明るい声で昼食に何を食べたいか聞いた。息子に大変な思いをさせている自分を責めているのだ。それはもう気にしないでいいと何回も言っているが、どうしても気にしてしまうのだろう。


「気にしないでいいって。何か食べたいものは?」

「悪いねえ。じゃあ納豆そばかね」


 よりによって一番食べさせにくい麺類の、さらに食べさせづらいひきわり納豆乗せ。どうやって食べさせようかと思わず眉間に皺が寄る。そこはもう少し……気を使ってくれてもいいのよ?

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