現実
病院へ手紙を持っていった。10月20日、火曜日。
ナースセンターに顔を出すと、看護師がおれに言った。
「主治医から話があるのでしばらくお待ちください」
やがてやってきた主治医とともに、診察室のような所へ入室した。
パソコンには、10月8日に撮った母のMRIの写真が表示されている。2枚の写真を見比べながら、主治医は説明を始めた。
「腫瘍が大きくなっています。その為に右半身を司る領域を押してしまい、麻痺が出ている状態です」
何も言えなかった。8月の最後に撮影したものでは小さくなっていたのに。喉がガラガラする。
「私達も想像できないような速度で大きくなっています」
「開頭手術はやはり難しいですか」
主治医はしばらく黙り込み、問題はその後ですと小さい声で言った。
「手術はできます。その後、おそらく寝たきりになります。それをご本人が望まれているかどうかによると思うんですね」
ただ床を見つめる。一度は良くなっていたものが前よりもひどくなってしまったという現実に、ただ固まっていた。
「難しいのですが、あと半年は難しいと思います」
難しいを繰り返す意図は分かった。やっとの思いで言葉を出すと、まるで自分のものではないような気がした。
「半年ですか」
「難しいですが……。終末期と言われる状態です」
「いつ退院はできますか」
「退院はいつでもできます。もう点滴も打っていません」
その後、急に重たい話をしてすみませんと侘びつつ主治医は去った。入れ替わりに担当看護師さんがきた。
「どうされますか、これから」
「家に戻します」
「前よりもお体は動かないので、かなり大変だと思いますが……」
「食事の介護とかですよね。それもやってましたから多分なんとかなります」
「夜も相当大変ですよ」
「だと思いますが、家に戻します。それが母の希望になっているので」
ヘルパーと訪問入浴の回数の増加など、要望を伝える。看護師さんがおれに言った。
「息子さんは困ったことはありますか」
「ええと」
言葉に詰まる。本当に何を言えば良いのか分からない。どのようにこの不安を伝えれば良いのか分からないが、とりあえず言葉にしてみた。
「父がいます。今はデイサービスに行ってます」
「お二人の介護をしてらっしゃるんですものね」
「この聞き方はもしかしたら卑怯かもしれないんですが、父には余命のことを伝えるべきでしょうか。看護師さんならどうされますか」
この聞き方はどうかと思うし、予想通りの答えしか返ってこないことは分かっている。
そしてやはり予想通りの答えが返ってきた。
「私の立場ではお答えしづらいです。申し訳ありません」
「いえ、私の質問が間違えてます。すみません。混乱しているようです」
非礼を謝り、次の質問に移る。
「ベッドの上で大便を漏らした時、どうしたらいいのか教えてください」
いつもはうんこと言っていたが、そんな余裕はもうない。
「それは退院前に一緒にやってみましょう。普通はホスピスに入ってもらうのですが、ご家族のそのご意思をムダにはできません」
この時、看護師の声が少し震えた気がした。仕事でずっと死を見つめている人でも動揺することがあるのか、それとも同情からの演技なのかは分からない。
席を立とうとして、母への手紙を渡し忘れていることに気づいた。看護師さんにお願いするついでに、母の携帯電話を操作してもらい、おれに電話をくれるように依頼した。
ロビーで少し待つと、母から電話がかかってきた。
「具合はどう?」
「悪くないね」
「なら来週退院ね」
「え、本当に!?」
「本当に。日程を兄と詰めるので、もう少し時間をもらうことにはなるけど」
母は嬉しそうに「わかった」と笑いながら返事をした。
最後に絶対聞いておかなくてはならないことを聞く。
「何か食べたいものは?」
「別にないねえ」
「なんでもいいよ。また看護師さんに電話してもらうから、その時までに決めておいて」
電話を切ると、先程の看護師さんがやって来た。
「お母様、すごく笑いながら手紙を読んでましたよ」
「そうですか。良かったです」
本当に些細な内容の手紙だ。取り寄せたお菓子、兄が全部食べてしまったから買い直させます、といったような。
現実は厳しい。とても厳しい。何回も緊急入院して、今回も大丈夫なんじゃないかと思ったところにカウンターを入れられたようなものだ。こちらに覚悟が足りなかっただけの話ではあるが。
おれができることと言えば、いつものように一度言葉にし、今日の出来事を振り返ること。兄に伝えなくてはならない。
兄との情報は共有しなければならないが、父に伝えたものか、伝えないものか、それをずっと悩んでいる。
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