母の帰還
10月29日、木曜日。快晴。母の退院日だ。
朝6時20分、母から電話がかかってきた。
「いつ来るの? 今日だよね?」
確かに退院は今日だけど、夜逃げじゃあるまいし朝6時に退院はしないだろう。今回は車椅子ではなくストレッチャーでの帰宅になるので、玄関の邪魔になりそうなものを片付けまくる。
これが思ったよりも大変だった。父の昇降用に簡易手すりを設置してあるのだが、手すりであるから動かすことは想定しておらず、容赦のない重さになっている。そしてまた手すりであるからどこでも持ち手はあるのだが、どこを持っても底の尖った部分がすねに当たりまくる。「骨いわしたろか」くらいの威力で容赦のない攻撃を仕掛けてくるので、一歩進んでは降ろし、また一歩進んでは降ろしとやっている間に出発の時間になった。
介護タクシーに同乗して帰るので、徒歩かバスで移動。晴れているから徒歩にした。3キロほどの散歩は気持ちを軽くしてくれる。
先日書いたはちま……児童売……厳かな雰囲気の神社の前の歩道橋を登っている時、また母から電話。
「いつ着くの?」
あと20分ほどと伝える。一刻も早く帰りたいという意欲であふれている。いいことだ。
病院に到着。汗だくである。入り口の体温測定でピンポンが鳴り響いて叩き出されることを心配したが、杞憂だった。
病棟のロビーで、いつものように薬の説明と家に帰ってからの注意を受ける。パーテーションの向こうの席からは「なるべく家から遠いホスピスに入れよう」といった話が聞こえてきた。
今回の会計は8万円と少し。約3週間の病院機能付きショートステイと考えれば驚くほど安い。そうこうしているうちに介護タクシーがストレッチャーを押してやってきた。見送ってくれた看護師の皆さんに
「お世話になりました。できたらもうお世話になりたくはありませんが、もしまた入院するようなことがあったらよろしくお願いします」
と余計なことを言い放ち、モテながら退散。久しぶりに建物の外へ出た母の第一声は「空が青くてきれい」だった。
バタバタと食事を済ませ、熱いタオルで顔を拭いてやると、母は「よし、元気出た。立とう」と言う。手を貸してやったがやはり立てない。医者の話を統合すると、恐らく今後立てることはないはずだ。
悔しがる母に「入院で筋力が落ちているんだよ。じきに立てるから慌てずに頑張ろう」と励ましの嘘をつく。
13時に訪問看護が来てくれた時、ちょうど大便の掃除をしようと手袋をはめていた。回数をこなさなければ上達しないのでやる気でいたが、彼女たちの熱意に押される形で傍観することにした。本人の感覚とは裏腹にパッドの中はきれいなままだった。
「介護で一番大変なのはやはり下のお世話です。お母さまに笑って過ごしていただく為にも、息子さんが疲労するのはまずいです。その為に私たちはいるのですから」
まあそうなんだけど……。おれがやらないとダメな気がする。
「主治医からは何か言われましたか? 今後のことについて」
と聞かれたので廊下に呼び出し、余命半年であることを告げた。いろいろ相談し、励ましてもらった。モテ期の到来である。
訪問看護さんが帰った後、母は「トイレに行く」と言った。モゾモゾと動き、足を下ろそうと試みている。
「まだ立てないって」
「けど漏れそうだから」
「悪いがベッドの上でそのまま漏らしてもらう。その為に準備はしてきた。問題なし」
先ほどは不発に終わったが、今回はしっかりと出ていた。我ながら段取りや作業がモタモタしてるなあと思ったけれど最初のうちは仕方がない。
やはり母は泣いていた。子供にやらせるのが忍びないのだろう。
「けど、おれも子供の頃にこうしてもらっていたんだから」
「それは親の義務だから……」
「義務感だけでないのは、おれも同じだ」
だから気にするなと改めて伝えた。
初日はなんとか平穏に終わりそうだ。間も無く父がデイから帰ってくる。80歳の問題児が何も起こさなければいいのだが。
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