介護リモートプレイ

 10月30日、金曜日。曇り。今日は往診があるので父が一日中家にいる。おまけに明日からのショートステイの準備をしなければならない。倍の苦労をする日である。


 朝4時、母のうんこを処理。少しコツが掴めてきた気がする。素直に指示に従い寝返りを打ってくれるのでまだ楽なのだろう。これが父なら絶対にスムーズにはいかない。


 朝食、母は7時。父は7時30分。この30分のズレを利用して母の食事を済ませる。

 テーブルの上を比較するとなんとなく面白い。母のベッドサイドテーブルには食事が並んでいるのに対し、この時点の父の食卓には注射器や薬、血糖値測定器など。ディストピアの食事かアンドロイドのメンテナンスでも始まるのかと思わせる。

 母もパンなどは手で持って食べられるが、サラダ類は介助が必要。本来ならこぼす可能性が高いサラダは出さない方が良いのだけれど、たっての希望なので供せざるを得ないのだ。


 食事の介助は傍目には悲劇的、お涙頂戴の名場面に映るだろうが、我が家の場合はそれほど苦にならない。

 最大の理由は、ベッドの高さにある。高くすればするほどこちらの負担は減るのだ。だが昨日の昼食はその操作を忘れ、中腰の姿勢で食事の介助を行なっていた。ああ腰が、腰が! まあ戻ってきた初日だから仕方がないところである。なんにせよ、食事の介助は苦にならない。

 それに実際に大変であっても、苦にならないと思い込んでいた方が何かと都合がいい。


 母の口にサラダを運んでいる最中、隣の和室で物音がした。父が起きたのだ。兄がいたのでそちらをお願いし、食事を進める。時計は7時10分を指していた。30分までまだ余裕がある。


 ところが父は食卓へやってきた。「まだ貴様のエサの時間ではない」と“待て“をさせる。

 しかし兄が気を利かせてくれたことにより、混乱の芽がばら撒かれたのである。血糖値を測るのはどれでやるんだっけ、注射の数値はいくつだっけ、スープはこれでいいんだっけと逐一おれに確認をとってくるものだから、こちらとしては頭をかきむしる以外にすることがない。

 プレイステーション4のゲームをiPadでリモートプレイする時ってこんなだっけかと思いながら指示を出す。「Hey、Ani」で起動する音声入力介護システムだと思えばいいのか。


 7時25分に母の食事が終わり、薬を飲ませたところで父の食事へ移行する予定だったが、もう食べ終わった後だった。念の為、食事の前に注射は打ったか父に聞いた。


「お前が打ったんだろう。頭大丈夫か?」


 それどころか右手で頭を指し、くるくると人差し指を回した。ユーモアや冗談で言っているのではない。こういう老人なのである。家族を攻撃する口実を探す為に生きているのかとさえ思う。注射を打った人間の顔すら見ていないあたり、いかに家族を軽んじているかが見て取れる。


「いや、大丈夫ではないが」


 おれは真顔で返し、言葉を続けた。


「大丈夫なわけないだろう。この状況を見てそんなことも分からないなら家から出てけハゲ」


 我ながら余裕がない。この後は母の訪問看護、ヘルパーが来てくれる。そこで少し余裕を取り戻せればいいのだが。


 それはともかくとして、積極的に母と会話を交わしている。残念なことに、日に日に勘違い、もしくは失念の回数が増えてきてしまっている。急に「右手につけていた青い輪っかはどこへ」と話し始めたものだからこちらとしては困惑する一方だ。


「青い輪っか?」

「違うよ。黄色い指輪みたいなの」

「ああ、それは病院に返却しておいた」


 何のことを言っているのかは全くわからない。ただこちらとしては理解したふりをしてもっと多くの言葉を引きずり出すつもりでいる。話さなければもっと衰えるだろうし、思い出さなければ更に忘れる速度は早まる。


 北海道に住んでいる母の友人から荷物が届いた。その旨を報告したところ、母は遠い目をしながらボソボソと色んな人の名前を呟き出した。


「タイガーヤンキーボウルさん(仮名)はどこの人だっけ」

「知らない。ジャガイモを送ってくれたのはタンドリーメロンさん(仮名)。札幌で同じマンションに住んでた」

「ああ、あの人だ。なんで忘れてたんだろ。芋天宮三代目さん(仮名)はどこに行ったんだっけ」

「まだ地元にいるだろう」


 まだ全部の記憶が消えているわけではない。いきなり知らない人の名前が出てくるのも仕方がないのだろう。

 しかし痛感したのだが、調子を合わせて会話しているとこちらの言葉も怪しくなってくる。そこは気をつけなければ。


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